核兵器の廃絶をめざす日本法律家協会
 
 
 
 
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核兵器使用の非人道性と原爆投下の違法性
―原爆裁判・下田判決50年記念シンポのご案内―

大久保賢一

 今、国際社会において、核兵器使用のもたらす壊滅的な人道的結果についての懸念が共有されている。過去における実際の使用(広島・長崎)や核実験、国際会議の成果などからして、いかなる国家や国際機関も、核兵器爆発がもたらす人道的危機に対処しえず、被害を受けた人々に十分な支援ができないという懸念である。

 この懸念に基づき、2013年10月21日、国連総会第1委員会において、125か国の賛成で、「核兵器が、ふたたび、いかなる状況下においても、使用されないことに人類の生存がかかっている。」、「すべての努力はこれらの大量破壊兵器の脅威を取り除くことに割かれなければならない。」、「核兵器が二度と使用されないことを保障する唯一の方法は、それを全面廃棄することしかありえない。」との声明が採択されている(日本政府も賛同している)。

 この声明の特徴は、核兵器使用を、国際法上違法であると評価していないが、非人道的な結末をもたらすことを理由として、核兵器の全面廃絶を主張しているところにある。核兵器の使用は、単に非人道的というだけではなく、国際人道法に違反するという立場からすれば、もう一歩の踏み込みが欲しいところではある。けれども、法規範の根底には、人道と正義があることを想起すれば、非人道性に着目する核兵器全面廃絶の主張は、積極的な意義を持つといえよう。

 けれども、核兵器国は、この動きに賛同していない。
 核兵器国が廃棄の意思を持たない限り、核兵器はなくならない。核兵器国に核兵器廃絶の意思をどのように持たせるか、それが問題である。

 この壊滅的人道的な結果に着目して核兵器の全面廃棄を求める潮流は、核兵器国に対して、「あなた方は、非人道的結果をもたらす核兵器を使用するのですか。それを恥としないのですか。核兵器の使用は非人道的ですよ。」と問いかけ、核兵器使用の正当性を剥奪しようとしているのである。核兵器国に核兵器使用を思いとどまらせる一つの有効な方法であることは間違いない。非人道的手段での政治的意思の実現は、決して国際社会の共感を得られないからである。
 このアプローチは、核兵器は不必要と考えていたコリン・パウウェルが、2002年、対立するインドとパキスタンの首脳に対して、「もう一度、広島・長崎の写真を見てはどうか。」と迫って、核兵器使用を思いとどまらせた手法と相通ずるところがあるといえよう。

 ところで、私たちは、広島と長崎への原爆投下について、単に写真にとどまらず、法的判断を持ち合わせている。1963年の原爆裁判(下田事件)東京地裁判決である。

 判決は、「原子爆弾による爆撃が仮に軍事目標のみを攻撃の目標としたとしても、原子爆弾の巨大な破壊力から盲目爆撃と同様な結果を生ずるものである以上、広島・長崎両市に対する原子爆弾による爆撃は無防守都市に対する無差別爆撃として、当時の国際法から見て、違法な戦闘行為である。」としている。判決は、米軍による広島・長崎に対する原爆使用は、「無差別攻撃」を禁止する国際法に違反すると判断しているのである。

 さらに、判決は、「広島、長崎両市に対する原子爆弾の投下により、多数の市民の生命が失われ、生き残った者でも放射線の影響により18年後の現在においてすら生命を脅かされている者のあることはまことに悲しむべきことである。原子爆弾のもたらす苦痛は、毒、毒ガス以上のものといっても過言ではない。このような残虐な爆弾を投下した行為は、不必要な苦痛を与えてはならないという戦争法の基本原則に違反している。」としたのである。判決は、原子爆弾は「残虐な兵器」であり、国際法に違反すると断言しているのである。

 50年前、東京地方裁判所は、「無差別攻撃の禁止」や「残虐な兵器の使用禁止」は、国際人道法の基本原則であり、その違反は、非人道的という非難にとどまらず、法規範に違反することになる。よって、核兵器の使用は、道義的非難に値するというだけではなく、違法だということを明言しているのである。

 そして、この判断枠組みは、国際司法裁判所の「核兵器の使用、使用の威嚇は、一般的に国際法に違反する」とした勧告時意見(1996年)にも共通するものである。

 このように、核兵器使用は、道義的、政治的責任のレベルを超えて、法的にも容認されないものであるとされつつあるのである。むしろ、違法というにとどまらず、犯罪であるという言説も説得力を持って展開されているのである。

 けれども、核兵器国や核兵器依存国は、いまだに核兵器の安全保障上の有効性を理由として、核兵器廃絶に消極的である。例えば、日本政府は、核兵器の非人道性を認めながら、核兵器の抑止力に頼ろうとしているのである。仮に、軍事的に有効であったとしても、無差別攻撃や残虐な殺傷を禁止するのが、国際人道法(戦争法)の存在理由である。日本政府は、国際人道法についての初歩的理解がないのである。
 安倍晋三首相は、「化学兵器はいかなる場合でも禁止されるべきである。」いう。であるならば、核兵器も禁止されてしかるべきなのである。首相には、思考を途中で止めないでほしいと注文しておきたい。

 化学兵器、生物兵器、対人地雷、クラスター爆弾などは、国際社会から放逐されている。核兵器についても同様の処置がとられなければならない。そのための政治的意思の形成の根底におかれるべきは、核兵器使用の壊滅的人道的結末への懸念であり、現実に使用された核兵器使用に対する違法判断である。

 人道的結末に懸念を抱く者たちには、広島と長崎への原爆投下がもたらした現実と法的判断を想起して欲しいし、広島と長崎の現実を知る者は、人道的結末に懸念を抱く者たちに、被爆の実相と原爆裁判の現代的意義を伝えなければならない。

 来る12月8日、明治大学リバティタワーで、「原爆投下は、国際法に違反する」とした原爆裁判50年周年記念のシンポジュウムが開催される。
 松井芳郎名古屋大学名誉教授の「原爆裁判判決の現代的意義」についての基調講演、朝長万左男(長崎原爆病院院長)、山田寿則(明治大学・国際法)、小沢隆一(東京慈恵医大・憲法)、田中煕巳(日本被団協事務局長)、川崎哲(ICAN共同代表)、野口泰(外務省軍備管理軍縮課長)各氏によるパネルディスカッション、映画「人間であるために」(原爆裁判を担った岡本尚一弁護士の物語)の上映などの内容である。

 皆さんの参加を心から呼びかけるものです。

2013年11月18日