核兵器の廃絶をめざす日本法律家協会
 
 
 
 
  意見 >>> 日本反核法律家協会(JALANA)に関する資料

地図の上朝鮮国に黒々と墨を塗りつつ秋風を聞く(石川啄木)

日本反核法律家協会事務局長  大久保賢一
 今、国連では「核兵器禁止条約」が議論されている。7月7日までには、核兵器の非人道性を確認し、ヒバクシャのたたかいに言及する、核兵器の開発、実験、移転、配備、使用などを包括的に禁止する「核兵器禁止条約」が採択されるであろう。「核兵器のない世界」が実現するためには、核兵器国の参加が不可欠であるけれど、国際法に新たな一歩が築かれることになることは間違いない。この後の一歩が求められることになる。

 けれども、日本政府は、この条約に反対している。「北朝鮮の脅威がある状況で、『核の傘』から出るような決断はできない。」というのである。北朝鮮の核とミサイルには過剰とも思われる反応をするのに、日本は核に依存するというのである。自分は核兵器の有用性をいいながら、他国にはそれを認めないという主張は、身勝手この上ない没論理的なものでしかないことに気が付いていないのだろうか。

 この日本の論理と行動について、こんな見解を紹介したい。長い間、朝鮮民主主義人民共和国は、東北アジア唯一の非核国でした。ロシア、中国、アメリカ、そのアメリカの核の傘に依存する日本と韓国。周りは核だらけです。韓米は大規模な共同軍事演習を毎年やっています。北朝鮮は人民と国を守るために、生き残るために核開発に走ったわけです。昔から、朝鮮民族は白い服を好む白衣民族です。その服を外からの暴力により墨で塗られたという怨念があります。一つは、「地図の上朝鮮国に黒々と墨を塗りつつ秋風を聞く」と啄木が詠った幸徳秋水の大逆事件の頃です。もう一つは、1957年5月20日、朝鮮半島に核が持ち込まれたことです。これ以前に、朝鮮半島が核で汚されたことはありませんでした。これは、高演義先生(朝鮮大学校教員)の見解である(「反核法律家」90号・2017年新春号)。少し注釈を加えておくと、啄木のこの歌は、1910年(明治43年)に発表されており、この年は、大逆事件の検挙があり、朝鮮が併合された年でもある。1957年(昭和32年)5月20日は、米軍によって、朝鮮半島に原子砲と地対地核ミサイル・オネストジョンが配備された日である。

 樋口陽一先生は、1910年5月の検挙に始まり翌年にかけての大逆事件裁判と大量処刑は、同時代の知識人に強い衝撃を与えていた。…国内のことだけではない。「地図の上朝鮮国に黒々と墨を塗りつつ秋風を聞く」と詠んだ石川啄木は、「韓国併合」によって加速する日本のアジア膨張政策が憲法の立憲的運用を暗く押しつぶすことを、予見していたかのように思わせる、としている(「今、『憲法改正』をどう考えるか」・岩波書店・2013年)。

 今から100年前、この国で起きていたことと、もちろん形態に違いはあるとしても、現在の状況と通底しているものがあるように思うのは、私だけだろうか。北朝鮮を出汁にして核兵器の禁止に背を向け、非軍事平和憲法を改廃して自衛隊の海外展開を目論見、内心の自由に踏み込む監視社会を形成しつつあるこの国の現在を見るとき、将来のためにやらなければならないことは多い。核兵器という「絶対悪の兵器」(被爆者の言葉)に依存しながら、国家の安全を確保するという為政者は、人民の個人としての生命や自由や幸福は、国家の独立と安全に劣後すると考えているのである。個人の命と自由と財産を保全するのは国家である。このような国家の基本的な役割を認めないで、不満を言い立て、抵抗を共謀する連中は、社会から排除しなければならない、と彼らは考えているのであろう。個人の上に国家を置き、武力での紛争解決を容認する彼らとの闘争は決して単純ではない。愚直に挑み続けることにしよう。
(2017年6月20日記)