アダムス夫人、本日、平和と国連のために力を尽くされたご主人を偲んでお話しできることを光栄に思います。
私は、1925年12月8日のオーストリア・ウィーン生まれであり、「1945年、私は20歳だった(I was 20 in 1945)」という創造力あふれる講演題目は〔国連アカデミック・インパクト(UNAI)の責任者である〕ラム・ダモダランの発案によるものです。彼は、国連のことを語る一つの方法が私の人生を語ることであると確信しているので、皆さんは一石二鳥を得ることになるでしょう。
1945年、米国陸軍の兵士としての私の最後の赴任地は、ニューヨーク州ではなく〔マサチューセッツ州の〕ボストン湾内にあるロングアイラインド島でした。ロングアイランド島は、私が所属するドイツのロケット科学者用の収容施設とマサチューセッツ州が運営する精神科施設とで共有されており、時には一方の収容者と他方の収容者とを区別するのも困難な場合がありました。しかし、1945年の8月9日、戦友と私自身の注意は、原子爆弾と呼ばれる新兵器についての日本からの報道に向けられていました。ご存じのように、原子爆弾は最初に広島に、数日後には長崎に投下され、そして、そのほとんどが無実の文民であろう人々が犠牲となり、どのように死に至ったのかを恥じることもなく、私たちは、これで戦争が間もなく終わり、日本軍と戦うために日本に派遣されなくてもすむと安心したものでした。
数十年が経ち、一様ではないものの、いずれにせよ日本は降伏の準備ができていたのだと歴史家たちが主張したことで、原子爆弾の恐怖を解き放つことは正当化できなくなりました。しかしながら、これが核兵器のない世界への運動に関与していくという私の生涯の決意の始まりだったのです。
それはまた、国連の始まりでもあり、戦争の惨害から将来の世代を救うための憲章とその主要なミッションの制定の始まりでもありました。ミッションに忠実に、国連総会により採択された最初の決議では、原子力の発見を研究し、また、原子力の利用を平和的なものに制限するための委員会が設立されました。また、ほとんど忘れられてきたのですが、同決議では、この制限の違反者を戦争犯罪人として処罰することも明記されました。
これら〔国連設立による大きな変化〕を通して生きてきたのなら、決して忘れえないであろう年があります。1945年はそのような年でした。それは、いまだ女性やLGBTQIコミュニティの平等な権利にまでは及んでいなかったものの、巨大な手が世界を恐怖から希望へ、戦争から平和へ、独裁から民主主義へ、植民地主義から脱植民地主義へ、死のキャンプから難民キャンプへ、経済的搾取の現実から豊かさの夢へ、そして、人種差別から人権へと反転させるかのようでした。
時間を少し戻しましょう。1941年に〔ナチスのホロコーストから逃れて〕両親と私がヨーロッパからニューヨークに到着したとき、反ユダヤ主義の虐殺では真っ先に知識人が標的となったことから、両親は、私を技術者向けの高校であるシュトラーベン・ミュラー・テキスタイル校に在籍させました。しかし、私は、翌年には両親を騙してグレート・ブックス・スクールとして知られるアナポリスのセント・ジョンズ・カレッジに入学しました。過去50年間で事物がどのように変化したのかを理解するために、私は、300ドル相当の授業料全額の奨学金を得たのです。
このことと国連がどう関係するのですかって? これからお話ししましょう。先に述べたように、国連は、第二次世界大戦後の主要な目的、すなわち次の戦争を防止するために1945年に設立されました。しかし、当然のことながら、その目的は、先に述べた規範や価値の達成をまずもって進歩させなければ達成できないものでした。そのため、総会、安全保障理事会といった国連の政治的要素は、すぐに国連または国連に関係する機関や組織の略語で彩られることになりした。数例を挙げると、UNESCO〔国連教育科学文化機関〕、FAO〔国連食糧農業機関〕、WHO〔世界保健機関〕、ECOSOC〔国連経済社会理事会〕などが挙げられます。
後に、私は、国際商標弁護士として国連の関連機関であるWIPO(世界知的所有権機関)と関わることになりました。WIPOはジュネーブに大きなビルを所有しており、モンブランの素晴らしい景色を眺めることができます。
1945年以降、国連で起こったことと似たようなことが私の身にも起こりました。私は、セント・ジョンズ・カレッジの前学長と学部長であるストリングフォロー・バーとスコット・ブキャナンという二人の著名人の非公式なスタッフでした。彼らは、カレッジの通りの向かい側にある米国海軍兵学校との長い諍いを収めるまでその職にあったのですが、それは、カレッジの美しいキャンパスをより有意義に用いたいと思ってのことでした。彼らはまた、世界政府の樹立を支援する財団の設立を目指し、この時代ではそれに見合った金額である100万ドルの助成金を相続人から受け取って、これを実現しました。しかし、国内外の専門家との真剣な協議の結果、彼らは、非常に豊かな国と非常に貧しい国とを抱える世界政府は非現実的であるという結論に達しました。その代わりに、国連を見倣い、より公平な世界を実現する方法についての多くの小冊子を作成したのです。彼らは、米国と国連の双方に対し、少なくとも、技術援助と呼ばれるようになった経済開発向けの技術援助を提供するように求めました。バーは、「人類に参加しよう」と題された小冊子を作成し、その中で、当時は未開発国と呼ばれていた諸国への国連の技術援助予算がニューヨーク市の道路清掃予算とほぼ同額であると指摘しました。
1952年に〔イエール大学の〕ロースクールを修了すると、私は、IDPAと呼ばれる国際開発職業斡旋協会(International Development Placement Association)という新たな組織を率いるように先に述べた財団から依頼されました。私の仕事は、アフリカ、アジアやラテンアメリカで必要とされる技術的スキルを、そのような技術的スキルを備えた若いアメリカ人が提供できるように現地の賃金水準の補償付きで手配することでした。この小さな組織が先進国と未開発国との間の不平等の解消にどの程度の影響を及ぼしたのかは、今となっては想像できません。しかし、米国の平和部隊や国連開発計画のようなはるかに巨大な組織による開発援助が実現可能であると実証することに多少ながらも貢献したのではないでしょうか。また、〔元〕ペンシルバニア州上院議員の故ハリス・ウォフォードなどIDPAで活動していた人々の一部は、平和部隊にも参加しました。
経済開発の仕事には思いがけないご褒美がありました。1954年に、私は、村落開発についての講演ツアー中であったマハトマ・ガンジーの孫であるアシャデヴィ・アリャナコムに付き添う幸運に恵まれました。ご褒美には、ウィスコンシン大学のカフェテリアで出会ったこの講演企画の前任者であり、63年間連れ添った最愛の妻でもあるコーラ・ワイスも含まれていました。
コーラと私が共に最も集中して取り組んだことの一つは、脱植民地化でした。当時のアフリカは、ガーナのクワメ・エンクルマ、ナイジェリアのアジキウエ、モザンビークのエドゥアルド・モンドラーネ、ギニアビサウとカーボベルデのアミルカー・カブラル、ケニアのトム・ムボヤ、タンガニーカのジュリアス・ニエレレや、最後になりましたが、南アフリカのネルソン・マンデラとオリバー・トンボといった巨人のチームを生み出しており、このような人々は、今日の世界のどこを探しても見出すことが困難であるといえましょう。私たちは、彼らすべてと会いました。彼らのうち何人かは、私たちと共に〔ニューヨーク市の〕リバーデイル地区に滞在し、そして、反植民地の請願者としての自由を求めるスピーチを伝えるべく、私たちは、彼らを国連本部まで連れて行ったのです。
植民地主義が終わりに近づくにつれて、私が議長を務めたアフリカに関するアメリカ委員会(ACOA〔American Committee on Africa〕)は、南アフリカのアパルトヘイトへの反対を強めました。世界で最も有名な囚人であるネルソン・マンデラが刑務所から釈放されたのをテレビの生放送で見たことは、感情の行き場を無くしてしまうほどの貴重な経験でした。後に、〔南アフリカの〕国政選挙で初めて黒人が投票するのを直接支援したことは、見逃したくないもう一つの経験です。今日の南アフリカのすべてが完璧なわけではないのですが、これからいつ、どこでこのようなことが起こるというのでしょうか? アフリカへの旅から帰国し、ラジオの対談番組で、アフリカはデモクラシーの準備ができているのか、と尋ねられたことを覚えています。「私たちは?」と私は答えました。この質問をした方は、私が何について話しているのか全く理解していませんでした。
国連も理解していたように、アフリカの状況は深刻なものでしたが、それが薄れる瞬間もありました。鉄道労働者組合の代表であったセク・トゥーレがギニアの大統領にまで昇りつめた後、アフリカに関するアメリカ委員会は、彼を招請しました。私は、セク・トゥーレに一族がユニオン・パシフィック鉄道を所有していた〔ニューヨーク州の元知事であるW・アヴェレル・〕ハリマン知事を紹介したのですが、ハリマン知事は、完璧なフランス語で「お目にかかれて光栄です、大統領。私自身も古い鉄道人です」と挨拶しました。
1946年に陸軍を除隊したとき、私は、願ってもない申し出を受けました。セント・ジョンズ・カレッジで最も人気のあるチューターであり、学生から我らの教授と呼ばれていたジェームズ・スチュワート・マーティンは、経済戦争委員会に加わるため、休職してワシントンに移っていました。ヨーロッパでの戦争終結後、32歳の壮齢であった彼はベルリンに赴任し、〔占領下の在独〕米国軍事政府であるOMGUS(Office of Military Government United States)の非カルテル課を率いました。私がドイツ語に堪能であることを知っていた彼は、翻訳者か通訳者として私に専属スタッフに加わるよう申し出たのです。その仕事は、ささやかな個人宅と時にはドイツ人の運転手付きのジープを備えていました。その当時、「カルテル」という言葉は、メキシコの麻薬組織を意味するものではなく、米国の〔経済〕政策を崩壊に導くような経済的トラストを意味していました。具体的には、ヒトラーの台頭とその権力の維持を支えたドイツの巨大財閥のことです。非トラスト化は、大成功とまではいきませんでしたが、ジム・マーティンによる魅力的な著作を生み出しました。その書名は何ですかって? シェイクスピア〔の『ジュリアス・シーザー』〕から引用された「みな高潔な人々(All Honorable Men)」といいます。
弁護士は、自分が勝訴する事件か、勝訴確実な事件は世界を変えることができると考えがちです。しかし、いつもそうとは限らないものです。私は、1980年に〔外国人不法行為法により、外国で行われた外国人間の拷問事件を米国の裁判所で裁いた〕フィラルティガ事件で勝訴しました。フィラルティガ事件は、米国において普遍的管轄権の原則を確立したもので、普遍的管轄権の原則とは、一部の犯罪や不法行為は非常に重大なものであることから、その行為が行われた国以外でも訴追が可能であるという考えです。四半世紀の間、フィラルティガ事件は、世界で最も引用され、また、訴訟を引き起こした人権訴訟となりました。その後、米国連邦最高裁判所はこれを覆しました。
1980年は人権にとってもよい年でした。〔その翌年の1981年にはLCNPが設立され、〕同志たちと私は、〔1996年に〕核兵器が一般的に違法であり、廃絶されなければならないという決定を国際司法裁判所から勝ち取る役割を果たしました。この決定は、今なお有効なのですが、核兵器国は注意を払っていません。カート・ヴォネガットが〔『スローターハウス5』で〕繰り返し述べたように、そういうものだ(So it goes)、ということです。それでも、すべてが失われるわけではありません。法廷や街角のあらゆるところに、歴史の弧は正義に向かって描かれているというマーティン・ルーサー・キングの信念を裏付ける萌芽があります。その軌道が完了するまでの時間を稼ぎ、共に完成させましょう。そして、国連がそのための主要な役割を担っていることを忘れないようにしましょう。