●§§§§§日本反核法律家協会長崎総会特別報告●§§§§§
        2002/8/9           


非暴力平和主義の可能性
─非暴力平和隊プロジェクトについて─
北海学園大学法学部教授  非暴力平和隊・国際運営委員
君 島 東 彦



▲▽ 1.ハーグ平和アピール ▲▽ 
 世界の平和運動にとって「ハーグ平和アピール」は画期的なものであったと思う。1999年5月にオランダのハーグで開催され、世界中から1万人近い人々が参加した「ハーグ平和アピール市民社会会議」を結節点として、この会議の準備プロセス、とりわけ「21世紀の平和と正義のためのハーグ・アジェンダ」の作成、5日間にわたる会議での討論、そして「ハーグ・アジェンダ」を実施していくプロセス──このプロセスは今まさに進行している──、これら全体=「ハーグ平和アピール」は、20世紀を総括し21世紀を展望する時点での、世界の平和運動の認識と実践を集大成するものであった。
 ハーグで会議が開催されたとき、NATOはユーゴを空爆していた。会議ではコソボ問題に関するセッションもあり、激しい議論がなされた。ハーグ会議に参加した世界の多くのNGOはNATOのユーゴ空爆を批判する声明を出したが、他方でコソボにおける人道的危機に対し、現に進行している殺戮をとめるための武力行使は必要であるとする主張もまたあった。殺戮を傍観するのか、武力行使するのか。平和運動にとって、「コソボ」は厳しい試練だった。
 ハーグ平和アピール会議において、ひとつのワークショップがあり、それが重要な問題提起をしたことは、そのときあまり注目されなかった。それは「訓練された市民平和活動家の活用の促進」というワークショップで、「国際平和旅団」(Peace Brigades International、PBIと略称される)というNGOが中心になって準備したものだった。


▽ 2.NGOによる非暴力的介入 ▲▽
それでは、国際平和旅団、PBIとはどのようなNGOなのか。PBIは、1980年代以降、世界各地で活動が活発になった「第三者による非暴力的介入」の手法を実践するNGOのひとつである。これは、トレーニングを受けた非武装の市民のチームが紛争地域へ入っていき、そこで非暴力的な民主化運動、人権闘争などに従事している人々に付き添うことによって殺戮や紛争の暴力化を予防しようとする試みである。外国人が現地の活動家に付き添うことで、「国際社会が見ている」というメッセージを送り、「国際社会の目」が暴力を抑止する。また、外国人のチームはあくまでも紛争地域の運動体、活動家の要請に応じて派遣され、紛争の平和的解決を追求するための環境創出を目的としている。外から「平和」や「正義」を押し付けるものではなく、外国人が紛争を「解決」するわけではない。紛争を解決するのはあくまでもその地域の人々である。このNGOの活動は、making peace ではなく、making space for peace ということになる。このような非暴力的介入のNGOは、現在世界におよそ20団体があり、コロンビア、メキシコ、グァテマラ、ニカラグア、バルカン諸国、イスラエル/パレスチナ、スリランカなどで活動している。そして、暴力の抑止という点で一定の成果を収めている。


▽ 3.はじまりのガンディー ▲▽ 
 非暴力的介入のNGOの活動が活発になったのは1980年代であるが、その起源はガンディーにある。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立に悩まされたインドにおいて、ガンディーは、対立、紛争に非武装、非暴力で介入して紛争の収拾をめざすシャンティ・セーナ(=平和隊)の構想を1920年代から持っていた。この構想は彼の死後実現される。1950年代にシャンティ・セーナがインド各地で設立され、1960年代を通じて活発に活動したといわれている。1970年代に入ると、シャンティ・セーナの運営に関して指導部における見解の相違が生じ、シャンティ・セーナの活動は衰退していったようである。
 しかしガンディーのシャンティ・セーナの構想は継承される。1960年にインドで開催された平和会議に参加した西欧からの参加者は、シャンティ・セーナの活動に感銘をうけ、シャンティ・セーナの構想を国際化するものとして、1961年に世界平和旅団(World Peace Brigade)を設立した。世界平和旅団は、インドなどでいくつかのプロジェクトを実施したが、60年代後半には活動は低調になったようである。しかしながら、シャンティ・セーナの構想、非暴力的介入の構想とそのためのトレーニングなどを通じて、非暴力的介入の活動に従事する活動家が財産として残ったのである。


▽ 4.PBIの設立 
 世界平和旅団の活動家だった人々によって、1981年、カナダで、国際平和旅団(Peace Brigades International, PBIと略称)が設立された。昨年設立20周年を迎えたこのNGOが、非暴力的介入のNGOとして最も重要なものである。PBIは1983年にグァテマラで活動を開始した。設立当初は、紛争解決、停戦監視、調停、社会再建などに取り組むことを設立声明で宣言していたが、グァテマラでの活動を通じて、徐々に活動の重点を護衛的同行(protective accompaniment)に絞り込み、成果をあげた。
 1983年にPBIがグァテマラで活動を開始した当時、グァテマラは軍による国家テロの支配のもとにあり、人権や民主主義を主張する団体は危険にされされていた。活動家の失踪や殺害が相次いでいた。PBIが活動を開始して明らかになったことは、PBIメンバーのような国際的な第三者の同行者がいるときには殺人が起きず、国際的な同行者がいないときには殺人が起きるということであった。PBIのような国際的第三者の存在が、暴力に対する抑止力となるわけである。これ以降、PBIは護衛的同行という手法の有効性を認識し、活動の重点をこの護衛的同行に置くようになった。PBIは、グァテマラで、襲われる危険のある人権団体の幹部への護衛的同行を提供し、非常に効果をあげた。PBIはその後、スリランカ、ハイチ、コロンビア、エルサルバドルなどでも、同じように護衛的同行を提供することを中心に活動してきた。また、PBIの成功は、同じように非暴力的介入を実践する他のNGOを生み出す刺激となった。


▽ 5.PBIの活動の原則 
 20年におよぶ活動の中から、PBIは活動の4つの原則を生み出した。これらの4つの原則は、きわめて示唆に富み、興味深いものである。まず第1は、nonpartisanship の原則、PBIは政治的立場を取らないという原則である。ある人が非暴力的な人権闘争、社会変革に携わっており、危害を加えられる危険にさらされているときには、その人がどのような政治的立場をとっていようとも、要請があればPBIは彼(女)に護衛的同行を提供する。市民に対して国軍など政府がテロ行為を働いている状況においては、危険にさらされている活動家は不可避的に反政府の立場をとることになるだろう。PBIは彼(女)を護衛するが、それは彼(女)が反政府だからではなく、彼(女)が危険にさらされている非暴力の活動家だからである。
 第2は、independence の原則、PBIの独立性の原則である。PBIは、政府を含めてあらゆる団体から独立して、政府を含めて現地の団体にコントロールされないことを原則としている。PBIは、その任務をこえて現地の団体の要求に引きずられないことに留意している。もっとも、PBIメンバーが国外追放処分にならないために必要な限度で、当該国政府と対立しない配慮は必要となるだろう。
 第3は、noninterference の原則、不干渉の原則である。PBIの活動は、紛争解決をすることではなく、あくまでも現地の人々が紛争を非暴力的に解決できるための空間をつくりだすことである。護衛的同行を提供している団体の内部やその活動に、PBIは距離を置き、干渉しないのが原則である。これは現地の団体の自己決定やempowermentを重視するということである。PBIは極力、現地の団体が対外依存しないように留意する。
 第4は、nonviolence の原則、非暴力の原則である。この原則には2つの側面がある。まず、PBIは、非暴力的な運動、活動をしている団体、武装集団とは関係がない団体の活動家にのみ、護衛的同行を提供するという側面、それから、同行にあたって、PBIメンバーは絶対に武器を携行しない、使用しないという側面である。
これら4つの原則はPBIというNGOの原則であり、非暴力的介入、護衛的同行に従事するNGOがすべてこれらの原則を持っているわけではない。NGOによって活動の原則は異なりうる。が、PBIの4つの原則は、20年におよぶ活動によって検証され、実践によって裏付けられた妥当性、有効性を持っていると思われる。これらの4つの原則に基づく活動を「介入」と呼ぶのはあまり適切ではないかもしれない。最近のPBIは、「介入」に代わって「第三者イニシアチブ」という表現を使っている。


 6.非暴力平和隊プロジェクトの始動 
 コソボで人道的危機が発生したとき、PBIなどの非暴力的介入NGOの活動家は、組織の不十分さを嘆いた。PBIの場合、多国籍の市民のチームが紛争地域へ入っていくが、ひとつのチームの規模は平均して10人、多くて30人である。現在PBIが行なっているプロジェクトを例にとると、インドネシア・プロジェクトが12人、コロンビア・プロジェクトが30人である。たしかに、このような少人数だからこそ、当該国政府のヴィザを取得して入国することが困難でなく、またチーム内の民主的合意形成も可能で、現地での活動も柔軟に機動的に行えるというメリットがある。
 しかし、紛争地域の状況によっては、10人でなく100人だったら、あるいは1000人だったら人道的危機を抑止できたかもしれない、という意見が出てくる。1990年代に旧ユーゴスラビアで起きた紛争に際して、その地域の非暴力の運動に対して──彼らは国際社会にメッセージを発していたのであるが──それに応えるある程度の規模の平和チームを派遣していたら、その後の展開はまったく異なったものになっていただろうという評価がある。93年からバルカン半島にも「バルカン・ピース・チーム」という非暴力的介入NGOが入っていったのであるが、規模の小ささゆえにその効果には限界があった。ある人は、もし95年までに1000人の活動家がコソボに入っていれば、98年に勃発した暴力的な事態を回避しえた可能性が高いと考えている。非暴力的介入NGOの活動家は「コソボの悲劇」を痛恨の念をもって想起している。
 このような背景のもとに、ハーグ平和アピールにおいて、PBIなどの非暴力的介入NGOのそれまでの活動の成果を基礎にして、人道的危機に際して緊急かつ大規模に派遣できる組織──より大きなNGO、非暴力平和隊(Nonviolent Peaceforce)──をつくるプロジェクトが生まれたのである。
 
▽ 7.非暴力平和隊プロジェクトの特徴 
 非暴力平和隊の構想は、基本的にはPBIなどの非暴力的介入NGOの活動の成果にもとづいて、派遣するチームの規模を拡大するものである。10人規模のチームを派遣するPBIに対して、非暴力平和隊はまず100人から200人規模のチームを派遣することを目標にしている。PBIが生み出した活動の諸原則──政治的に立場を取らない、独立性、不干渉、非暴力──は基本的に踏襲される。PBIも非暴力平和隊も、あくまでも紛争地域の非暴力の運動の要請に応えてチームを派遣するのが原則である。要請がないのにチームを派遣することはない。
 PBIのメンバーはどうしてもヨーロッパ、北アメリカなど裕福な北の世界の人間が多くなる。そのため、北の人間が南の紛争地へ行くという構図ができる。この構図は、一種の「新植民地主義」に見える余地があり、この点が批判されることがある。非暴力平和隊プロジェクトはこの構図を克服することを重要な課題としている。つまり、北のプロジェクトではなくて、北と南の双方の市民が協力、連帯する真にグローバルなプロジェクトにしようということである。
 人道的危機に際して、武力介入はきわめて問題が多いが、NGOによる非暴力的介入であればまったく問題はないのかというと、決してそうとは言い切れない。市民による非暴力的行動であっても、北が南をコントロールするものとならないよう、最大限の注意が要ると思われる。
 それから、NGOによる非暴力的介入という手法は、紛争の暴力化を防ごうとするものであるが、紛争に対するより根源的、構造的なアプローチも同時に必要である。すなわち、人道的危機や暴力的紛争を生み出す地域の社会構造に注意を払い、人道的危機を生み出さないような社会に変えていく努力が必要となる。これは経済システムの問題が関連しているであろう。そして、ひとりですべての課題に取り組むことは不可能であるから、NGO間の分業が必要不可欠となろう。
 

 8.非暴力平和隊・日本 
 すでに述べたように、非暴力平和隊プロジェクトは、1999年5月、ハーグ平和アピールにおいて生まれた。そして、ピースワーカーズという米国のNGOの活動家、デイヴィッド・ハートソーとメル・ダンカンがほとんどフルタイムでこのプロジェクトの組織化に乗り出した。
 ハーグ平和アピールから1年後の2000年5月、ニューヨークの国連本部で「ミレニアム・フォーラム」というNGOの会議が開かれた。この会議のときには非暴力平和隊プロジェクトは相当に進行し、具体化されていた。
わたしは「日本ハーグ平和アピール運動」の代表としてこの会議に参加した。そこでデイヴィッド・ハートソーとメル・ダンカンに出会い、非暴力平和隊プロジェクトについて突っ込んだ意見交換をした。日本に帰ってから、わたしは『反核法律家』36号(2000年7月15日)に、NGOによる非暴力的介入や非暴力平和隊プロジェクトについて書いた(拙稿「憲法9条を活かす世界の平和NGO──ミレニアム・フォーラム参加報告」)。
 デイヴィッド・ハートソーは非暴力平和隊プロジェクトの準備のために、2000年12月のほぼ1か月間、東アジア6か国を訪問した。その際、日本にも1週間滞在し、日本の主要な平和NGOと会合を持った。日本の平和NGO関係者は非暴力平和隊プロジェクトについてデイヴィッド・ハートソーと率直な意見交換をした後、日本からもこのプロジェクトを支援していくことで意見が一致し、「非暴力平和隊・日本サポートグループ」を結成した(12月2日、東京)。そして、わたしが日本サポートグループのコーディネーターをつとめることになった。
日本サポートグループはその後、5月3日の憲法記念日に合わせて、非暴力平和隊プロジェクトを広く知らせるイベントを企画し、2001年4月30日に東京・文京シビックホール会議室で講演会を開いた。PBIのメンバーとして1994年にスリランカで活動した経験を持つ大畑豊さんとわたしが話をした。当日は150人を超える参加者があり、とりわけ女性と若者が多かったのが特徴的だった。6月30日には、京都の立命館大学でも同じようなセミナーを開いた。このセミナーを準備してくれたのは、立命館大学国際関係学部の田村あずみさんと兵庫県在住の小林善樹さんである。こうして非暴力平和隊プロジェクトが日本においても展開することになった。
 現在、グループの名称は「非暴力平和隊・日本」となり、暫定ルールもつくられた。いまのところ、大畑さんとわたしが共同代表をつとめている。メーリングリスト、ウェブサイト、例会、資料の翻訳、学習会など、多様な活動をしている。なかでもユースの活動は特筆すべきであろう。早くから関西の大学生は非暴力平和隊プロジェクトに関心を示していたが、今年3月にカナダで開かれた国際運営委員会でわたしがユース・コーディネーターのマイケル・ポカワに出会って以来、日本でもユース独自の活動が生まれ、今年8月には「非暴力平和隊・日米ユース会議 in 長崎」を成功させた。


▽ 9.非暴力平和隊プロジェクトの現状と展望 
 世界的には、非暴力平和隊プロジェクトは、国際運営委員会によって運営・推進されている。世界各地の非暴力平和運動の支持・協力のもとにプロジェクトを推進するために、国際運営委員会は世界各地の平和活動家・理論家で構成されている。米国、カナダ、英国、オランダ、日本、インド、タイ、グァテマラ、コスタリカ、パレスチナ、南アフリカから全部で13人が国際運営委員になっている。国際運営委員はそれぞれ、インドのガンディー主義、キング牧師の非暴力運動、クエーカー教徒の絶対平和主義、日本国憲法の非暴力平和主義などの思想を持っており、国際運営委員会は世界各地の非暴力平和主義の協力と連帯を体現しているといえるかもしれない。
 非暴力平和隊プロジェクトは現在、調査研究段階を終えて、国際NGOとして立ち上げる設立総会を準備しているところである。2001年7月末には、ドイツの経験豊かな平和活動家、クリスティーン・シュヴァイツァーを中心とする調査研究チームが、364頁に及ぶ「非暴力平和隊の実現可能性に関する研究」を提出した。この報告書は、非暴力的介入に関してこれまでに書かれたもっとも包括的な研究である(下記のウェブサイトからダウンロートできる)。
 非暴力平和隊は、非暴力平和構築で実績のある世界の平和NGOにメンバー団体となってもらい、これらの団体の支持・支援のもとに組織を立ち上げ、活動を開始しようとしている。メンバー団体の依頼が現在世界中で進行している。そして、これらのメンバー団体が今年11月末にインドのデリーに集まり、設立総会を開いて、非暴力平和隊が国際NGOとして立ち上げられる予定になっている。
 100人から200人規模のチームを派遣するための資金調達がこれから重要な課題となる。また、国際理事会の選出(現在の国際運営委員会の任務が引き継がれる)、最初にチームを派遣する地域の決定、隊員募集、国際事務局の設置、隊員トレーニングなど、活動開始までに乗り越えなければならないハードルは多いが、非暴力平和隊の構想は世界各地で強い支持を受けており、これからの平和構築のひとつの有力な方法としてその成果が期待されている。非暴力平和主義の日本国憲法を持つ日本にとって、非暴力平和隊プロジェクトの意義は大きいといえる。日本の市民への期待は非常に大きいのである。



★ウェブサイト★
http://www.jca.apc.org/~nvpf/index.htm/ 「非暴力平和隊・日本」
http://www.nonviolentpeaceforce.org/ 「非暴力平和隊」(国際事務局)
http://www.peacebrigades.org/ 「国際平和旅団」
http://www.haguepeace.org/ 「ハーグ平和アピール」