核兵器の廃絶をめざす日本法律家協会
 
 
 
 
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核兵器の違法性確立のために!

日本反核法律家協会事務局長
弁護士 大久保賢一
はじめに
 ヒロシマ・ナガサキから61年余。被爆者は、「再び被爆者をつくるな」、「1日も早く核兵器廃絶を」と切実に希望しています(「21世紀被爆者宣言」)。他方、核兵器廃絶は「不可能」、「困難」と考えている被爆者も決して少なくありません。確かに、核保有5大国は27,250発といわれる核弾頭を所持し(2005.1現在・ピースデポ)、アメリカは核兵器の先制使用を公言しています。史上最強の大国といわれるアメリカがこのような態度をとり、被爆国でありながら、そのアメリカに追随している日本政府の態度を見ると、被爆者の方たちが悲観的になることも無理もないことなのかもしれません。
  けれども、私たちは、被爆者の熱望に応えるというだけではなく、自らの問題として、核兵器廃絶をめざす必要があるのではないでしようか。
  被爆者は、「原爆は人間として死ぬことも、人間として生きることも許さなかった。」と証言しています。また、05年7月の「ノーモア・ヒロシマ・ナガサキ国際市民会議」アピールは、「核兵器の使用は国際法上全面的に違法であり、数世紀にわたる数百万の被害と犠牲のもとに築き上げられた国際法の基本原則に違反する。更に、それは人道に対する犯罪である。」としています。
  私自身も、このアピールに賛同しますし、核兵器廃絶は人間として極めて自然な要求であると考えています。
  そして付け加えれば、核兵器廃絶と戦争をなくすことは表裏一体の関係にあると考えています。なぜなら、戦争になれば核兵器をもつ国と持たない国の力関係は明らかですから、戦争での勝利を考える限り、核兵器は不可欠となるからです。こうして、戦争と戦争に勝つことを前提とする限り、各国は核軍拡競争を避けられないことになるのです。戦争は殺傷力と破壊力で勝負を決めるものであり、核兵器は究極の殺傷と破壊の手段ですから、核兵器廃絶を求める私たちは、国際社会から戦争をなくすことを求めなければならないのです。
  その意味からすれば、戦争の放棄だけではなく、軍事力(当然核軍事力を含みます)と交戦権を放棄している日本国憲法9条の先駆性は明らかであり、それを国際社会に広げていくことが求められるのです。
  もう一つ、忘れてはならない視点を提供します。それは、戦争も核兵器使用も政府の行為であるということです。その政府の行為に正当性を与るのは、国民主権国家においては、選挙によって表明される国民の意思なのです。アメリカ政府が核兵器先制使用を現実的な政策とし、日本政府がその「核の傘」を選択しているのは、決してフィクションではなく、国民によって現実に支持されているからです。
  端的にいえば、現代の国際政治の中で核兵器の使用は現実性を持っており、逆に、核兵器保有国や日本において、核兵器廃絶は国家政策となっていないのです。もし、私たちが本気で核兵器を廃絶し、戦争をなくそうと希求するのであれば、同時代を生きている人たちの共感を得て、政府を変えなければならないのです。
1 核廃絶は私たちの意思によって実現可能な課題
 私たちが、「人間として生き、人間として死ぬ」ことを希望し、「人類史上最も凶悪な犯罪」の再発を阻止しようとするのであれば、核保有国にその核兵器を放棄させ、非核保有国にその開発・製造・実験・保有を思い止まらせなければなりません。そして、このことを強固な国際規範として現実化しなければなりません。それは実現可能なのでしょうか。国際法規範と物理的可能性から考えてみましょう。
  国際法規範の形成は直接的には各国政府の意思によります。各国政府に最も効果的に影響力を行使できるのは、その国の主権者である国民であることはいうまでもありません。私たちは主権者です。主権者である私たちには政府を変える権限があるのです。核兵器廃絶も戦争の阻止も、私たちの意思いかんによって決定できる課題なのです。
  私たちと同じように、核兵器廃絶と戦争の阻止を希求する人々が多数派になればこの課題は実現するのです。それは困難かもしれませんが不可能ではありません。
  核兵器は人間が作り出したものであり、物理的に解体可能です。仮に、5万発の核弾頭からウラン235やプルトニウム239を抜き取って1箇所に集めたとしても、重量にして約50トン、体積にして2.5立方メートルの金属塊であるとの試算もあります(「核廃絶は可能か」・岩波新書)。
  戦争は人間の営みです。現実に、この62年間、日本軍は他国の兵士も民衆も殺傷していません。核兵器や戦争は、コントロール不能な自然現象ではないのです。私たちは決して悲観的になる必要はないのです。
2 反核運動の成果と到達点
 ここで、反核運動について述べておきます。反核運動の最も重要な成果は、広島・長崎以降核兵器を使用させなかったことです。朝鮮戦争(1950−53年)、キューバ危機(1962年)、ベトナム戦争(第2次インドシナ戦争1954−75年)などにおいて核兵器は使用されませんでした。また、ベルリンの壁崩壊後、アメリカが核兵器の使用を計画したことが3回あるとされています。91年1月湾岸戦争時、94年3月からの朝鮮半島危機、98年1月からのイラク危機です。
  軍事的効率性からすれば、核兵器の使用は誘惑的であったことでしょう。しかし米軍は核兵器の使用ができなかったのです。もし、戦闘の局面における有利な結果を求めるのであれば、核兵器の使用が選択されたことでしょう。けれども、アメリカは、朝鮮戦争においてもベトナム戦争においても、その後の戦争においても、核兵器の使用ができなかったのです。この62年間核兵器が使用されなかった理由として、反核運動の存在をその一つとすることに誰も反対できないでしょう。私たちはこのことに確信を持ってもよいのではないでしょうか。
  反核運動は、核兵器廃絶はいまだ成し遂げてはいないけれど、この62年間、核兵器の使用と核戦争は阻止してきたのです。劣化ウラン弾のような放射能被害をもたらす兵器の使用が新しい課題として生じていますが、核兵器の使用を阻止してきたことに確信を持ち、新たな課題に立ち向かう必要があるでしょう。その新たな課題とは、核兵器の威嚇と使用を禁止し、核兵器を廃絶することです。そのための国際法を確立することです。
3 核兵器の違法性についての国際法の到達点
 ところで、現在、核兵器は国際法上どのような評価を受けているのでしょうか。
  国際司法裁判所は、1996年の「勧告的意見」において、「国際慣習法にも条約国際法にも、核兵器そのものの威嚇または使用についてのいかなる包括的・普遍的な禁止も存在しない。」(11対3)、「核兵器の威嚇又は使用は、国際人道法の原則に一般的に違反する。しかしながら、国家の存亡そのものが危機にさらされている自衛の極端な状況においては、核兵器の威嚇・使用が合法であるか違法であるか、確定的な結論は出せない。」(7対7、所長の決定投票)としています。端的にいえば、核兵器の威嚇と使用を直接禁止している国際法はないし、極端な例外とはいえ、核兵器の威嚇や使用が違法とはいえない場合があるとしているのです。
  国際司法裁判所は、毒性、化学及び生物兵器の使用に関する条約上の禁止条項(国際人道法の原則)、ならびに核兵器の保有、配備及び使用に関する核兵器不拡散条約(NPT)およびその他の条約(包括的核実験禁止条約、非核地帯条約など)の分析を行い、更に、慣習的な禁止の根拠の可能性、アメリカの広島及び長崎の原爆投下以降の核兵器不使用の慣行、および核兵器を違法と非難した一連の国連総会決議を検討した上で、核兵器使用を厳しく制限しようとする国際法の傾向を概ね認めたものの、その傾向は、明確な無条件禁止の域にまでは達していないと判断したのです。
  この結論に対して、「核兵器の威嚇と使用は絶対的に国際法に違反する。」との意見を述べているウィラマントリー判事もいますが、彼の意見は残念ながら少数意見なのです。
  国際司法裁判所は、核兵器の違法性を「あるべき法」・「望ましい法」としつつも、いまだ「確立された法」ではないとしているのです。けれども、国際司法裁判所は、ただ手をこまねいているだけではなく、「厳重且つ効果的な国際管理の下において、あらゆる点での核軍縮に導く交渉を誠実に遂行し、かつ完結させる義務」の存在を確認しているのです。私たちは、ここに示されている国際司法裁判所の到達点と限界を正確に認識する必要があるのです。
  この様に、私たちには、核兵器の威嚇と使用を包括的・普遍的・無条件に違法とする国際法を確立していく課題が提供されているのです。
4 核兵器使用正当化論と合法論
 それでは、核兵器の使用はどのような理由で正当化され合理化されているのでしょうか。いくつか整理しておきましょう
(1)広島・長崎への原爆投下は、米軍兵士の犠牲を減らし早期に戦争を終結するために必要であった。これはアメリカ政府の見解です。
(2)原爆投下は、日本帝国主義の植民地支配を終了させることができた。これは、韓国の人たちの率直な意見です。原爆投下に反対することは、日本の植民地支配の継続を望むことを意味するとされているのです。
(3)兵器の使用が攻撃に対抗するものであり、かつ最も適切な手段であることが明らかな場合には、反撃であれ、第一使用であれ、核兵器の使用は禁止されない(フランス)。核兵器の使用による反撃が均衡を欠くかどうかは、状況による(アメリカ)。これは、国際司法裁判所における核保有国の意見です。
(4)主権国家の軍備の水準を規制する規則は、当該国が承認した条約以外はありえない。禁止されていない兵器は使用できる。生物兵器、化学兵器、対人地雷などは禁止されても、核兵器は禁止されないという論理です。軍事力行使は、最高レベルの主権行使であり、これを制約するのはその主権国の明示的意思だけであるとの考えです。
(5)核兵器の脅威に対しては米国の核抑止力に依存する(防衛計画の大綱)。抑止とは「敵対者に恐怖心を起こさせ、攻撃行動を自制させること」、「敵対者の目的達成を拒否する能力を備え、攻撃行動を自制させること」である(防衛力のあり方検討会議)。これが、唯一の被爆国を自認する日本政府の見解です。核兵器の威嚇と使用を排除していないのです。
(6)核兵器は、「必要悪」であり、「費用効果がよく」、「代替案がなく」、「合法的」である。ここには、奴隷制度や人種差別を擁護する議論との類似性を見て取ることができるのではないでしょうか。
  核兵器の正当化・合理化はこのように行われています。このような論拠により、核兵器の威嚇・使用についての包括的・普遍的違法化は実現していないのです。これは、「核兵器全面禁止条約」の締結を拒んでいる理由でもあるのです。私たちは、これらの核兵器正当化・合理化論を打破していく必要があるのです。
  これらの議論を打破していく上で、最も必要なことは、ヒロシマ・ナガサキの原爆被害の実相を確認することです。加えて、核実験や原発事故の被害実態、劣化ウラン兵器の人体への悪影響などについて、多くの人たちに伝えていくことです。これらの被害がいかに筆舌に尽くしがたいものであるかを、私たちは学び伝えなければならないのです。
  核兵器は、人類が作り出したものでありながら、人類を破滅させる兵器なのです。人類が人類として生存することを不可能とする兵器を持つことは、絶対に許してはならないのです。それは、現在を生きる私たちの、将来の人類社会と地球環境に対する最低限の任務なのです。
5 共同行動の可能性
 既に、多くの人々がこのことに気がつき、行動に立ち上がっています。核兵器廃絶を求める主体は決して少なくありません。ニューアジェンダ連合もありますし、非同盟諸国もあります。平和市長会議は「2020ビジョン」を掲げて奮闘しています。核廃絶や武力紛争を阻止するためのNGOsや運動が存在します。既に国連には「核兵器条約」も提起されているのです。核兵器に固執する勢力との戦いは、決して容易なことではないとしても、不可能なことではないのです。ツツ大司教は、「人類は奴隷制度もアパルトヘイトもなくしてきた。戦争をなくすこともできるだろう。」といっています(1999年「ハーグ世界市民会議」)。
  また、日本の裁判所において、原爆投下は国際法に違反するとの判決が出されたこともあります(東京地裁・「原爆裁判」・1963年)。被爆者が自らの病気(癌や白血病、甲状腺異常)は原爆に原因があると主張する原爆症認定訴訟においては、放射能が人体に及ぼす悪影響は未解明な部分があるとして、被爆者救済の道を広く認める判決が出されています。
  法の世界においても、「核兵器の威嚇や使用は、法の根本にある正義や人道と相容れない。」とする潮流は間違いなく存在するのです。
  私たちは、核兵器も戦争もなくすために、また歩き続けるのです。正確な羅針盤を作り、共同の力で、核兵器廃絶の航海を成し遂げましょう。
(2007年6月17日)