核兵器の廃絶をめざす日本法律家協会
 
 
 
 
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被爆者と寄り添った弁護士の戦い

弁護士 佐々木 猛也
1. 廣島に生まれ,廣島で育ち,廣島に投下された原爆の閃光を浴び,原爆キノコ雲を見,被爆者たちの戦後の生活との戦い,病気との戦いを見て来た広島の弁護士です。
  被爆58年後の2003年,ガン,白血病その他の病で健康を害した老齢化した被爆者たちは,全国一斉に,各地で,原爆症認定集団訴訟を起しました。
  被爆者の病気が原爆放射線の影響によるものであり(放射線起因性),かつ,現に医療を要する場合(要治療性),これを原爆症と認定し,被爆者援護法に基づき,月額約13万円の医療特別手当が支給されるのです。
  被爆者が罹患した病気は,非被爆者に比べ特異なものではありません。このため,被爆者のガン等の病気が放射線の影響によって罹患したことを被爆者自身が証明するのは困難極まりないことであり,不可能に近いことです。 厚生労働大臣は,被爆距離から算出した初期被曝線量,年齢,病名,男女別などを元に原爆症発症の確率(原因確率)表による方式で認定して来ました。
  その結果,原爆炸裂の瞬間,線量の高い初期放射線で被曝した被爆者が,限定された病気に罹患した場合以外は,原爆症認定から排除されて来たのです。認定を受けた人は,被爆者全体の0.84%に過ぎませんでした。
  あの日のヒロシマは,もうもうと舞い上がる灰神楽のなかを逃げ惑う被爆者たちで溢れていました。地に落ち空中を舞う放射性降下物,放射性物質を含んだ埃や塵を呼吸で吸い込み,放射線に汚染された水や食物を摂取した人たちがいました。遠距離で被爆した人たち,原爆時には市内にいなかったが救護や家族をさがしに爆心地に入り放射性降下物により被曝した入市被爆者たちがいました。放射性降下物を含んだ黒い雨に濡れた人たちがいました。 このようにして体内に取り込んだ放射線は体内で被曝を続け諸器官を侵したのです。しかし,原爆症認定を受けることはできなかったのです。
  国の戦争政策の誤りによって,生活を奪われ,健康を損なった高齢化した被爆者たちは,自分の病気が原爆のせいだと認めて欲しいと,人生最後の余生を掛けた闘いに立ち上がったのです。人の生命や健康が藁屑の如く扱われてはならない,被爆者を放置することは不正義だと,多くの弁護士が訴訟に参加しました。
  私は,広島の裁判所に提訴した被爆者65名の二つの訴訟の弁護団団長を務めさせていただき,第1次訴訟は,2006年8月,41名全員の全面勝訴の判決を,第2次訴訟は,2009年3月,23名中21名の勝訴判決と国の手続き違反による国家賠償を認める画期的な判決を受け,勝訴の喜びを被爆者たちとともに味わさせていただいたのです。
  日本国政府と厚生労働大臣を被告として提訴された原爆症認定集団訴訟は,これまで20を越える連勝を続けています。
  これら判決は,被爆の実相を正しくとらえ,被爆者の苦しみ,被爆者の疾病など原爆投下による深刻な影響を理解し,これまで被爆者の疾病を平然と切り捨てる制度を運用し続けたことを厳しく批判し,原爆被害を過小評価し続けて来たことを断罪しました。
  そして,被爆者らの病気は,初期放射線を受けた被爆距離で決まるものではないと認定制度の運用の違法性を指摘し,残留放射線による被曝や放射性降下物を体内に取り込んで内部被曝することを認め,癌性疾患のほか肝疾患などの非癌性疾患についても起因性を認め,高線量・直接被爆だけではなく2キロ以遠の低線量被爆や入市被爆の者についても起因性があることを認めたのです。
  こうした放射線の永続的な影響は,未だ,広く知られてはいないのです。
  裁判のなかで分かったことは,医学は,放射線障害の全容を解明するまでに進歩してはいないということです。
  度重なる勝訴判決は,国の原爆症認定行政の抜本的転換を迫る状況を作り出し,実際,認定制度を変更させ,被爆者たちに生きる勇気と希望を与えたのです。
2. 5歳と15日目の朝のことです。今から65年前の8月6日,テニアン島を飛び立ったエノラゲイは,午前8時13分,東広島市のわが家から3キロの上空で左旋回して翼を西に向け廣島に向かいました。
  澄み渡った夏の朝でした。白いエプロンを掛けた母と2歳の弟と私は,わが家の庭にいました。その位置もはっきりと覚えています。母がするバリカンでの散髪中でした。祖母は,家のすぐ側の田植えの終わった田に出て,手押しの除草機で草取りをしていました。祖父が,妹が,その時,どうしていたか記憶がありません。教師をしていた父は,2年前,大日本帝国海軍に召集されていました。
  その2分30秒後の8時15分,今もまざまざと思い起こす青空の中,のどかな空気をいきなり突き破って,この世のものとは思えない強烈な橙色の光がピカッーと波打って走り,地を割らんばかりのドカンと響く音,まさにピカドンでした。
  庭から走り出て見た西の空には,異様な形の,灰黒色の巨大な,不気味な,キノコ雲が立ち上がり空に留まって動きもしない異様な情景が現れたのです。32キロ離れた距離を感じさせない近さに廣島はありました。
  世の終わりを思わせたあの情景,大人たちが寄り集まり,不安のなかで迷いながら慌ただしく動く姿,どうなったのか,どうなるのか,限りない不安感,そうした情景や心に残したさまざまな感情を,今,くっきりと想い起こすことができます。
  私は被爆者ではありませんが,その後の64年の人生で,脳裏にこびりつき決して忘れえぬあの瞬間を今も引きずり生きている思いにとらわれます。
  わが家に同居していた33歳の叔父は,廣島県庁に勤務する土木技師でした。爆心地から1.3キロの東千田町で防空壕を掘る指揮をしていたとき被爆したのです。その消息を捜し求め,祖母は,わが子救助のため,近所の人たちと廣島に向かいました。原爆投下直後にヒロシマの街に入ったこの人たちもまた,残留放射線で被曝して入市被爆者となったのです。
  原爆投下の数日後,太陽がギラギラ輝き照りつける暑い日,うつ伏せのまま担架で運ばれ,祖母らと帰って来た叔父の姿,それは正視できるものではありませんでした。背中と両手は焼かれ,皮下の真っ赤な部分が露出し,うめき苦しむその姿は,見るに忍びないものでした。言葉もなく立ちすくむ祖父と母,その情景を,私は,生涯,決して忘れることはありません。
  背中を焼かれ,うつ伏せになって呻く姿,食事も殆どできず,治療方法もなく,薬草を飲ませ,油を塗った背中からはウジムシがわき,それをピンセットで取る祖母・・・。死こそ免れたものの,職に復帰できず退職を余儀なくされ,それを悔やみ,病魔に襲われ早死にした病名は心筋梗塞でした。このたびの裁判のなかで,心筋梗塞には放射線起因性があることを初めて学びました。
  あの惨事,あの苦しみを受けたのに,何事もなく,すべてを達観したかのごとく淡々と振る舞った後年の叔父の,実に,実に,清くすっきりした,その人生観に感じ入りました。被爆者に接するとき,同じことを感じることが多いのです。苛酷な過去の体験を忘れなければ生き得ないためなのでしょうか。しかし,隠された苦悩がどんなものであったのか,今にして思うのです。 叔父は,医療特別手当をもらうこともなく,52歳でひっそりとこの世を去りました。
  母の実家では,祖父と2人の叔母が,あのとき,爆心地から2.5キロの皆實町三丁目882番地にいました。一人の叔母は,播磨屋町9番地の勤務先に向かう途中で被爆しました。今,世界遺産となっている宮島に私を連れて行ってくれたその美しい叔母は,3年後,30歳の若さで亡くなりました。原爆雲の下にいたこの身内の被爆の苦悩を語る紙数がありません。
  被爆者たちは,想像を絶する体験をひとり胸のうちに抱えてしまい込み,生涯を終えて行っているのです。
  1発の原爆・リトルボーイは,廣島の街を,突然に,瞬時に,忽然と消し去り,平地とし,野原にしたのです。人間を焼き殺して炭にしたのです。人々を死にさらし,負傷と病気で苦しめ,1945年末までの4カ月半の間に14万人を殺害したのです。あの空の下にいた人々の生活の一切を断ち切ったのです。国勢調査のあった1950年までに20万人が殺害されたのです。 廣島市在住の弁護士40名中23名が亡くなりました。9名の裁判官が,1名の裁判官試補と35名の裁判所職員が,爆死しました。
  広島での弁護士活動のなかで,廣島がヒロシマとなった,生きることを許さない被爆の実相を日々教えられました。何と多くの,1945年8月6日死亡の,その直後の死亡の戸籍謄本を見たことでしょう。何と多くの,原爆投下直後の死亡の墓碑を見たことでしょう。被爆者たちの無念さに思いを深くします。怒りと同情が渦巻いて来ます。
  原爆は,被爆した人たち,救援のため入市した人たちに,重篤な負傷を与え,病気で苦しませ,財産を失わせ,心に傷を与え,その後の被爆者の人生に様々な陰を残したのです。地獄のヒロシマ,煉獄のヒロシマのあの瞬間は,まさに国際法違反の許しがたい瞬間でした。
  国際法は,戦闘員と非戦闘員(一般市民)を区別するという国際人道法の原則とルールを打ち立てていますが,原爆投下は,これに真っ向から対立し,民間人を攻撃目標とした非人道的な,大量殺戮を目的とした無差別攻撃でした。国際法に違反することは明白です。
  原爆開発にかかわることのなかった世界の人々の誰もが予測もしていなかったこの1発の兵器の使用による残虐,残酷な壊滅的悲劇は,戦争の一部だとはどうしても考えられません。あれは,「戦争」ではありません。
  ニューメキシコに続く,廣島へのウラン原爆投下は,街をターゲットにして破壊力を試し,人々をモルモットにしたジュノサイドであり,2度目の実験でした。長崎でのプルトニウム原爆投下は,3度目の実験でした。叔父や叔母を含む多数の人々が実験の対象となったのです。それは,人間と都市の徹底的破壊であり,倫理も道義も道理もない非人間的な攻撃でした。
  「いのち・くらし・こころ」の,まさに生活全体を破壊された被爆者たちは,病気,貧困,差別,放射線障害,そして不安等々を背負いながら今日までを生きて来,そして,今を生きているのです。こんなことが許され,放置されて良いはずがありません。原爆投下は,明白な犯罪です。違法以外の何ものでもありません。その「犯罪性と違法性」に眼をつむってはなりません。 65年前の「実験」の被害者である被爆者たちは,今も身体的苦しみを抱えながらも核兵器廃絶を強く求めているのです。
3. 被爆者たちは,自分たちの,特異で,深刻な体験を内面化して深め,他者への伝達が難しいが故に,長い間,口をつむって来ました。黙る被爆者の,語ろうにも語れない被爆者の悲劇の実相を想像することを求めたいと思います。 ある被爆者は,「こんな顔になって私には結婚してくれる人もいないのよ。子供が好きだから,お母さんに抱かれた赤ちゃんに思わず声をかけるの,そのたびに何か起こると思う。どの赤ちゃんも私の顔を見たとたん,火がついたように怯えて泣き叫んでお母さんにしがみつくの。どんなに惨めな気持ちになるかあなたにはわからないでしょう。」,「よく聞いて,街を歩いていても,後ろから冷やかし半分に近づいて来た男たちが,私の顔を見たとたん,みんな声を上げて逃げるの。その度に死にたくなるわ。死のうとしたこともあるわ。こんな惨めな気持ちがあなたにはわかるっ。私には強姦してくれる男もいないの」(福島菊次郎「ヒロシマの嘘」現代人文社)と語っています。重い言葉です。言葉を失います。
  被爆者たちは,法廷で,それぞれの生活の歴史,病と生活の苦しみの一部を語りました。しかし,これらがすべてではないのです。
  被爆者らの生の歴史は,すこやかに育った幼少期を除いて,あるいは青壮年期を除いて,受難の歴史でした。文字どおり戦争という戦い,生活自体が熾烈な戦さとなった戦後の生活との戦い,孤独との戦い,病との戦い,死との戦いでした。この終わりなき悪夢のなかで,あらゆる苦痛と悲しみを自己の宿命にあらざる宿命として生きてゆかなければならなかった被爆者らの思いを,原爆被害の実相を正面から真っすぐに見つめ,豊かな想像力をもって理解することを皆さんに求めます。
  35万人の都市を一瞬にして忽然と消し去った原爆の破壊力はいかなるものか,投下直後にその人口の半分近くの者たちが殺害されたのはなぜか,放射線が人体にいかなる影響を与え,苦しみを与えたか,被爆者の身体の奥深く,長年,じっと息を潜めていた放射線障害は,後年,牙を剥き出し襲いかかって来て被爆者をどんなに苦しめ,今も苦しめているのか,これを想像し,実際に広島,長崎を訪れ,被爆資料に出会い,被爆者の声を聞くこと,被爆の実相を知ること,ヒロシマ,ナガサキの悲劇を再体験することは,核兵器廃絶の必要を理解する出発点です。
  「原爆投下の犯罪性と違法性」の認識を共有したいと思います。そのことが,核兵器の廃絶を求める第1歩につながると確信します。
4. 最後に,NPTについて触れます。この条約は,核を持つ国と持たざる国を差別する不平等条約であることは明白です。核不拡散と引き換えになっている核軍縮が機能してはじめて許容できるものです。
  条約6条に定める核軍備の縮小に関する効果的な措置について誠実に交渉がされているとは思えません。
  国際司法裁判所は,1996年7月,国連総会に対し,核兵器の使用及び威嚇に関する勧告的意見を出しました。その意見のF項で,裁判官全員一致で,「あらゆる点において,厳格かつ効果的な国際的コントロールのもとで,核軍縮をめざす交渉を完結させる努力をする義務がある」と勧告しました。しかし,核保有国は,「交渉を完結」させるメドを立てず,「努力をする義務」も果たしていないのです。
  2000年の再検討会議の最終文書にある「核兵器国による自国核軍備の全面廃棄を達成するとの明確な約束」は,どうなっているのでしょうか。
  今や核保有国は9カ国となり,核兵器23,360発が存在し,うちロシア,アメリカが96パーセント,フランス,イギリス,中国を加えると,99.55パーセントを保有していると言われています。
  こうしたなか,ブッシュの退場,オバマの登場で「核兵器のない世界」を求める声は大きくなっていますが,具体的な展開が見えません。それは,核保有国の責任です。核保有国は,義務違反をし,約束違反をしているのです。 再度繰り返して言えば,廣島への原爆投下は,犯罪であり,国際法違反です。「犯罪性と違法性を持つ核兵器の使用」が許されないものである以上,核保有国は,核兵器を使用しないと確約することがなぜ出来ないのでしょうか。
  核抑止論が邪魔をしています。核兵器の脅威が戦争の抑止に有効とするこの論は,いざとなると核兵器を使用することを前提にしているのです。つまり,核抑止論は,抑止が機能しなくなると核兵器を必ず使用することを意味しているのです。
  相手が言うことを聞かなければ,核兵器を使用して,ヒロシマ,ナガサキのように都市を壊滅的に破壊し,住民の生命を奪い,病を与え,苦しみを与え,心に深い傷を与え,暮らしを破壊し,甚大な人的,物的損害を与えることになるが,それでよいのかと迫るものです。ここでもヒロシマ,ナガサキの都市と人間の徹底的破壊,被爆者たちの苦しみを利用しているのです。
  それは,ヒロシマ,ナガサキの悲劇,原爆投下の犯罪行為,違法行為を正当化し,今もなお抑止の材料として利用している,そのことを絶対に許すことができません。
  核兵器は,扱いにくい兵器と言われ,軍事政策的には廃棄可能なのでしょう。しかし,その廃棄は,政治的,経済的政策の転換を含み,政治が保有国国内の軍需産業等に縛られ,経済的問題が関連していることが邪魔をしています。「原爆投下の犯罪性,違法性」について理解がさらに進むなら,その垣根を取り払うことができます。
  被爆者の苦悩を通じ,よくよく考えれば,人間とは一体何なのか,人は何のために生きるのかの問題に突き当たります。人間の尊厳の問題に突き当たります。人間の尊厳を傷付ける核兵器を廃絶することは,人間の尊厳を取り戻す確かな道です。
  ヒロシマ,ナガサキを知らない人も,人間の尊厳を傷つけ否定する一切のものを拒否する価値観を共有することができるなら,否定さるべき第1は,核兵器ということになるのではないでしょうか。「核兵器は人類と共存することはできない!」 それが被爆者たちが出した答えです。
  核軍縮交渉を完結させるため,核抑止のドグマを捨て,核の神話から目覚め,NPT第6条の義務を履行し,自国の核装備を解き,核不拡散条約の目的に一致するよう,地上からすべての核兵器を破棄するためのあらゆる努力をしなければならないのであり,核兵器の早期,完全廃絶の道を示すしかないのです。