1、原告
下田事件とも呼ばれる東京原爆訴訟は、1955年(昭和30年)4月25日に
東京地方裁判所原告3名(昭和30年(ワ)第2914号損害賠償請求事件)、そしてその翌日に
大阪地方裁判所原告2名(昭和年30(ワ)第1475号事件損害賠償請求事件)により提訴された。原告代理人は、両裁判所とも岡本尚三、松井康浩ら10名(大阪4名、東京5名、広島1名)であった。なお、原告の被爆地は、広島4人、長崎1名である。
2、原告らの請求と双方の主張
請求の趣旨は、原告下田について30万円、その他の原告については、20万円及びこれに対する遅延損害金を支払えというものであり、請求原因は、原爆投下が国際法違反であり、それに基づく原告等のアメリカ及びトルーマン等に損害賠償請求権は、サンフランシスコ条約19条により、放棄されたので、憲法29条3項により補償されるべきであり、また、放棄は国賠法1条に反するという主張であった。
これに対し、被告国は、原爆投下は国際法違反とはいえない、国際法違反であっても、原告ら個人には、そもそも損害賠償請求権がない等として争った。
3、訴訟手続の進行
(1)
東京地裁提訴事件
東京地裁提訴事件は東京地裁、民事24部に係属し、1955年(昭和30年)7月以後1959年(昭和34年)11月まで27回にわたって準備手続がされた、この間、原告から準備書面6通、被告から準備書面4通が提出され、準備手続を終結した。
(2)
大阪地裁提訴事件(東京地裁移送)
大阪地裁事件は、3回の口頭弁論後、1956(昭和31年7月以後準備手続に付されたが、大阪では被告の答弁書提出以後は書面の取り交わしはなく、準備手続により進行していたが、1957年(昭和32年)2月に原告側から東京地裁に移送の申し立てがなされ、同年4月に東京地裁に移送決定がなされた。被告も移送を争わなかったことから東京地裁へ移送された(東京地裁昭和32年(ワ)4177号事件)。当初民事11部に配転されたが、民事24部に移され準備手続期日が指定されたもののいずれも延期の処理がされて、東京地裁提訴事件が進行し、大阪地裁事件審理はなかった。
(3)
併合後の審理
1960年(昭和35年)2月に東京地裁事件の事件の第1回口頭弁論が開かれ、合議決定と、大阪地裁からの移送事件の併合がされて一緒に審理されることになった。
併合後、当初、原告側の安井郁、被告申請の横田喜三郎両氏を鑑定人に指定し、鑑定人尋問が実施される予定であったが、横田鑑定人が最高裁判事に就任することになったこともあり、裁判所からの釈明があり、再び争点整理となった。その後、被告国は、横田鑑定人に変えて田畑茂二郎氏を鑑定人に申請し、鑑定人尋問がなされた。なお、被告は、高野雄一氏を鑑定人として申請したが、最終的には書証として鑑定書を提出した。また、原告側は、5人の原告本人尋問の申請をしたが、実施されなかった。
1963年(昭和38年)3月の第9回口頭弁論で結審した。
4、判決
同年12月に判決が言い渡された。判決では原告個人の損害賠償請求権は認めなかったものの、原爆投下(核兵器使用)が国際法違反であることを認めた最初の公権的判決として極めて有名である。これが、その後1996年の国際司法裁判所(ICJ)における勧告的意見において核兵器の使用または威嚇は一般的に国際法に違反するとの判断がなされたが、その先例的意味を持つとされる。
また、国の結果責任の可能性や政治の貧困を嘆いたことから、原爆特別措置法に道を開いたともいわれている。