国際法学者 国際反核法律家協会副会長 国際文化法律家協会副会長
ヴ ァ ル ガ ス 氏  の講演

  目 的日本反核法律家協会主催コスタリカ訪問団のための特別レクチャ−講演と質疑
日 時2000年9月25日 午後5時
  
会 場コスタリカ  メリア・コンフォ−ト・コロビシ ホテル会議室
  
ヴァルガス
 皆さん、こんにちは。今、二言だけ日本語でお話しさせていただきます。「ホンジツハ、オコシイタダイテアリガトウゴザイマス」。(拍手)
皆さんきょうはお越しいただきましてほんとうにありがとうございます。 きょうの午後、このように皆様と一緒にお時間を過ごせますことは、ほんとうにこの上ない喜びです。
 コスタリカは非常に小さい国でございまして、コスタリカの面積といいますのは、九州と四国を合わせたぐらい、日本の国ではその小さい島を合わせたぐらいの面積しかございません。この小さい国ではありますけれども、ここまでお越しいただいた皆さんに感謝いたしたいと思います。
 この小さい国の中には、三百五十万人の人口がございます。このコスタリカという国がございます中米地域なんですけれども、過去五十年にわたりまして、非常に紛争が多い地域でございました。皆さんもご存じのように、政治的、社会的、あるいは経済的に、いろいろな面
で紛争に悩まされてまいりました。
 この中米地域といいますのは、皆様もご存じのように、グアテマラにしても、エルサルバドル、ニカラグア。ニカラグアに関しては、七十年以上もの間だったんですけれども、またホンジュラス、そういった国々が随分長い間、紛争に悩まされてまいりました。同じ地域にありながら、コスタリカはたった三百五十万人という小さい国ではありますけれども、このような紛争の影響を受けずにきた国でございます。なぜだったんでしょうか。そのなぜを、これから皆様とお話しさせていただきたいと思います。
 この紛争の多い中米地域の真ん中にありまして、コスタリカが何も影響を受けずにきた要因の一つは、昔からなんですけれども、このコスタリカという地域、この中米地域がコロンブスの到着によって、またスペイン人の植民地政策によって、植民地が始まった時点から、その昔からの影響が考えられます。
ここの中米地域、コスタリカの地域が植民地が始まりまして、いろいろ開拓されてきたわけなんですけれども、ここで植民地になった後、政治的な歴史の上でコスタリカは非常に特異な歴史を歩んでまいりました。これは幾つかの点で日本とも共通する部分があるかもしれません。
 コスタリカは、一五〇〇年ちょっと過ぎたころのコロンブスの四回目の旅で発見されたということになっております。この発見後、スペイン人が植民地化しようとしてたくさん到来したわけなんですけれども、一八二一年にコスタリカが独立しますまで、非常に恵まれた地域というふうに呼ばれておりました。
といいますのは、スペイン人は確かにたくさん来て、植民地政策を続けたんですが、ここは何しろジャングルに囲まれた、当時は非常に貧しい地域でございました。スペイン人の目を引くようなものが何もなかった、そういうわけで、かえってその締めつけがここまで到来しなかったんですね。ですから反対にそれが幸運で、軍隊あるいはそういう軍備の強要や、あるいは奴隷制度などもここまではやってきませんでした。
 この恵まれた環境といいますのは、コスタリカだけのもので、ラテンアメリカ、南米全体を見ましても、ほかの中米諸国を見ましても、これほど恵まれた環境にある国はほかにはありませんでした。この締めつけ、スペイン人の植民地政策といいますのは、個人として、あるいは民主主義が全体として発展をしていくことを阻んだ結果になったわけです。
これらを通してコスタリカは、ほかの国とは全く違った環境が発展していきました。このベースになったものはまず民主主義、民主主義と呼ぶ前に自由を享受するというところから来たと思います。
このコスタリカの地域では、いろいろな政策を批判するということが自由に行われてまいりました。また人権の保護ということも、人々の自由によって守られてきました。それからまた、軍隊を拒絶するという自由も得てまいりました。この自由を享受する、自由を望んでいく、この姿勢がコスタリカに確立されてきたわけです。
 このコスタリカ人として感じる、コスタリカを感じるということですね、これは一番最初に、できてそのまま何も問題なく育ってきたわけではありません。形成の過程にはいろいろな戦いがあったわけですね。その戦いというのは、もちろん政治的、社会的な意味を含めてです。
 一八七一年の時点で、コスタリカはいわゆる中米一の軍を有しておりました。これは、オーストリア人がオペレーションをしていたんですけれどもその当時、十九世紀の終わりですが、北米からニカラグアを通して侵略政策をかけてきた軍団がございました。この侵略政策、その戦争については、また後ほどもう少し詳しく言いますけれども、この侵略があったときに、コスタリカ人は、それまで掲げていた民主主義、それから自分たちが享受してきたこの自由、これをなくしてはならないという、これを守るために立ち上がったわけです。
この一八七一年にコスタリカは、ほかの国、日本も含めてですけれども、ほかの国と同様に、初めて国際紛争というものに直面したわけなんですけれども、このときに当時のコスタリカ人、それから、今なおもって私たちの考えに根づいている考え方が生まれたわけなんですが、それは、この紛争というものは軍備をもって解決するのではない、ほかにももっと違う解決の仕方があるはずだという考え方です。
このように早い時期から、戦争を回避するに当たって、また民主主義を貫くのに当たって、コスタリカ人が必要だと思ったのは、まず、会話、和解そして国際的な権利の主張、これらの利用によって戦争を回避していくことができると考えたわけです。
このように早い時期から、私たちは解決方法を、ほかの国とは違った形で考えてきたわけなんですけれども、その解決手段を見つける基本の手立てとして、私たちは教育に力を入れてまいりました。
  教育を通してこれらの会話、あるいは対話、和解、それから国際権利の主張などのような、このような使い方を教えていく、これを利用することができるということを教えていく、そのような教育に力を入れてまいりました。ですから私どものこの国では、小さいうちから子供たちは、何かけんか、紛争などがあると、武力あるいは手で肉体的にけんかをするのではなくて、まず会話をするということが教えられているはずです。
 この中米地域は、先ほどから申しておりますけれども、ニカラグア、パナマをはじめ紛争が多い地域で、またこのニカラグア、パナマなどは、コスタリカとも、間接、直接的に紛争を起こしてきた国々でございます。しかしながら、ここでこの紛争の多い中米地域で、コスタリカは軍隊をなくして今までやってこられたというのは、対等の立場で話をする、対話をするということを、今まで私たちが貫いてきたからだと思います。すべてこの対等の立場からの対話の産物ではないかと思います。これを通して国際的にも信頼をかち得てきたものだと思います。
 この結果として、国連あるいは国連以外のさまざまな国際機関でのプロジェクト、軍隊の軍縮ですとか、あるいは軍備の廃止などのような大きなプロジェクトに、コスタリカはいつも重要な役割を担ってかかわってまいりました。
また一九九七年には、現在の核兵器に関するコンベンション、国連で行われたコンベンション会議なんですけれども、こちらのほうにも非常な重要な役割としてかかわっておりますし、また細かいラテンアメリカの地域におきましては、コロンビアの紛争にも介入しましたし、またエスキプーラスですね、メキシコのほうでの中米和平にも貢献しておりますし、すべてのカルバドル、ニカラグア、グアテマラといった国々での紛争も、私どもが仲介役として紛争の解決に役に立ってきたということが言えると思います。
 この結果としまして、アリアス元大統領は、ノーベル平和賞も受け取っておりますね。
もともとの軍隊がないことなんですけれども、これは一九四八年に、ホセイ・ヒゲレス元大統領が、軍隊を廃止するという憲法をつくりまして、この憲法は結局、コスタリカから輸出というような形で、皆様もご存じのようにパナマもこの憲法に担って、コピーをした形になって軍隊を廃止いたしました。またハイチという国も軍隊の縮小に向けて今進んでおります。
 コスタリカは、先ほど申し上げましたように、三百五十万人という大変小さい国です。また皆さんご存じのように、第三世界ですね、まだ発展途上国でもありますし、もちろんほかの国の、御多分に洩れず、経済問題というのも非常にたくさん抱えております。しかしながら、こんな小さい国、こんな問題を抱えた国が、どうして世界の軍備の廃止のこの流れの中で、重要な役割を担えるのか、このなぜを考えてみたいと思います。
 私が個人的に思いますのには、まず一つは、もちろん軍隊がないことですね。これは一九四九年憲法によって廃止されましたけれども、これは憲法によってのみならず、紙上の、机上のもののみならず、現実として私たちは持っていないわけです。現実として全くなくなってしまったわけですね。
 第二点としましては、中流層の拡大があると思います。この一九四九年の市民戦争以前にも、中流層というのはあったんですけれども、その市民戦争が終わることによって、中流層が拡大したわけですね。その中流層が拡大するということはどういうことかといいますと、使えるお金が増える。そしてまた考え方、この使えるお金が軍隊に使うのではなくて、それを教育、あるいはインフラ整備、それから社会保障の整備などに使っていけるようになってきたわけです。
 三点目としましては、コスタリカ人は、皆さんの国、日本も非常に古い文化を大切に保存している国だと思いますけれども、昔からの価値観というものが変わらない国だと思います。昔からのいい点ですね。例えば道徳的な価値観、家族の大切さ、家族の団結など、そういったものが変わらないできているんだと思います。
 これらのことを踏まえてコスタリカ人は、こんな小さい国ではありますけ れども、コスタリカ人であることを非常に名誉なことだと思っています。この自分の国に自信を持つ、名誉なことだと考える、これがこの国を、小さい国ながらも強固なもの、堅固なものにし、そしてこの民主主義を確立しているのではないかと思います。

 今までさまざまなことを述べましたけれども、この中で私が一番主要因だと思いますのは、市民社会の強さだと思います。ここに皆さん方がいらっしゃいますけれども、ここにいらっしゃる皆様方というのは、日本の市民でいらっしゃいますね、日本の社会を形成される市民だと思います。ここにいらっしゃる方々は政府の代表の方々ではありません。コスタリカもそうなんです。コスタリカも市民が動いて政府を変えてきた。政府に対して、あるいはその当時、その長になる人々を動かして人権を守るように、人々の価値観を変えないように、それから、民主主義を守るように、また軍隊を廃止するように、そういった原動力となったのは、市民の力だと、私は確信しております。またその変化というものは、いつの時代にも訪れますけれども、この変化を継続させていくのも市民の力だと私は考えます。
私が述べてまいりましたのは、どうしてこの国が、軍隊なくしてこんな紛争の多い地域で生き長らえてこれたのかということでございますけれども、これは、何度も口を酸っぱくして申し上げるのはあれですが、市民社会ですね、市民の皆様方の力、そして軍隊を廃止し、それを継続するというこの市民の力が何よりだったと思います。
 お話を伺いまして、こちらの池田先生もお国で、日本の国内でいろいろな活動をなさっていると伺っております。こういった市民の力が、引いては憲法を変えたりというところまでも行き着くのではないかと思います。
 コスタリカは、今現在ではございませんけれども、必要な時期に、必要な場面に応じて市民が立ち上がり、市民の力で必要な変化、改革をなし遂げてまいりました。民主主義にしてもそうですし、死刑の廃止にしてもそうですし、社会保障の確立にしてもそうです。いろんなことがすべて市民の力によって行われてきたと、私は思います。

 質疑応答の前に最後に一言だけと言いながら長かったんですが、今、世界はグローバルな社会になってきておりますね。
私が使わせていただく言葉は、相互独立、相互に独立し合う、お互いに関係し合いながら独立し合うというふうに私は使っているんですけれども、例えば今、日本は、非常に経済的に発展していますけれども、その経済的な破綻が、コスタリカのような遠い小さい国にも影響があるかもしれない。また例えばモンゴルという国がありますけれども、そこで何か問題が起きた場合には、アジア全体の安全保障に関して非常に大きな問題が繰り広げられていくかもしれないというのがありますね。
 一九八七年にこの中米地域では紛争が解決しまして、平和がもたらされたわけなんですけれども、こういうことも、南アフリカでその前に起きた平和解決ですね、それがベースになっておりますし、その南アフリカと言えば二十五年も前にキャンプデービッドで行われたことがモデルになって、その二十五年後に紛争解決がなされているわけです。
ですから例えば二十五年ぐらい前には、皆様がコスタリカに二日しかかからないでここまで来られるということは考えられなかったかもしれません。五十年前には船で二カ月もかかってやってきたコスタリカです。そしてまたその二十五年、五十年ぐらい前には、広島、長崎のことをこうやって皆様のような方々の前で話すことはできなかったかもしれません。
その当時には、このテーマは非常に皆様が避けて通りたいようなテーマだったように思います。
こういったグローバルな社会ですね、テクノロジーの発展と、それから異文化の交流があって、そして皆様のような方がこうやってコスタリカに来られて、私の話を聞いて意見交換をされる、こんな世界になっていると思います。グローバルというのは大きいという意味だけではありません。こうやって交流ができるということではないかと思います。
 そして、先ほど申しましたけれども、先生方が日本でなさっているような戦いですね。これからまた日本の憲法第九条が軍備を再拡張しないようにというか、こういった戦いに関して、コスタリカのような小さい国ではありますけれども、私たちがここでかち得たこと、ここで私たちが保存してきている、守ってきているものが、皆様の何かのお役に立つのでしたら、人類のために協力できるのではないかと思います。
 またもう一つ、私が非常に興味深いと思いましたのは、皆様のグループの中に、原爆の当時、広島にいた方がいらっしゃるというふうにお聞きしております。私が二十年前にそんなことが想像できたでしょうか。こうやって広島で実際に体験された方のお話を聞くことができるなんて、今まで考えたこともございませんでした。
こういった中で、例えばナショナリズムですね、国粋主義というんでしょうか、そういう国の考え方、民族的な考え方というのも変わってきてはいるとは思いますけれども、それはいろいろな意見交換をしていくうちの一つの可能性だと思います。私がここで皆様方のお役に立てることでしたら、何でもご相談いただきたいと思います。(拍手)  

司会者(大久保賢一)
 ありがとうございました。今のヴァルガスさんから、非常にコンパクトにかつ役に立つお話を聞かせていただいたと思うんですが、今のお話に関連して、この点を聞いてみたい、そういう方がおられましたら、ぜひこの機会ですから。遠慮しないでくださいね、時間は限られていますから。
通訳(阿部真寿美)

西山明行
 
先ほど小さな子供たちの、小さな争いがあったんですが、学校教育の中でということですか。

ヴァルガス

 まずご質問に対してなんですけれども、二つの点についてお話ししたいと思います。一つはカリキュラムに関して、それからもう一つは、自然に生まれ出てくる価値観のようなものですね、その二つについてお話しさせていただきたいと思います。
 先ほど申し上げましたけれども、二つのポイントについてお話をさせていただくんですが、まず、自然に生まれる価値観のようなものですね、その部分からお話をさせていただきたいんですけれども、これは、コスタリカ人であるということ、例えば日本人である、それからインディオであるという、そういうどこの文化の中に生まれたということ、それ自体で人間形成において非常に影響があると思うんですね。ただ、言語あるいは文化というだけでなく、その考え方そのもの、行動形態そのもの、それに影響があると思います。
 私は、この紛争を嫌う。これは、コスタリカ人であることから生まれてくるのではないかと思います。これは、世代を通して家族の中での話し合い、家族での教え、学校での教え、すべてのものを通して体で学んできたものではないかと思います。
例えば私は三日ほど前にグアテマラにいたんですけれども、グアテマラでは、まだ軍隊の人々が制服を着て歩いているようなことがありますね。この軍隊の制服を見ただけで、私は非常に圧力を感じます。嫌悪感を感じます。これはだれに教えられたんだろう。だれでもないんですね。もしかしたら、お父さんやお母さんに家で教えられたかもしれないですし、学校で教えられたのかもしれないですけれども、でもそれは、学校で制服を着た人を見たら嫌悪感を持ちなさいと教えられることはまずあり得ないですね。これは、知らない間に感じるところから入ってきたものだと思います。
 ですから、こういうことはすべて日本人であること、コスタリカ人であること、そういうすべて生まれたときから得てきた文化を通しての価値観ではないかと思います。
 学校のカリキュラムに関してなんですけれども、私は先生ではありませんので、あまり詳しいことはよくわからないんですが、確かに、例えば教科として世界平和という教科などはありませんね。ただし、学校の中で人権の尊重については教えます。その人権の尊重という中でも、人権とただ大きく一区切りにするのではなく子供の権利の尊重、あるいは女性の権利の尊重、また基本的なところでは、平和に対する権利の尊重、これは学校で教えていると思います。
先ほども申上げましたけれども、これは学校で教えられたものではなく、ただ、どこの国に生まれたか、どういう文化の中で育ってきたか、そしてこれは、ほんとうに私はコスタリカ人であるということが、まず根元に大きくあると思います。先ほども申し上げましたが、コスタリカ人であるということは、奴隷の制度も経験していないし、スペイン人からの圧力も経験していない、そういう世代を超えての文化があると思います。

司会者
 西山さん、よろしいですか。続けて何か聞きたそうですね。どうぞ。


西山明行
 大統領選挙の模擬選挙が行われるということなんですけれども、それはどういう……。

ヴァルガス
 専門家でないものですから、学校のほうで教えてないものですから。 この大統領模擬なんですけれども、大統領模擬選挙だけではなくて、ほかの政治的な活動の模擬といいますか、コピーといいますか、そういうものはいろいろな学校でやっていると思います。
例えば国連(国会?)の中で選挙を行います。そういった国連(国会?)選挙もどのように行われるかというものも、実際に子供たちは体験してやらせてみていると思います。
 どこの学校にも、小学校、中学校、高校、大学、すべての学校で生徒会学生会のようなものがあると思いますね。それの選挙に関しましては、皆さんご存じのとおり、皆様がご存じのような感じで、生徒会会長を選出したりということはあります。
ただ、大統領選挙の模擬ということに関しましては、私は、民主主義選挙がどういうものであるかというものを実地体験させるためにやらせているのではないかと、私は思います。
 特にこの国には、日本には三権分立というのがありますけれども、その四つ目の権利として、選挙管理のための最高裁判所というのが設置されております。この選挙管理のための最高裁判所が、学童、子供たちに対して、民主主義的な選挙はどのようなものかというのを体験させる、そういう体験を推進させているというんでしょうか、体験を推進させている事実があります。具体的なことは私、わからないんですけれども。

司会
 よろしいですか。じゃ、ほかの方たちもおられるようで。

河辺雅浩
 四八年に、フィゲ−レス大統領が武装蜂起をしたんですけれども、フィゲレス自身は、武力の放棄をして、その後、それをテコにして大統領になられた。そこからずっと、なぜ、彼が自分がよって立った武力を放棄したのか。

ヴァルガス
 脱帽いたします。非常によく研究されていてびっくりしました。               
 まず、二つ目の質問ですね。永世中立宣言をモンフェ大統領が行って、(米国の)経済援助などの申し出があったにもかかわらず、それをコスタリカが受け入れなかった。その時期を話したんですけれども、確かにその時期だけではなく、それ以前も、おそらく一九八五年ぐらいまでだと思いますけれども、コスタリカはアメリカから非常に莫大な援助を受けていました。莫大なといいますのは、年間三十億にわたる援助を受けていたと思います。日本も戦後すぐのころ、マーシャルプランというんでしょうか、それでアメリカからの援助を受けたと思いますけれども、まあ、コスタリカも同じような形でアメリカから非常に多大な援助を受けていました。
 この一九八〇年代の紛争なんですけれども、これはニカラグアのサンリニスタ政権とレーガン大統領の政府だったと思いますが、そちらのほうの紛争が、コスタリカは、直接には、領土的には関係なかったんですが、ニカラグアとホンジュラスの国境付近、大西洋側の国境付近、そこにアメリカ兵が二万五千人も集められたりして、もうほとんど一触即発状態で、戦争がいつ開始されてもおかしくないような状況になっていたときに、コスタリカのグアナカステ地方という北部の地方がありますけれども、そのグアナカステ地方で武器の輸送などにコスタリカの領地を貸してほしいというような、そういう申し出が(米国から)あったと思います。もちろん、その圧力は非常に大きなものでしたが、これに対して、モンフェ大統領がこの圧力を不可能にするために、これを受け入れないために、わざわざ永世中立の宣言をしたわけですね。
 その後なんですけれども、オスカラ・アリアス大統領の政府にかわりまして、一九八六年の終わりにエスキプウラスで中米のリーダーとして、この中米和平の解決に当たりました。これによって、私はこの圧力が相殺されたものだと思っております。特にこのアメリカからの申し出を拒否するに当たって、コスタリカが受けたであろうはずのネガティブな状況といいますのはそれは受けなかったんですけれども、それはおそらくこの国が非常に民主主義で、アメリカが三十億ドルを貸してくれていた、これを援助してくれていた。というのも、民主主義であったからこそなんですね。そしてまた、軍隊を持っていなかったからこそ、この援助があったわけで、それと相反する、そういうものがあったと思います。そして、このほかの中米の各国とは全然立場が違っていまして、アメリカと対等に、民主主義という意味で対等に話 ができる、そういう立場だったことも非常に重要な要素ではないかと思います。
 その三十億ドルの援助を受けてまでも永世中立をとるという、それは非常に大きなかけだったと思います。しかしながら、コスタリカは非常にいいかけをして、また、それに勝ったと思います。といいますのは、三十億ドルの援助というのは、もちろん大きな金額ではありますけれども、これは結局、後々になって、非常に強くて、まじめで、ほんとうに力になれる、そして、後々世界的に非常に名誉な国となる、そういう選択をとるか、あるいはその場でアメリカの圧力に屈して、非常にコントロールされやすくて、そしてアメリカの言いなりになる。しかしながら、後々には名誉も何もない、普通の国になってしまう、あるいは悪名高い国になってしまう、そういう二つの道があったと思うんです。そのかけに私たちは勝って、最初に言ったほうのほんとうに強い国、世界的に名誉ある国に私たちはなり得たと思います。
この後者のほう、アメリカにコントロールされて、そのときにアメリカの経済的な圧力に屈してしまったのは、例えばペルーであったり、チリであったり、パラグアイであったり、ベネズエラであったり、ほかのラテンアメリカの諸国はほんとうにそうだったと思います。しかしながら、このかけに勝ったことによって、経済的な援助はなくしても、中米にコスタリカ有り、中米の和平の仲介地になり得る、そういった国になり得ることができたと思います。これによって、また後には、アメリカの敬意をまた取り戻したと思っています。
 ここで話をするには非常につらいテーマですけれども、沖縄にはたくさんの基地がありますね。ここで日本の国民の何%の方々が基地の存続に賛成なんでしょうか。また、反対にアメリカの議会のほうでは、その基地の存続もやはり考えられていて、高いパーセントの方々が、それは必要ないのではないかという話もしています。ここで反対に私は皆様方に問いかけたいんですけれども、皆様方がかけるとしたら、どういう方向にかけますか。
 沖縄の基地を守ることによって、沖縄の基地を存続させることによって自由貿易が可能になっているのかもしれません。もしここで国民が、日本国がノーと言った場合、沖縄の基地を撤去することになった場合、これからは経済的に非常に難しい状況に押し入られるのかもしれません。でも、そのかけにかけられるのは、皆様方市民の力ではないでしょうか。日本は経済的に非常に豊かな国ですので、大きな会社が幾つもあります。しかしながら、そういう大きい会社の方々というのは、絶対にこの正しい選択をするとは思えません。というのは、彼らはいつでも経済的に、あるいはビジネスの面において、自分たちにベネフィットがあるように、自分たちに利益があるようにしか考えないからです。これに答えを出すのは皆様方市民だと思います。
 最初のほうの質問なんですけれども、一九四八年当時、元大統領のイエレス大統領が、武力を使って頂点に達したのにもかかわらず、武力を廃止するという、いかにも矛盾したようなことになったのはどういうことかというご質問だったんですが、これに関して返事をさせていただくのは、もうほとんど哲学的に近いかもしれませんという前置きがございました。
例えばフランス革命がなければ、その後の共和制も敷かれなかったし、人権保護というのもできなかったわけです。例えばアメリカが独立しなければその後の憲法もできる、その憲法の中で保障されている市民権、あるいは保護といったようなものも、今現在アメリカの市民は享受できないわけです。スペインの植民地から独立しなければ、いまだに私たちは独立もできずに、スペイン人の蛮行に悩まされているかもしれません。
 そういった、物事には二つの側面があると思います。一九四八年にコスタリカが経験しました、小さいことは小さいんですけれども、ほかのラテンアメリカの紛争に比べたら小さいんですが、市民戦争というものですね。この市民戦争を通して、一体戦争とは何か、あるいは軍備とは何かというものの価値を見出す、それをもう一度再考してみる、そういう機会を得たのではないかと思います。一九四五年に第二次世界大戦中、日本には原子爆弾というものが広島、長崎に落とされましたけれども、もしもそれが落とされなければ、皆さんがこうしてコスタリカまでいらっしゃるということがなかったと思うんですね。
 ですから、物事にはネガティブな部分、否定的な部分とポジティブな部分、マイナスとプラスが必ずあると思うんです。夜がなければ朝が来ない。朝がなければ夜は来ない。悪いことがなければ、美しい面も見れない。美しいものがあるからこそ、悪いもの、醜いものも見える。そういったものがあったのではないでしょうか。ですから、私が思いますのに、一九四八年のその紛争を通して、その武力を通して頂点に立った大統領が、それの悪い面を発見し、その否定的な部分を廃止することによって、後の圧倒的な、一〇〇%にも近いような支持を得た、そういうふうな矛盾を繰り返しながらの結果になったんだと思います。

司会者
 よろしいですか、質問者。

西山明行
 ちょっと違った質問になりますけれども、コスタリカには死刑制度があるでしょうか。世界には死刑制度がある国とない国がありますが、その見解をお願いします。
 それからもう一点、コスタリカでは少年、年少者、小さい人たちの犯罪について特別な取り扱いがなされているんでしょうか。

ヴァルガス
 死刑はございません。死刑はございませんが、死刑に関してなんですが先ほどから申し上げておりますように、コスタリカ人として感じる、それの全く基本的なものというのは人権なんですが、その基本的な人権の一番最たるものというのは、人生というんでしょうか、生活をさせていく、生きていくことじゃないかと思います。ですから、その最も基本的な権利ですので、それを剥奪するような、奪うような死刑は執行しておりません。   
 また、年少者に対しての刑罰なんですけれども、もちろん大人とは違っております。例えば刑務所というところには送られません。また、年少者の特別の裁判がございまして、また、安全保障に関しましても特別な配慮がなされています。しかしながら、だからといって、コスタリカに年少者の犯罪がないかといったら、そんなことは全くございません。これは世界的な傾向だと思いますけれども、社会の安全を揺るがしている一番根本的なところは、年少者がだんだんと犯罪を多く犯すようになってきたというところではないかと思います。日本ではいかがでしょうか。

司会者
 そこはいかがでしょうか。どなたか。

西山明行
 
日本では、死刑については日本にはあります。その死刑の廃止論に関しては、弁護士会では半々くらいじゃないかと思います。そして、中間が三分の一が賛成、三分の一が反対。あとの三分の一というのは、現在、日本は死刑を廃止した次の刑は無期懲役です。無期懲役は十年たったら仮釈放になりますので、終身刑のような刑があれば廃止にもするという方が三分の一おりまして、そうなると、三対二くらいで廃止になるんじゃないかと思います。
 それから、少年犯罪については、一応少年法という法律がありまして、その基本は刑罰じゃなくて、保護というのが基本にあります。原則として保護、少年の教育、保護を中心と考えられておりますが、現在、政治情勢が悪くなりまして、少年も厳罰に処するというような傾向にあります。それに対して我々は少年に刑罰は効果がないんじゃないかということで反対をしている状況にあります。

通訳
 済みません、先ほどの三分の一、三分の一というのは、弁護士会の中ですか。

西山明行
 はい。


通訳
 これに関しても何かご意見を伺いますか。

ヴァルガス
 まず、死刑に関してなんですけれども、それぞれの国にはそれぞれの必要性というのがあると思います。例えば中米、南米各地、アメリカでは、ジャマイカ、トリニダード・トバゴ、グアテマラといったようなところが、おそらく死刑に関していろいろ取りざたされているんだと思いますけれども、各国で法的、社会的に必要性が違ってきていると思います。しかしながら、一番重要なのは、人権を守ることだと思います。それが私どもにとって一番、いつも関心を持たなければならないことではないかと思います。先ほども申し上げましたように、コスタリカでは命を守る、生かせてあげるという、その命を守るということが一番の根本になっています。
 人権というのは、一言で人権といいますけれども、権利にはいろいろありまして、健康に関する権利、あるいは環境に関する権利、選挙の権利、被選挙、選挙される側の権利、あるいは健全な社会生活を送る権利、すべてのものが権利でつながっていると思うんですね。このすべてがつながっている権利の中で、例えば命を守る、生きていく権利というものが剥奪されるとしたら、それはほかの権利も剥奪されていくことになるのではないでしょうか。その意味で、私は日本を批判する立場にあるわけではないんですけれども、私の考えを今述べさせていただいただけです。
 また、年少者のことに関しましては、年少者の権利が保護されている。保護を基本にするという考えが日本の刑法、年少者の刑法ですか、があるということは非常に私もうれしいと思います。最近では世界的にも年少者の自殺というのも増えてきておりますね。ですから、命を大事にするという、命を保護していくということが基本にあるのは非常にいいことではないかと思います。