今、国際社会では、核兵器使用のもたらす壊滅的な人道的結果についての懸念が共有されている。この懸念に基づき、2013年10月21日、国連総会第1委員会において、125か国が、「核兵器が、ふたたび、いかなる状況下においても、使用されないことが人類の生存そのものの利益である。」、「すべての努力はこれらの大量破壊兵器の脅威を取り除くことに割かれなければならない。」、「核兵器が二度と使用されないことを保障する唯一の方法は、それを全面廃棄することしかありえない。」との共同声明を発表した。この非人道性に着目する核兵器全面廃絶の主張は、すでに存在する国際法に照らせば、核兵器の違法性を強く示唆するものである。
私たち人類は、非人道的な結末をもたらす兵器の使用を違法とする国際法をすでに持ち合わせている。今から50年前の1963年12月7日、東京地方裁判所はいわゆる原爆判決(下田判決)を下した。判決は、米軍による広島・長崎に対する原爆使用は、文民と戦闘員とを区別しない「盲目爆撃と同様な結果を生ずる」として、「無差別爆撃」を禁止する国際法に違反すると判断した。また、判決は、原子爆弾は毒ガス以上の残虐な兵器であり、「不必要な苦痛」を禁じた国際法に違反すると断言した。
そして、この判断枠組みは、「核兵器による威嚇または核兵器の使用は、一般的に国際法に違反する」とした国際司法裁判所の勧告的意見(1996年)にも共通している。これを踏まえて、2011年の赤十字代表者会議は、核兵器のいかなる使用も国際人道法の原則に合致するとみなすことは不可能だと判断した。
だが、核兵器国や核兵器依存国は、あたかも核兵器を禁止する法が存在しないかのように振る舞い、自らの安全保障を核抑止論に委ねている。核兵器の違法化については、遠い将来の目標に据えるだけである。その間、核兵器は依然として人類に対して脅威であり続ける。このような態度は「自国のことのみに専念して他国を無視」し、「人類の生存の利益」を無視するものである。
もとより各国の安全保障はきわめて重要である。だがこれは「正義と秩序を基調とする国際平和」の中でこそ、真に実現されるのであって、これを支えるのは「力の支配」ではなく「法の支配」である。核兵器の使用によることなく、われらの平和と安全、そして生存を保持することこそ、国際法と日本国憲法がともに求めるものである。
核兵器の非人道性を語るとき、ヒロシマ・ナガサキの現実とその法的帰結を忘れてはならない。