核兵器の廃絶をめざす日本法律家協会
 
 
 
 
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反核法律家協会初代会長松井康浩弁護士を「偲ぶ会」での池田会長の追悼文

松井康浩先生を偲ぶ
― 核時代における日本の法律家として松井先生が貫き通した一すじの道とは ―

2008年11月16日
池田 眞規
*はじめに
 松井先生を偲ぶ会に当たり、日本反核法律家協会の創立以来師事してきた後輩として、先生の業績とその意味するところを語ることができることを日本の反核法律家として誇りに思うものであります。
  広島への原爆攻撃によって、人類は核戦争による自滅の脅威の時代に入りました。日本の法律家は、核兵器の犯罪性を法的に告発して、核兵器をなくす世界の運動に貢献する特別の使命と責任があります。ここで松井先生の、核時代における日本の法律家としての、その主な業績を語らせていただきます。
  先生の法律家としての社会的活動の原点は二つ考えられます。その一は、日中戦争において経理部士官として参戦した体験です。中国での体験は、無抵抗の捕虜や市民に対する日本軍の非道な殺戮、そして破壊・略奪の実態の目撃であります。もう一つの原点は、敗戦後、帰国して弟さんから聞いた廣島での原爆の悲惨な被害の実態であります。
  この原体験から、先生の弁護士としての具体的な社会的活動が展開されていったと考えられるのであります。それは「再び原爆悲劇は繰り返してはならない」という「反核」の行動であり、もう一つは、「再び戦争は繰り返してはならない」という「非戦」の行動であります。
  先生の弁護士として「反核」の具体的行動としては、原爆投下の国際法違反の追及であり、核兵器廃絶のための活動であり、また原爆被爆者援護の活動であります。「非戦」の具体的行動としては、再び戦争の惨禍を繰り返さない、という非戦の宣言をした平和憲法の擁護の活動、平和の基本となる人権擁護の活動、人権擁護の担保である司法の独立の実現、司法制度の民主化のための活動などであります。
1.
 まず最初に、先生の「反核」の行動について、先生の顕著な活動とその意味を紹介したい、と思います。
 まず、原爆裁判の判決であります。これは先生の誇るべき不朽の名誉ある勲章であります。先生が獲得された「米国の原爆投下は国際人道法に違反」という判決は、核兵器のない世界を求める人類の念願の運動に大きな貢献をしました。それは、核兵器を断罪した人類史上最初の輝かしい画期的な判決であります。
  敗戦後、中国戦線から帰国された先生は、弟さんから、廣島で受けた原爆の悲惨な体験を聞かされ、先生は「この残虐悲惨の知覚と理解、その弾道こそ、核兵器廃絶の原点であろう」とその衝撃を語っておられます。そこに、すでに将来の先生の行動の決意さえ見ることができます。先生のその決意は、先生が弁護士になって僅か3年後に現実の行動となります。すなわち、戦後、気骨のある老練の岡本尚一弁護士が現れました。彼は、極東軍事裁判の戦犯の弁護人でしたが、戦勝国米国の原爆投下は国際人道法違反であり許されない、原爆投下をした米国を裁くべきであり、また、原爆被害をもたらす戦争を開始した日本の政府も裁かれるべきである、と考えました。そして、その裁判の提起を米国及び日本の弁護士らに依頼または呼びかけたのであります。その日本での呼びかけに、はせ参じて、最後まで訴訟活動を続けた唯一人の熱血青年弁護士が松井康浩先生その人だったのであります。そうして、55年4月、岡本弁護士と松井先生は、原爆被爆者下田隆一氏らの代理人として東京地方裁判所に原爆裁判を提起しました。3年後、先輩の岡本弁護士が先立たれました。残された先生は原爆訴訟を最後まで遂行し、63年12月に画期的な判決を勝取ったのであります。
  原爆被爆者が原告となって訴訟を提起し、裁判所の判決において「米国の原爆投下を国際法違反と判断した」ことは、世界に例がなく、先生は人類史上永久に残る大きな成果を挙げたのであります。この判決は、国際会議でも、国際的法律文書においても「下田(原告下田隆一の姓)ケース」の判決として引用され、後述する国際司法裁判所が96年7月に国連総会に対し与えた「核兵器の使用と威嚇に関する勧告的意見」の判決文の中でも、この原爆判決は「下田ケース」として引用されたのであります。
  忘れてはならない歴史に残る偉大な先生の業績の一つであります
 そして松井先生は、原爆裁判進行中の57年8月、第3回原水爆禁止世界大会・法律家会議に出席し、原爆裁判の経過と問題点を報告し、支援を要請しました。さらに先生は翌58年の第4回原水爆禁止世界大会・法律家会議にも出席して原爆裁判を報告しております。この会議は声明をもって「原水爆の使用・実験の違法性について国際司法裁判所の勧告的意見を求めること、国連総会において核兵器の実験、使用の禁止などの協定の締結をすること」を提案したのであります。今思えば、松井先生を含めて原水爆禁止を求めて集まった日本の法律家たちのその先見性には驚くばかりであります。と言いますのは、この声明でなされた「国際司法裁判所の勧告的意見を求める」という提案は、それから30年以上後になって、世界の反核法律家の呼びかけによって現実の運動となって実現してゆくのです。それに松井先生も立会い、参加するのです。さらに、この声明でなされた「核兵器の実験・使用の禁止などの協定の締結の提案」という提案についても、上記声明から、35年後の93年8月の原水爆禁止世界大会国際会議で、松井先生は「核兵器廃絶条約要綱の案」を発表して、核兵器禁止条約の運動を呼びかけたのであります。
 一方、松井先生は原爆被爆者の運動にも原爆判決を通じて、貢献したのであります。原爆判決は、原爆被爆者の「核兵器廃絶の要求と原爆被害の国家補償の要求」に法的正当性の根拠を与えたのであります。日本原水爆被害者団体協議会(略称:日本被団協)は、原爆判決が出てから3年後の66年10月に、「原爆被害の特質と被爆者援護法の要求」(通称つるパンフ)を発表しました。そのなかで、原爆判決を引用して「国家は自らの責任において開始した戦争により、原爆投下による被害を招いた結果責任として、被爆者に対し、原爆で受けた被害の補償責任がある」と確信をもって政府に要求し、日本被団協の基本方針としたのです。こうして、原爆判決は被爆者の原爆被害の国家補償の要求に法的根拠を与えて貢献したのです。同時に原爆判決の「原爆投下は国際法違反」という法的判断は、被爆者の「核兵器は二度と使うな」という核兵器廃絶の要求に法的正当性の裏付けをしたのです。
 そのような関係から、松井先生は、日本被団協の代表委員の伊東壮氏(山梨大学学長兼任)との間で、志を同じくする同志的な深い交流を長く続けていたのです。また、廣島で原爆を受けた松井先生の弟さんは、東京都練馬区に居住され、練馬の被爆者の会の会長として、東京の被爆者団体協議会(東友会)の運動に参加されていたのです。
2.
 次に先生の「再び戦争を繰り返すな」の「非戦」の具体的活動についてですが、これは鳥生先生のご報告に譲りたいと思います。
3.
次に松井先生の「反核運動」における国際的活動について述べます。
 これはかねてからの松井先生の反核運動の夢の実現の活動です。
89年、米国・ソ連・デンマークの3国の法律家の有志が設立した「核兵器の廃絶を目指す国際法律家協会」(略称・国際反核法律家協会・IALANA)の事務局(オランダのハーグ市)から、ハーグ市で開かれる創立総会に日本も参加するよう要請がきました。この要請に応じて、松井先生を日本の法律家訪問団の団長として、日本被団協に奉仕していた法律家の私らは参加しました。何故なら日本の訪問団の団長は、原爆判決を勝ち取った「世界の松井先生」しか考えられなかったからです。私らは、原爆被爆者の代表として山口仙二氏をハーグへ同行しました。松井先生は、日本の訪問団を代表して、日本の法律家の活動を報告しました。創立総会は、創立に際して、ハーグ宣言を採択しました。その宣言の中に、「核兵器の使用の適法性について国際司法裁判所に勧告的意見を求める」運動の提案が含まれていました。これは後に具体化するのです。IALANAは団体加盟なので、日本からの訪問団はまだ団体を結成していなかったので、帰国後、とりあえず訪問団を中心に関東反核法律家協会を結成し、松井先生を会長に選任しました。その後全国組織となり「核兵器の廃絶を目指す日本法律家協会」(略称;日本反核法律家協会、JALANA)を設立し、会長に松井先生が就任されました。
 そして、91年、松井会長も出席されたIALANA理事会は、「核兵器の使用と威嚇の国際法の違法性について国際司法裁判所に勧告的意見を求める運動」(略称世界法廷運動WCP)を提起することを決定したのです。そしてこの運動を反核を目的とする世界の非政府国際組織(NGO)に呼びかけました。
  IALANAは、この呼びかけに応じた世界平和ビューロー(IPB)と核戦争防止国際医師会議(IPPNW)とともに、92年、ジュネーブにおいて、共同して「世界法廷運動」を世界に呼びかけました。このときから勧告的意見を勝ち取る96年までの4年間は、日本の反核法律家たちは松井会長を先頭にして世界の反核法律家たちとともに、国際司法裁判所へ向けて、様々な活動を展開しながら多面的な運動を続けました。
 松井先生にとっては、58年の原水爆禁止世界大会・法律家会議において、先生の原爆裁判の報告の討議を契機に採択された「国際司法裁判所の勧告的意見を求める行動を提案」の声明から数えて34年後、当時では夢のような壮大な提案が現実の国際的な行動として、自ら取組むことになったのです。松井先生の「一すじの道」の長い道のりのなかでも、それは余りにも出来すぎたドラマのようです。そして夢がその後実現するのです。
 世界法廷運動が始まった92年の夏の原水爆禁止世界大会に松井先生は、日本反核法律家協会の会長として参加されました。その大会で、主催団体である原水爆禁止日本協議会事務局長の高草木博氏は、長らく世界のNGO総会の会長をされていたイーディス・バランタイン女史と松井先生を会わせて、松井先生の活動を彼女に紹介しました。彼女は、松井先生に対して「核兵器禁止条約のモデルをつくってください」と、それこそ生涯の友に出会ったかのように顔を高潮させて迫ったそうです。先生は、バランタイン女史との重大な要請について1年間の熟考のうえ、翌93年6月の原水爆禁止世界大会国際会議に出席して「核兵器廃絶条約要綱案」を発表したのでした。これも、先生にとっては、35年前、原水爆禁止世界大会法律家会議の声明での「協定を締結するべきである」という提案の具体化でもあったのです。
  一度自ら関与した提案をした以上、それを忘れることなく実行する機会を逃がさないという、先生の「一すじの道」であります。松井先生が作られた条約の要綱は、核兵器廃絶条約を各国政府に締結させるための世論作りのためのものでした。ですから、分り易く、単純明解なものでした。そこには、国民に理解してもらい運動の発展に貢献するという先生の姿勢と配慮が見えるのです。
  後日談ですが、93年の原水爆禁止世界大会で発表された松井先生の「核兵器廃絶条約要綱」は、大会に出席していたノーベル平和賞を受賞した国際平和ビューロー(IPB)の事務局長コリン・アーチャー氏が持ち帰り、後にそれを米国で国際反核法律家協会(松井先生が会長の日本反核法律家協会の加盟団体)のピーター・ワイス会長に見せたそうです。それが引き金になって、その後、同会長の国際反核法律家協会が中心になって、核問題の専門家のネットワークの協力を得て、条約締結の国際会議の討議の草案となる詳細な「モデル核兵器条約」を完成させたのでした。これは、国際反核法律家協会副会長ヴァルガス教授(コスタリカ)が、アナン国連事務総長に提出し、国連文書となり、それは全国連加盟国に配布されたのです。
  先生の隠れた功績は,無限に広がって、世界の反核運動に貢献しているのです。
  このように、先生は常にその時の社会の状況を大局から見て、自分の法律家としての役割を考えて行動をした非凡な法律家でありました。
 92年に始まった上記の世界法廷運動の日本での運動は、日本反核法律家協会を中心にして、日本被団協や日本生活協同組合連合会などの協力のもとで、宣伝、講演、署名などの運動が大きく展開しました。とくに、日本生協連(加盟者1900万人)の協力を得て集めた、国際司法裁判所の裁判官への公正な判断を求める330万人を超える署名のハーグの裁判所への提出、95年11月のハーグの大法廷での公開弁論への42名(国際司法裁判所開設以来初めて)の大傍聴団の派遣、大法廷への廣島・長崎市長の出頭の実現など、各国の反核運動が驚くほどの大きな成果を挙げました。そして96年7月、国際司法裁判所は国連総会に対して「核兵器の使用と威嚇は一般的に国際法に違反する。核軍縮に導かれる交渉を誠実に遂行し、完結させる義務がある」という勧告的意見を発表しました。原爆被爆者から見れば必ずしも満足するものではありませんでしたが、世界で最も権威のある裁判所、それも核兵器保有国出身の裁判官を含めた裁判官のすべてが一致してこのような法的判断をしたことは、核兵器の廃絶運動に、基本的な法的正当性を与える大きな貢献をしたものでありました。松井先生にとっては、58年前の原水爆禁止世界大会での国際司法裁判所に勧告的意見を求める運動を提起してから38年を経て、その夢が実現したのでした。
 96年の世界法廷運動は国際司法裁判所の勧告的意見の一応の成果を経て二〇世紀の終わりを迎えることになります。二〇世紀の最後の99年に、暴力の支配した20世紀を総括して、21世紀を「暴力の支配に替えて法の支配による、核兵器も戦争もない世紀にしよう」という壮大なテーマを掲げて、国際反核法律家協会、戦争防止国際医師会議、国際平和ビューロー、世界連邦運動の4つの国際非政府組織が共同してハーグ(オランダ)で、ハーグ平和アピール市民社会会議を開きました。参加した国は100を超え、1000を超える団体、1万人に及ぶ市民が集まる大集会となりました。日本からも400名を超える人々が参加しました。日本反核法律家協会は、この大会で、政府による憲法改悪が迫る危機を世界に訴えようと考えて、「日本国憲法の非軍事思想を世界の規範に」のテーマで私らが執筆した12の論文を英文にした冊子を1000冊作成して大会に持ち込み配布し、主催の4団体の首脳や廣島市長と長崎市長を招いてジャパンデーを開き、多くの分科会に出席するなどして世界各国の人々と交流し、大きな成果を収めました。特に最終日には法の支配を勝ち取る運動の基本原則として集約された「公正な世界秩序のための10の基本原則」を、舞台の上で、原則をひとつづつ読み上げながら子供たちの手によってアナン国連事務総長に手渡しされました。その第1原則に、私らの活動が功を奏したのか「各国議会は、日本国憲法第9条のような、政府が戦争を禁止する決議を採択すべきである」と掲げられました。松井先生は、このことについて「日本の参加者の努力が大きい」と、めったに先生の配下の我々が頂けなかった「お褒めの言葉」を先生の著書に書かれてあったことを大発見して、先生が、私ら反核法律家協会の会員のハーグ会議に向けた活動について高く評価して頂いたものと勝手に解釈して、感激したのであります。
4.結び
 先生の業績の全体像のうち、反核と非戦のテーマでの活動の主要なものに絞って時系列に整理しみると、最初に大きな望みを抱き、それから後は、思いもがけない事態の展開を重ねながら、何十年もかけて、見えない筋書きにしたがって、あたかもドラマを見ているように様々な活動を演じながら進み、その行き先には、かって夢みたことが現実となって目の前に現れ、それが人類的な規模の大きな功績となるのです。それは常人では経験することのできない先生の壮大な人生航路なのでした。
 最後に、先生の著書からの言葉の中から、私らに与えられた強いメッセージを引用して、結びの言葉といたします。
"核兵器の廃絶は、現代社会における世界最大の課題である。
憲法前文第一項は「政府の行為によって再び戦争の惨禍がおこることのないように決意し、ここに主権が国民に存することを宣言してこの憲法を確定する」、
第二項は「日本国民は、恒久の平和を念願し、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と規定している。
米・日政府は、この憲法の人類普遍の大理想に違反する政策をとり続けている。主権者である私たちは、諸国民と連帯して平和を脅かす核兵器の廃絶に力を尽くさなければならない。これが21世紀における人類的使命である。"

  松井先生が、核時代における日本の法律家として貫き通した「一すじの道」とは、非核と非戦の理念を凝縮させ、被爆者の魂がこめられた日本国憲法を実現する道であったのでした。松井先生の歩み続けた「一すじの道」を、私らも歩み続けることを誓って、これをもって、松井康浩先生の追悼の言葉といたします。
以上