1 はじめに
広島の弁護士の佐々木猛也です。広島に生まれ,広島で育ち,多くのヒバクシャに接してきたこともあって,核兵器の廃絶をめざす国際反核法律家協会(IALANA)の共同会長を務めています。
2 原爆投下と被爆者
(1)大日本帝国が始めた太平洋戦争
1941年12月8日未明,日本軍は,マレー半島に上陸し,ハワイ・真珠湾を攻撃し,第2次世界大戦を始めました。いくさは,4年9カ月,続いたのです。
この間,部隊は,朝鮮半島,中国,東南アジア,南方諸島などアジア諸国に侵攻し,人々から物品を略奪し,過酷な労働を科し,家を焼き払い,殺害するなど,ごまかすことのできない,おぞましい蛮行に及びました。
被害に遭われた方々に深く同情し,謝罪します。申し訳ありません。
(2)1945年8月6日朝 廣島がヒロシマになった日
いくさの結末は,戦闘機はなく,戦艦もなく,東京は9か月半の間に130回の空爆を受け,本土の多くの都市,町,村が空襲に襲われました。遅くとも1945年7月の時点では,日本軍の敗北は確実視されていたなか,原爆が投下されました。
8月6日の朝の廣島はとても良い天候でした。
私は,爆心地から31.5キロ東に離れた村に住んでいました。家から1.5キロ離れた上空を3機の爆撃機が飛んで行ったのは,午前8時10分です。その5分後,原爆ドーム南東160メートルの位置にあった島病院の上空600メートルで炸裂し,悲劇のヒロシマが出現したのです。
私は,その日,だいだい色の物凄い光を見ました。凄まじい爆裂音を聞きました。原爆きのこ雲をこの目で見たのです。
爆発1秒後,核分裂の連鎖反応によってできた二つ目の人工太陽・火球の表面温度は,摂氏5000度でした。火球は,音速を超える衝撃波を生み出し,家屋を破壊し,熱線で火がつき,爆風で燃え広がる火事場を作ったのです。強い放射線を浴びた人たちは即死し,建物が倒壊して圧死し,衝撃波で吹き飛ばされ,熱線で身体を焼かれ,逃げまどい,焼き殺され,広島は生き地獄となったのです。
1発の小さな原爆・リトルボーイは,その年の年末までに人口35万人のうち,14万人を殺し,長崎では,27万人のうち74,000人が殺されました。
ヒバクシャたちは,戦後,光に,火に怯え,音に,風に怯え,放射線が引き起こす原爆症に怯え,生活を続けて来たのです。
今,世界には,近代化した核兵器13,000発があるのです。ウクライナに侵攻したプーチンは、核兵器を使用すると威嚇し、原子力発電所を攻撃しており、また、核兵器共有を言い始めた政治家がいます。極めて異常です。
(3) 被爆者団体協議会の結成・原爆医療法の制定
日本政府は,戦後,ヒバクシャに対し,救いの手を差し伸べることはありませんでした。
1954年3月,広島型原爆の940倍の威力を持つ水爆実験がビキニで行われました。これを機に原水爆禁止運動が盛り上がるなかで,ヒバクシャたちは,結束し,連帯しなければならないと知りました。
1956年8月,被爆者団体協議会(被団協)を立ち上げ,「以来,生活保障などを政府に求め、「人類と核兵器は共存できない」と訴え続けています。
この流れのなかで,1957年4月,原爆医療法(「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」)が制定されました。ヒバクシャたちは,国費によって健康診断を受け,国が「原爆症」と認定すれば,無償で治療を受けることができるようになったのですが,生活保障や被害補償はありませんでした。
すべての弁護士が加入する日本弁護士連合会は,1974年12月,被爆者援護法報告書を発表し,1979年11月,定期総会で,「政府は速やかに国家補償の原理に基づく援護法を制定せよ」と決議しました。1994年12月,やっと被爆者援護法が制定されたのです。
被爆者の病気が原爆症と認定されれば,現在,「医療特別手当」142,170円(1,089ユーロ)が,その病気が治ると,「特別手当」月額52,500円(402ユーロ)が支給され,また,肝臓機能障害など11種の疾病の一つに罹患すると,月額34,970円(268ユーロ)の「健康管理手当」が支払われる等の制度ができました。
3 日本の法律家による被爆者援護の闘い
日本の法律家による被爆者援護の闘いについてお話します。
(1)下田損害賠償事件の提訴と判決
広島の爆心地から1.4キロの地点で被爆し,16歳,12歳,10歳,7歳,4歳の5人の子を亡くした下田隆一さんは,妻と2歳の子とともに生き残り,国に対し,原爆投下による精神的損害・慰謝料の賠償を求め提訴したのは,1955年のことです。弁護士たちは,この裁判に情熱を傾けました。
そして,1963年12月,判決は,世界で初めて,残虐な爆弾の投下は,「不必要な苦痛」を与えてはならないという戦争の基本原則に違反し,原爆が「不必要な苦痛」を与える「残虐な兵器」であり,国際法に違反すると断じたのです。「下田ケース」と呼ばれ,国際法学者に知れ渡っています。
なお,判決がいう「不必要な苦痛の禁止」とは,戦闘員に関するものであり,非戦闘員,一般市民に対してはそもそも絶対に苦痛を与えてはならないのです。
(2)原爆症認定(個人)訴訟
原爆症の認定は,被爆によって病気を発症し,現に治療中であることを証明しなければなりません。
①広島・石田明原爆訴訟
広島の爆心地から710メートルの地点で,路面電車のなかにいて被爆した当時17歳の石田明さんは,白内障となり,国が原爆症認定申請を却下したので提訴し,1976年7月,初めての原爆症認定勝訴判決を手にしたのです。私も訴訟代理人になりました。
②長崎・松谷英子原爆訴訟
3歳5か月の松谷英子さんは,長崎で,2.45キロ地点で被爆し,衝撃波で飛んできた瓦が頭に当たり,頭蓋骨が陥没骨折し,右片麻痺と頭部外傷を負いました。国は,原爆症と認めませんでした。
長崎地裁,福岡高裁で勝訴した後,最高裁は,2000年7月,被爆の状況やその後の症状などを総合的に判断して起因性を認め,根本的治療は困難であるが,症状を緩和させるための薬物療法,理学療法等が現に必要であれば,要医療性があるとして勝訴が確定し,ヒバクシャたちは,宝の判決を手にしたのです。
③京都・小西建男原爆訴訟
広島で,1.8キロ地点で被爆した当時19歳の,白血球減少症などで苦しむ小西建男さんは,自らが書いた訴状を京都地方裁判所に提出した後,弁護士たちの支援を受け,1998年11月,京都地裁で,2年後,大阪高裁で勝訴しました。
④東京・東数男原爆訴訟
16歳の東数男さんは,長崎で,3キロ離れた工場に学徒動員中,被爆しました。肝機能障害で認定申請を却下され,東京地裁,東京高裁で勝訴し,2005年4月,判決は確定しました。
これらの判決は,何年もの歳月を要し,多くの弁護士たちの努力によって勝ち得たものでした。
(3)世界法廷運動
1992年,IALANAは,国際司法裁判所(ICJ)で,残虐な「悪魔の兵器・核兵器」を裁こうと世界法廷運動(World Court Project)を提唱しました。これを受け,1994年8月,私たちは,「核兵器の廃絶をめざす日本反核法律家協会(JALANA)」を結成しました。
私たちは,講演会を重ね,市民の関心を高め,1995年5月,被爆の実相を伝えるため,ICJに行き,ヒロシマ,ナガサキの悲劇を語る被爆写真,ビデオ,被爆者の証言集,論文などを14名の裁判官と図書館に寄贈し,広島・長崎に来て被爆者の声を聞くよう要請したのです。
ICJでは,過去,証人調べをしたことはないが,国境の紛争事件で,補佐人として意見を聴いたことがあるとの情報を得ました。
帰国後,日本政府に対し,広島・長崎両市長,被爆者を補佐人として申請せよ,被爆写真を証拠として提出せよと迫りましたが,首を縦に振りませんでした。
ナウール共和国は,ICJに,核兵器の使用や威嚇は違法とする意見書を出していました。そこで,同国に両市長を補佐人として申請するよう働きかけたのです。
同国の代理人のニュージーランドの弁護士から私に電話があり,広島市長を証人として申請したいが,市長は応じてくれるだろうかとの問い合わせでした。もちろんОKです。
9月5日,フランスがムルロア環礁で核実験を強行したのですが,オーストラリア政府とニュージーランド政府の意見書は消極的なものでした。
私を含む3名は,両国が積極的意見書を出すよう求めたところ,両国政府は,意見を変更したのです。1通のファックスによって,両国が動いたのです。驚くと同時に感動しました。
日本政府は,他国の要請で両市長が法廷に立つなら面子を失うと慌て,両市長を補佐人として申請し,両市長は,11月7日,ICJの法廷「正義の間」で,ヒロシマ,ナガサキの悲劇を語ったのです。
そして,1996年7月,勧告的意見が出たのです。
勧告的意見は,主文E項で,核兵器の使用と威嚇は一般的に違法とし,F項で,「厳密かつ効果的な国際的コントロールのもとで,核軍縮をめざす交渉を完結させる努力をする義務がある」としたのです。
そして,25年後の2021年1月,核兵器禁止条約が発効したのです。
条約第6条で,締約国は,核兵器の使用又は実験により影響を受けた自国民に対し,年齢や性別に配慮した医療,リハビリテーションと心理的な支援を含む援助を適切に提供し,これらの者が社会的,経済的に包容されるようにするとのヒバクシャ援護の規定を設けたのです。
(4)原爆症認定集団訴訟
被爆者がひとりで原爆症認定訴訟を起こし,長い年月,裁判を続けることは,容易なことではありません。
ヒバクシャたちは,ガン,白血病,心臓病,白内障などの病気は,原爆により発症したと認めるよう求め,国を相手に集団で提訴しました。2005年のことです。全国各地で計306人が参加しました。
国は,放射線が人体に影響を与えるのは,初期放射線を浴びた爆心地から2キロ以内にいた人であり,それより以遠の遠距離被爆者や原爆投下後に広島市街に入った者には,放射線の影響はないと繰り返し主張し,残留放射線による影響などを過小評価してきました。
わたしたちは,国の主張を徹底的に反撃して論破したのです。
この闘いによって,初期放射線による直接被曝だけでなく,放射性降下物や残留放射線による被曝,更には,内部被曝,つまり,呼吸,飲食などによって放射性物質が体内に入り沈着すると,高エネルギーを放出するアルファ線によって遺伝子が傷つくことを多くの判決で認めさせたのです。
18連勝した判決の積み重ねによって,2008年,国は,認定要件を緩和したうえ,原爆投下64年後の2009年8月6日,ヒバクシャたちは,内閣総理大臣と確認書に調印し,訴訟が起こらないよう措置すると約束させ,内閣官房長官は,ヒバクシャたちに陳謝したのです。集団訴訟の勝訴率は,91.2%でした。
(5)ノーモア・ヒバクシャ訴訟
しかし,認定被爆者が大幅に増加した2014年ころから,国は,もうひとつの認定要件である要医療性の厳格化を図り,本来,認定されるべきヒバクシャの申請を却下したのです。
120人がノーモア・ヒバクシャ訴訟に参加しました。この訴訟も勝訴判決あるいは新しい認定基準により解決したのです。勝訴率は,77.1%でした。
(6)「黒い雨」訴訟
火災で不完全燃焼した「黒いすす」に放射性微粒子が付着し,空気中の水蒸気を吸着して黒い泥状の水滴ができました。これが放射線を含む「黒い雨」で,広島市の北西部の広大な地域に降ったのです。
昨年7月,原告84名全員を被爆者とする勝訴が確定し,被爆者手帳の申請手続きが始っています。
4 最後に
原爆症認定訴訟によって,初期放射線の線量だけを原爆症認定の要とする神話が崩れ去り,核兵器の危険性,放射性物質の脅威を改めて国民に示したのです。訴訟と被爆者援護の運動は,大きな成果を上げて終わろうとしています。
われわれは,今後も,被爆者に寄り添い,JALANAの活動目的である,核兵器廃絶とヒバクシャ援護,原発事故被災者に対する支援,原発に依存しない社会の構築のため力を尽くしたいと考えます。ご清聴,ありがとうございました。