2010年11月6日開催された総会で,会長に推挙され,不覚にもこれを受けざるを得ない羽目になりました。
広島で原爆きのこ雲を見た弁護士,原爆症認定訴訟を闘った弁護士というだけで価値があると説得された結果がこうです。
微力ながら任務をまっとうしようと決意しましたので,松井康浩,続く榊原卓郎,池田真規の各会長に続くにしては力不足ですが,ご協力のほどよろしくお願いいたします。
当協会は,「核兵器の廃絶をめざす関東法律家協会」を発展させ全国規模の団体にすべく,被爆49年目の1994年8月2日,広島で創立宣言をしました。
総会は,広島弁護士会館で開かれました。全国から30名の弁護士が参集し,松井弁護士を会長に選出しました。会場の準備などのお手伝いをし,当日,司会をしたことがつい昨日のことのように思い出されます。
「我々は,被爆国日本の法律家として,核戦争は法の支配の否定であるから,法律家は核戦争を阻止し,しかも国際法秩序を実施し,発展させ,強化することに対し特別の責任を有することを自覚して,核兵器の全面廃絶と被爆者援護のために我々の専門的知識と技能をもって貢献するべく,本日ここに核兵器の廃絶を目指す日本法律家協会の成立を宣言する」と創立宣言をしたのです。
わたしたち協会とそのメンバーたちは,当時,最大の課題であった世界法廷運動の前進のため奮闘しました。
そして,わたしたちが勝ち得た国際司法裁判所の勧告的意見は,昨年のNPT再検討会議を前進させる力になったことを確認しましょう。わたしたちとつながる国際反核法律家協会のメンバーを中心に作成された核兵器条約が,今,国連でも大きな影響力を持つに至っていることを確認しましょう。大変大きな仕事をしてきたことを確認しましょう。
もっと多くの法律家に会員になっていただき,知恵と金を,そして,足を踏み出していただき,世界中に「核兵器のない世界の実現」は可能なのだというメッセージを広める運動を一緒にしたいと思います。
反核法協の存在は,広く知れ渡っているとは言えません。会員500名以下では,高邁な志しを果たすことはできません。わたしたちの思いと活動を伝え連帯を求める作業を共同して進めようではありませんか。
2010年の日本反核法律家協会総会において、私の会長退任と佐々木猛也弁護士の新会長の就任の人事が承認されました。日本に反核法律家協会が誕生して21年にして、原爆の閃光を浴び原爆キノコ雲を見、被爆者たちの戦後の生活と病気との戦いを見てきた広島の弁護士が会長に就任したことは、まさに眞打登場の感であります。
というのも、日本の反核運動の原点は、人類最初の原爆攻撃を受けた広島の原爆地獄である以上、日本反核法律家協会の会長は、原爆を体験した法律家が最適任であること自明のことであります。にもかかわらず、初代から三代まで会長が東京在住の法律家であったことは不正常であります。その不正常について釈明をしておくのは、わが協会の誕生に直接かかわった私の義務であると考えます。
わが協会の誕生から佐々木猛也会長の就任に到達するまでの、20年余を振り返ってみます。まず、米ソの核戦争の危機を危惧した米国とソ連の反核法律家たちが、反核の国際組織を設立するのです。この組織から日本の国際民主法律家協会に創立大会に参加要請が舞い込み、これを受けた理事会は、これに対する措置を、被爆者問題に関与しているという理由で、すべて私に押し付けたのがことの始まりでした。その時点で、協会の設立の発想はありませんでした。それは国際反核法律家協会の創立大会に参加して初めて団体加盟であることが分かり、帰国してから大急ぎで、大会に参加した東京周辺の法律家だけで、とりあえず関東反核法律家協会を作り、加盟の登録をしたのが、わが協会の誕生であります。それから例年8月の原水禁大会に広島、長崎を訪問して、広島、長崎の弁護士らに呼びかけて、会員を拡大して、日本反核法律家協会の設立になり、国際組織に登録したのであります。
*わが協会の活動は、その誕生から、2000年までの最初の約10年間は、世界法廷運動及びハーグ世界市民社会会議(100ヶ国、1万人参加)という国際的な大運動に全力で取組んで、いずれも一定の成果を残しながら成長してきました。国内では、被爆者援護についてわが協会の理事らが日本弁護士連合会に働きかけて、「被爆者援護に関する調査研究委員会」を設立してこれに所属し、3回にわたり調査報告書を作成し、日弁連は、作成された文書を持って日本政府に対し国家補償に基づく援護法の制定を勧告しました。
わが協会の誕生から最初の10年間の特徴は、いきなり核兵器廃絶を目指す世界の法律家たちの大きな国際運動に参加して貴重な経験をして鍛えられたことです。
その次の、2000年から、わが協会が成年に達する2010年までの10年間の運動は、国内の運動が中心となります。2003年から始まった原爆症認定集団訴訟に、わが協会の会長、事務局長、広島、長崎の副会長、各地の理事、会員らが全面的に取組み、国内の18の裁判所で、22連勝の成果を挙げ、首相と確認書を取交すまでいたりました。
この間、国際的には核兵器問題は大きく変貌します。ソ連が崩壊した後、米ソの核戦争に終止符が打たれたにもかかわらず、米ソは何故「核兵器を捨てないのか」。
この問題についてIALANAは、2000年に、ベルリンでセミナーを開き、そのなかでソ連とNATOから軍事顧問に登場してもらい、ドイツの現職の高裁判事が双方の軍事顧問に別々に「なぜ核を捨てないか」について尋問するイベントを行いました。ここで特徴的だったことは、判事の鋭い尋問に、捨てない理由のすべてを論証できず、結局二人とも「相手が捨てないからだ」という同じ結論になりました。こうして、軍部の核兵器必要論は子供の喧嘩程度のものでしかないことが明らかになりました。しかし、その後、米ソ双方とも核を捨てなかったのです。ソ連崩壊後、「核戦争の相手が居なくなった」にもかかわらず、米国は核兵器を捨てるどころか、米国の核兵器を中核とする軍事優先戦略を強化し、新自由主義経済政策の強行で世界各国に国際的経済危機をもたらし、人類の崩壊を予見させる絶望的雰囲気を世界にもたらしました。
その中で危機の震源地である米国で、この危機からの脱出を期待されてオバマ米国大統領が登場しました。彼は原爆投下についての責任を間接的に言及し、プラハで「核のない世界を求める」宣言をして世界から歓迎され、実績のないままで期待と激励を込めて彼にノーベル平和賞が与えられました。こうして「核兵器のない世界を期待する」新たな国際情勢が生まれました。普通の人間であれば人間回復の道であり当然のことです。このまま人類は核兵器のない世界へ順調に進むのではないかと人々に期待されました。
ところが、この新たな情勢に危機感と恐怖を持った連中がいたのです。それは、核兵器の存続に依存する隠れた勢力、つまり核兵器で飯を食っている、あるいは儲けている膨大な連中が存在し、これらが猛然と反撃に出てきたのが昨年の世界と日本の現状であります。それは巨大な核兵器産業と関連施設だけではありません。表からは見えない核兵器廃絶を妨害する巨大な社会勢力や社会現象であります。そのなかには、結果的には日本の安全を米国の核抑止力に依存する政治家、学者、知識人、マスコミの活動が含まれています。我々は、これらの巨大な勢力と闘わなければなりません。その裏の指導勢力は、原爆地獄を現出させた米国の産軍共同体グループを中核とする保守勢力であります。しかし、彼らは深刻な矛盾に陥り、長続きはしませんが、崩壊が始まっています。にもかかわらず、現在の日本における政界、財界、官界、評論家、マスコミ、などの主流は、日本の安全を米国の核兵器に依存する核抑止力論から抜け切ることが出来ないと云うのが現状です。そのために政府は、一貫して被爆者に対し「原爆被害は戦争被害であるから受忍せよ」というのです。外務省の官僚は「有事のときには米国の核兵器で守ってもらうのですから、核兵器廃絶運動は止めてください」と我々の陳情に対してお説教をします。この言葉を聞いた被爆者山口仙二氏は一日中茫然としていました。原爆で攻撃した米国に、「原爆でわが国を守って下さい」という論理を受入れることは被爆者には出来ないのです。認定訴訟で勝訴した八〇歳を超えたある女性の被爆者は、胎内被爆の娘を残して「アメリカを絶対に許すことはできません」と言って亡くなりました。どのように被爆者に不利益な状況になっても、原爆を落とした米国を許さないという被爆者の心は変わらないのです。精神科医中澤正夫医師は、昔の嫌なことは忘れるのが通常だが、被爆者の場合は逆で、年をとっても、被爆当時のことをむしろ鮮明に憶えている、という。
核兵器のない世界を求める情勢を妨害しようとする勢力の策動を乗り越えて、核兵器のない世界をつくるには、原爆体験からの「二度と被爆者をつくるな」という被爆者の心からの叫びに耳を傾けて、妥協することなく闘うしかありません。
核兵器廃絶と被爆者援護の闘いの原点は、原爆被爆者の声であります。
新会長佐々木猛也弁護士は、「原爆を体験した被爆者の声を豊かな想像力をもって聞き、理解することです」と述べています(反核法律家68号P8-14参照)。原爆被爆者の声を重要視しない核兵器廃絶論者は、何時妥協や変節するかわからないので信頼できません。被爆者の声を忘却すれば、人類は核戦争で滅びます(被爆者谷口稜テル)。
国際運動を経験し国際的評価を受けて成長したわが協会は「核兵器の廃絶」運動への法律家としての貢献と共に「原爆被爆者の援護」の目的の具体的実現として現に進行中の原爆被害の国家補償を獲得する法制定や改正の活動に、被爆者の声に依拠して、法律家として貢献する活動も期待されています。
以上のような経過を経て到達したこの時期に、わが協会が原爆被爆者である新会長を広島から迎えたことは、誠に時機に適した措置であると云うことができます。
私は、新会長を心から歓迎し、今後の協力を約束します。