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2001.12.9 日本反核法律家協会 報告

平和の問題での交流を
広島弁護士会平和推進委員会の紹介を兼ねて

 佐 々 木 猛 也  弁護士
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広島弁護士会は,1997年以降,韓国・大邱弁護士会と交流を続け,98年,友好協定を結び,毎年,セミナーを開催するなどして来ました。本年は,10月6日,7日両日,広島で交流しました。今回は,ぜひ,平和問題を取り上げようと提案しましたが,政治に関係する問題は避けるべきであるという意見もあり,紆余曲折を経て,以下の報告を,いくつかのエピソードを交えて話しました。その結果は,韓国側弁護士(34名)から,非常に感動的な報告であったとお褒めの言葉を貰い,大邱弁護士会にも平和推進委員会を設置しようという意見が出るなど,逆にこちらが感動したりしました。

総会には出席できませんので,そのときのレポートをお送りします。

1.1945年8月6日

午前8時15分の広島

 1発の原子爆弾は,37万人が生活していた広島の街を焼き尽くし,市民が立ち直り得ないほどの壊滅的悲劇を与えました。

 当時5歳の私は,あの一瞬の世紀の閃光を,広島市の中心から30キロ離れた所で見たのです。国際法違反のこの情景は,脳裏にこびりつき,決して忘れることができません。今もまざまざと思い起こす,あの強烈な光と爆発音。きのこに似た原爆雲が,30キロも離れているというのに,ごくごく近い西の空に止どまって動きもしないままの異様な,不気味な,世の終わりとも感じる光景は,言い知れない不安を与えました。

 原爆が投下された空の下の広島は,熱線と爆風,それによる火災,そして放射線の放射によって,14万人(±1万人)が爆死したのです(1945年12月までの死亡者)。

 ヒロシマはまさに地獄でした。被爆者は日本人だけでなく,十数カ国の人々が犠牲となったと言われています。

 そのとき,広島市には5万人の朝鮮人が住み,そのうち3万人が爆死したと言われています(韓国原爆被害者協会の推定。同協会は,長崎市での朝鮮人被爆者2万人のうち1万人が爆死者と推定しています。その当時,朝鮮人は創氏改名を強制された日本人であり,日本政府は朝鮮人被爆者の実態調査をしていませんので,はっきりした数は不明です)。

 広島弁護士会の会員は,当時,45名でした。そして23名が爆死しました。私の身内の者数名も,被爆して受傷し,また重症を負い,その後死亡しました。

 弁護士として事件活動のなかで調べた戸籍謄本に,どんなに多くの,1945年8月6日死亡の記載を見て来たことでしょうか。

 この度,テロリストたちがニューヨークの世界貿易センタービルを破壊し,多数の死者,負傷者を出したことに心が痛みますが,この惨事を念頭において,弁護士の豊かな想像力によって,14万人が殺戮されたヒロシマを見つめてください。原爆の非人間性,特異性を見ることができるでしょう。こうした国際法違反の事態を繰り返すことは許されません。

 

2.被爆者の苦しみ

 原爆投下は,市民の大量殺戮と負傷をもたらしました。被爆者は財産を完全に失いました。そして,その後の人生に様々な陰を残し,病気,貧困,差別,放射能障害とその不安等,まさに,「いのち・くらし・こころ」の全体破壊をもたらしたのです。被爆者たちは,何の罪もないのに,差別されてきました。例えば,放射能を浴びた被爆者に対する結婚差別があったことは容易に想像いただけると思います。財産を喪失した貧困ゆえの差別,熱線,放射能の影響による病気を抱えた弱者への差別を思い描くことは難しいことではありません。

 そして,56年後の今,老齢化した被爆者が原爆後遺症に苦しんでいる事実は,生きることを許さない被爆の実相を示しています。

 私は,核兵器の使用は,被害の甚大さ,深刻さ,特異性からみて,不必要な苦痛を与える兵器の禁止及び非人道的な戦闘方法の禁止を定めた国際法に明確に違反し,同時にそれは核兵器の使用が反人類的犯罪であること,つまり,この問題は国際法という,われわれ弁護士が住む法の世界の問題であることを指摘したいと思います。

 ヒロシマ,ナガサキの悲劇と被爆の実相を心に留め置き,広島に投下された原爆の50万倍を越える核兵器が,今,存在している現実と,その使用が,地球上に生命の存在を許さない「核の冬」をもたらすことを考えていただきたいのです。

 広島と長崎での朝鮮人被爆者23,000人は,戦後,帰国しました(なお,在留した朝鮮人被爆者は7000人)。

 昨年,大邱弁護士会を訪問し案内いただいた陜川原爆被害者福祉会館で,在韓被爆者の方々と会い,その苦しみを改めて考えました。10,000人の在韓被爆者が原爆後遺症に苦み, (日本政府が拠出を決めた1990年の医療援助金40億円以外に)何の救済,援護もなく関心も持たれず生活を余儀なくされてきた現実は,まことに腹立たしいものです。


3.広島弁護士会の平和推進委員会の誕生

 広島弁護士会は,被爆50周年の1995年,平和推進委員会を設置しました。この委員会は,全国の弁護士会にはない広島弁護士会特有のものです。

 戦争は最大の人権侵害であり,平和なくして人権を守ることはできないという観点から委員会は設けられました。

 委員会は,@平和・核兵器廃絶に関する問題を調査・研究し,これに必要な活動を企画して実行すること,A被爆者の人権を擁護し,救済するために必要な活動を行うことを目的として活動しています。

 広島弁護士会は,同年,「核兵器の使用は国際法に違反しないか」と題し,シンポジウムを開催し,国際司法裁判所(ICJ)にアピールを送付しました。

 これは,当時,世界保健機構(WHO)と国連総会が,ICJに対し,「健康と環境に及ぼす点で,戦争や武力行使において,国家が核兵器を使用するのはWHO憲章を含む国際法に違反するのではないか」   (1993年決議), 「いかなる状況において,核兵器による威嚇及び使用が国際法に違反しないで許されるか」(1994年決議)と,勧告的意見を求め,その審理がされていたことを踏まえてのものでした。こうした活動を通じ,広島弁護士会は,日本政府に広島市長を証人として申請するよう要請して実現させました。ICJが核兵器の使用及び威嚇が国際法に違反するとの勧告的意見を出すことを求める決議を採択して送付するなどしました。  ICJは,1996年7月8日,勧告的意見を出しました。

 「国際法の現状及びこの法廷が把握できる事実の諸要素に照らし,国家の存続が危ぶまれるような極端な状況での自衛手段としての核兵器の使用あるいは威嚇は,合法か,違法か」の判断が,7対7の表決で,決し得なかったことは,悪魔の兵器である核兵器の死刑判決を求め続けた広島市民には不満でした。

 しかし,「核兵器の使用または威嚇は,戦時国際法とりわけ国際人道法の原則とルールに一般的に反する」ことを確認し,「厳重かつ効果的な国際的管理の下でのあらゆる分野にわたる核軍縮につながるような交渉を誠実に行い,完了する義務が存在する」との意見を勧告したことを高く評価しています。

 勧告的意見が出された直後の同年9月,弁護士会は「いまこそ核兵器の廃絶を」と題するシンポジウムを開きました。以後,「日本の安全保障を考える・・・残虐な核兵器が安全保障になりうるか」(2000年),「日本が戦争に巻き込まれる日・・・周辺事態法がアジアにもたらすのは,戦争か?平和か?」(2000年)のシンポジウムを開催しました。

 本年は,教科書問題について会長声明を出しました。会長声明は訴えます。「世界で初めて原子爆弾の惨禍を体験した広島は,全世界に向けて平和を発信する都市です。そして広島弁護士会は永年に亙り平和を希求し,核兵器廃絶を訴えてきました。ところが,・・・教科書には核兵器の廃絶は空論であるととられかねない記述があります。このような記述は,日本国憲法の永久平和主義の精神に反するのみならず,核兵器廃絶の理念を否定しているとも解され,極めて遺憾である」と。

 平和推進委員会は,今,北東アジア非核地帯条約構想について勉強しています。

 

4.朝鮮半島と日本の安全,平和のために

朝鮮民主主義人民共和国の核疑惑を巡り,米朝関係が一触即発の事態になり,軍事激突かと思わせる事態が,1994年,起きました。

 アメリカが同国に対する一大軍事作戦を計画し,ソウルは火の海になると警告された事態は,日本と韓国それぞれに大きな変化を与えました。

 この事態を経て,朝鮮半島では,金大中大統領の太陽政策の展開,南北の和解と統一の方向へ,自らの運命を自らが決し後下がりのできない選択をした南北首脳会談へとつながって行き,国際社会から孤立していた北朝鮮は門戸開放を始め,EU諸国等との国交回復へと積極外交で動いてきました。

 他方,日本はこれとは逆に,アメリカの後押しで北朝鮮敵視策を背景に日米軍事同盟強化の動きをしました。そして,安保見直し合意,台湾海峡危機も加わり,新ガイドライン,周辺事態法制定へと迷走し続けています。そして今回の同時多発テロ事件を口実に自衛隊派遣のための新法の制定,自衛隊法改正へと動いています。

 わが国のこうした安全保障政策が朝鮮半島の和解と統一の障害物になるのは明らかですが,いずれにせよ,朝鮮半島の和解と統一が,わが国の安全保障政策と不可分の一体をなしていることは間違いありません。

 こうしたなか,本年1月,ソウルで開催された「北東アジアにおける平和と非核地帯のための会議」で,イ・サムソン(李三星)韓国カトリック大学国際学部教授が基調報告をしました。

 教授は,米国主導の韓・米・日の安全保障同盟は,北朝鮮を可視的に共敵とする朝鮮半島の分裂と分断の時代を前提とする軍事同盟であり,それは冷戦時代の遺産であること,北東アジアの共通の安全保障の出発点は,南北を包括する朝鮮半島全体と日本の間の新しい関係定立から始めなければならないとし,南北韓の韓民族と日本を分けている歴史的,心理的隔たりは20世紀に解消する機会がなかったことから,日本と朝鮮半島は相互軍備競争に進みうる潜在性があり,それ故に武力競争の可能性と武力競争の極限的形態である核武装競争を遮断する努力が必要であること,朝鮮半島南北と日本は核兵器を保有していないと公開宣言した国であるという重要な政治的共通点から出発して,米国の核覇権戦略による強制ではなく,朝鮮半島と日本の心の真ん中から発展した共同の安全保障を制度化することが必要であり,非核原則を守りながら米国の核の傘に対する軍事的,心理的依存を解消して行く制度的装置を両国間に建設すること,その第一歩は北東アジア非核地帯化であると訴えました。私たちはこの報告を知っています。非常に感動的な問題提起でした。

 その後,クリントンに代わったブッシュ政権の政策変更で,南北和解プロセスが停滞している状況下の8月,ソウルで,「世界平和のための朝鮮半島の和解と統一に関する国際会議」が開かれました。

 この会議は,宣言で,「朝鮮半島の和解と平和,最終的な再統一に向けた韓国のイニシャティブを全面的に支持し」,「日本国民が朝鮮半島の和解と統一を支持することを歓迎し,朝鮮半島の平和と統一の障害物となっている日本政府の政策に反対し」,「朝鮮半島の和解とアジア・太平洋地域の非軍事化のためアジア諸国政府と市民社会の一層の努力を促し」,「アジア・太平洋地域での米国の一国主義に代わる,平和と友好,協力のための多数国による解決とその制度の創造を支持する」としています。これらの会議は,私たちに,アジア・太平洋地域の平和と安全,朝鮮半島の和解と平和,統一を本音で語り,論議する必要性を訴えています。

 

5.永続する新しい信頼関係を日韓で築くため

 戦争責任を負うべき国家ドイツは東西に分断されましたが,日本は分断を免れ,分断されたのは戦争犠牲者であった朝鮮半島でした。

 戦後アメリカの統治下に置かれた沖縄県の人々の苦しみを知る私たちは,朝鮮半島の民族分断の苦しみを共感できます。日本の支配下に35年間も置かれた人々の,わが国に対する不信感,反日感情を理解することができます。チョウジョンネ(趙廷來)著「太白山脈」は,戦後の韓国の人々の置かれた状況を深く理解させてくれました。

 私たちは,この100年の日本と朝鮮の関係を歪めた歴史的責任,未だ侵略と戦争責任の清算が出来ていないことから起こるギクシャクした国民感情,そしてこの地域の戦争と平和の問題などについて,本音で語らなければなりません。

 北東アジアは,核兵器の使用を含む武力紛争の生じるおそれが最も高い地域です。その事態は絶対避けなければなりません。

 日韓両国民の間には,核兵器に対する認識の違いがあります。韓国では,原爆投下が祖国解放を早めたと原爆投下自体を評価する意見が強いのです。この溝を埋めなければなりません。

 幸い,日本は非核3原則を国是とし,朝鮮半島には1992年1月の「非核化に関する南北朝鮮の共同宣言」があり,その意味で共通の認識を築けるはずです。

 日韓両国の法律家が「心の真ん中から」北東アジア非核地帯条約の検討をはじめ,日本と朝鮮半島の共同の安全保障について議論し,交流し,非核について共通の認識を持ち得たとき,世論形成のリーダーシップとなり得たとき,両国国民は過去を克服し,これまでにない全く新しい永続する信頼関係を作り出し,近くて遠い国が近くなるのだと考えます。

 在韓被爆者が最も多く居住する「韓国の広島」と呼ばれる慶尚南道陜川郡は,大邱に一番近い地域です。その大邱弁護士会と広島弁護士会が,今後,核兵器廃絶や被爆者援護の問題,共同の安全保障政策など平和の問題について,一緒に考え,議論し,交流することによって,より密接な関係を築き得ることを確信し,問題提起をさせていただきました。