はじめに
故池田眞規(まさのり)弁護士の著作集 (以下、著作集)のタイトルは「核兵器のない世界を求めて」、サブタイトルは「反核・平和を貫いた弁護士池田眞規」である。私は、この著作集の編集に携わりながら、改めて、先生の反核と平和に対する熱い想いに触れることができた。先生は、「核の時代」における憲法9条の意義を力説していたことを確認できたからである。
これまで、私は、先生の「被爆者は預言者である」、「被爆者の声を聴け」という「決め台詞」について、「そりゃそうだよね」という共感は覚えていたけれど、政治思想として受け止めてはいなかった。どんなケースでも、被害の実態や被害者の要求を基礎に置くことは当然だと思っていただけであって、憲法9条との関連については深く考えていなかったのである。
1945年6月の国連憲章と1946年11月の日本国憲法との間に、広島と長崎があったことや、原爆投下と9条との関係を指摘する言説があることなどは知ってけれど、そのことと、「被爆者は預言者である」との池田語録が重なっていなかったのである。
私にとって、核兵器廃絶と9条擁護は両方とも関心事ではあったけれど、相互の関連性について、主体的・体系的に探究しようとする意識は不十分だったのである。
ところで、「反核・平和を貫く」ということは、核兵器廃絶を求めることと、憲法9条の非軍事平和主義の擁護、更には、その普遍化・世界化を求めるという二つの意味を持っている。けれども、核兵器廃絶と戦力不保持とが、論理必然の関係にあるわけではない。核保有もしていなければ軍隊もないという国家(26か国)もあれば、核兵器は持たないけれど軍隊はある国家 (多くの国) もあるし、核武装している国(9か国)もあるし、戦力は持たないとしながら核に依存する国家(わが日本)もあるからである。
また、核兵器が廃絶されても通常戦力は残るから、核兵器廃絶=軍隊の廃絶とはならない。このように、核兵器廃絶と「軍隊のない国」の実現は、別々の課題なのである。だから、核兵器廃絶運動と護憲運動は、それぞれテーマも違うし、運動形態も異なることは当然なのである。
もちろん、この二つのテーマを同時に追求することも可能である。別々にしかできないということでもない。だから、先生のように、反核と護憲平和とを同時に追求する人もいれば、相対的にどちらかに力を込めている人も存在するのである。
かくいう私も、先生を見ていたこともあり、反核と平和とを二つながらに追い続けていたように思うのである。反核法律家協会での活動をつづけながら、9条擁護と世界化の運動にかかわってきたからである。
平和憲法訴訟の軌跡
先生は、「平和憲法訴訟の軌跡」(法律時報1996年2月号(68巻2号)・著作集202頁以下に収録)で、「私の体験した百里基地訴訟、長沼ナイキ訴訟、湾岸戦争戦費支出違憲訴訟(市民平和訴訟)、PKO法による自衛隊カンボジャ派遣違憲訴訟などの訴訟活動を通じて、法廷の現場から見た憲法9条訴訟における本質的問題点を探ってみたい。」としている。体験した事実を踏まえながら、本質的問題を探ろうとしているのである。こういうアプローチのできる人は決して多くないであろう。
この論稿の特徴は、憲法9条の規範としての普遍性と9条を取り巻く政治的背景の特殊性とを、自ら体験している憲法訴訟との関連で論述していることである。先生は、「憲法9条は、戦争による惨禍を経てきた人類が、武力によらざる国際紛争の解決への道を模索するなかで到達した最良の規範である。特にそれは、核兵器が登場した時代における人類が生き残るための唯一の規範であり、普遍的価値を有する。」としている。
ここでは、核兵器の登場と非軍事平和主義が連結され、9条の普遍的価値が語られているのである。「核の時代」における日本国憲法の存在意義を政治思想としているといえよう。
このような政治思想はどのようにして形成されたのであろうか。先生の足跡の中に探ってみたい。
百里基地訴訟
先生が弁護士登録するのは1965年4月である。翌年には百里基地訴訟弁護団に参加している。百里基地裁判の提訴は1958年7月であるから途中からの参加である。百里基地裁判というのは、先生の定義によれば「軍事基地のために国が土地を取得することが、憲法上許されるかどうかを争点とする裁判。農民が土地を取り上げられるのを阻止し、軍事基地のために土地は渡さないという裁判」である(著作集・122頁)。
1977年2月、水戸地方裁判所は原告敗訴の判決を出す。「水戸地裁は、自衛隊合憲を唱える政府の立場を100パーセント以上公認するという政治的選択をした。将来、国民の手によって厳しい審判を受けるであろう。」というのが先生の判決評価である(著作集・119頁)。
この敗訴判決を乗り越えるための工夫がなされた。憲法9条解釈はいかにあるべきか、憲法制定の原点に立った解釈すべきこと、日本の平和と安全は憲法9条の示した道しかないことを裏付けるための証人調べに精力的に取り組むことなどである。その証人の一人に広島で原爆を体験した肥田舜太郎医師(2017年100歳で死亡)がいた。肥田証人は、1980年3月6日、原爆の惨禍と平和憲法の意義を自らの体験によって証言した(この間の経緯については、著作集「百里基地訴訟」参照)。
先生は、1977年2月の百里裁判第一審敗訴後から、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)との関係を構築し始めるのである。憲法解釈の基礎に、戦争体験とりわけ被爆体験を置かなければならない、という問題意識からである。
池田先生の被爆理解
先生の原爆被害の理解や被爆者観を見ておきたい。結論的にいうと、原爆被害の特質は想像を超えた過酷さにある。非被爆者が、映画や写真を見たり、被爆証言を聞いて、被爆被害の実態を理解できたと考えるのはとんでもない思い上がりだ、ということである。その理由は、(1)原爆地獄の中心地にいた被爆者は死亡していてその被害を伝えられないこと。(2)爆心地近くにいた被爆者は正常な心理状態ではいられなかったこと。(3)遠距離あるいは入市被爆者は地獄を直接味わっていないこと。(4)生き残った被爆者の伝達能力に限界があること。(5)非被爆者の想像力に限界があること、などである(「被団協新聞」61号・1984年・著作集142頁)。
私の体験からしても、被爆者と話をしていて「あの時のことは体験した人にしかわからない」という趣旨のことを言われることがある。「俺だって一所懸命考えてやっているのに、そんなこと言わないでよ」という気持ちになったこともある。まさにそれが「思いあがり」なのであろう。
先生の行動の原点に、このような被爆実態についての認識や被爆者観があったのである。想像を絶した被爆被害は、核兵器禁止条約の前文では「容認しがたい苦痛と被害」という言葉で表現されている。
1989年9月のハーグ
先生は、1989年9月、国際反核法律家協会(IALANA)第一回世界大会に参加するためにハーグに行っている。「私にとって、法律家として核のない世界を求めるための責任ある活動をはじめる旅の第一歩であった。その歴史的な旅に奇しくも大好きな山口仙二と一緒に行くことになったのである。」と述懐している(「世界法廷物語」・著作集・7頁)。山口仙二さんは、1982年6月、国連軍縮特別総会で、自分の被爆の姿をさらしながら「ノー・モア・ヒロシマ、ノー・モア・ナガサキ、ノー・モア・ヒバクシャ」と演説をした人である。
先生にとって、核のない世界を求めるための法律家としての責任ある活動のスタートラインは、この山口仙二さんとのハーグ行きだったのである。
反核法律家協会の設立と世界法廷運動
この世界会議の後、1991年12月には関東反核法律家協会が設立され、1994年8月には日本反核法律家協会が発足する。この動きと並行して、「世界法廷運動」が組織され、1996年7月には国際司法裁判所の「勧告的意見」が出されている。国際司法裁判所は核兵器の使用や使用の威嚇は国際法に違反するとした。ただし、自衛の極端な状況での核兵器の使用や使用の威嚇についての違法性判断は留保している。この留保部分についての不満はあるものの、この勧告的意見は、核兵器禁止条約につながる重要な一歩であった。
1997年4月、国際反核法律家協会は、モデル核兵器条約案を作成する。このモデル条約案は、コスタリカやマレーシァ政府の手によって国連の正式文書とされ、核兵器禁止条約の魁(さきがけ)としての役割を果たすことになる。2017年7月7日に採択される核兵器禁止条約に先立つこと20年である。
1999年5月のハーグ
1999年5月11日から15日まで、ハーグで「ハーグ平和アピール市民会議」が開催された。10年前のハーグは、「核兵器のない世界」を求めての旅だった。今回は、「戦争のない世界」を求めての市民会議であった。その会議に、先生は「アジアの核兵器廃絶と日本の責任」という論稿を提出している。最終章の見出しは「核兵器も戦争もない世界へ」である。そこでは「世界の人々はこの悲惨な殺りくの世界から戦争のない世界を創ろうと考えている。現在の人類の最大の悲願は核兵器と戦争の廃止である。人類共通のこの悲願の実現は、戦争と核による世界の犠牲者の訴えに基づいて闘われてきた。今世紀の戦争の犠牲者とその家族・友人はまだ全世界にいる。」(日本反核法律家協会編「非軍事平和思想を国際規範に」・著作集・164頁)とされている。
ここでは、核兵器と戦争の廃止が同時に語られている。その理由とされているのは、犠牲者の存在とその闘いである。
1977年2月の百里裁判第一審の敗訴判決を受けてから22年の歳月が流れている。 1996年に表明された「日本国憲法は、『核の時代』において、人類が生き残る唯一の規範である」という言明は、ハーグでも展開されていたのである。
このハーグ市民会議は「公正な世界秩序のための10の基本原則」を採択している。第1項は「各国議会は、日本国憲法9条のような、政府が戦争することを禁止する決議を採択すべきである。」、第6項は「核兵器廃絶条約の締結をめざす交渉がただちに開始されるべきである。」としている(著作集・168頁)。別々の項目ではあるが、池田論稿の意図は結実しているのである。
ヒバクシャ9条の会
2007年3月。先生は、被団協代表委員の山口仙二、同・坪井直、肥田舜太郎医師、中沢正夫医師らと共同呼びかけ人として「ヒバクシャ9条の会」を結成している。その呼びかけ文の一節に「戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認を定めた9条は、『ヒロシマ・ナガサキを繰りかえすな』の願いから生まれました。被爆者にとって生きる希望になりました。」とある(著作集286頁)。
憲法の公布は1946年の11月である。当時「被爆者運動」は存在していないし、憲法制定過程で、被爆者の声が直接反映したという記録はない。けれども、原爆投下が、日本国憲法9条の徹底した平和主義を生み出したという言説は説得力を持って語られている。例えば、水島朝穂さんは「日本国憲法は、徹底した平和主義を採用しました。あえて不器用なまでに平和にこだわった背景には、人類初の『核兵器を使った殲滅戦』の経験、ヒロシマ・ナガサキの経験がありました」としている(憲法再生フォーラム編・「改憲は必要か」・岩波新書・2004年・154頁)。
そして、池田先生は、この会に「憲法9条は被爆者の希望であり、宝である」との一文を寄せている。そこでは「原爆体験は、憲法前文と第9条の非軍事平和思想に被爆者の魂を吹き込んだ」、「被爆者の絶対的非軍事平和思想で人類と日本の安全を守る道を探求する」、「被爆者は核時代の預言者であり、人類の宝である。」と語られている(著作集・287頁)。
ここでは、被爆者の魂と憲法9条の非軍事の思想が見事に統一されている。憲法9条は被爆者の希望であり、被爆者は核時代の預言者とされているのである。
ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会
先生の最後の仕事は、ヒバクシャの記憶を継承する組織を作ることだった。2011年12月「ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」が発足する。会の「核の支配からにんげんの尊厳を取り戻す闘いに勝つための宣言」は、「広島・長崎への原爆投下は、人間の尊厳を抹殺する神も仏もない核時代の幕開けとなりました。…核兵器の存在と使用が容認される非人間社会の到来であります。…果たして人間は生き残れるのでしようか。」と問題提起し、「にんげんを返せ」、「核兵器と人類は共存できない」、「二度と被爆者を作らない」として、核兵器廃絶の先頭に立って闘ってきた被爆者について、「被爆者は核時代の人々に、生き残る道を身をもって示した人類の預言者である。」としている(著作集・232頁)。この宣言の起案は先生だという。
核兵器禁止条約の採択
2017年7月7日、国連で、核兵器禁止条約が採択された。核兵器の開発、実験、保有、使用、使用の威嚇などが包括的に禁止されただけではなく、核兵器保有国の参加の道も開かれている。「核兵器のない世界」に向けて、法的枠組みが用意されたのである。この条約が発効し、核兵器国が参加し、核兵器が廃棄されるまでにはもうしばらくの時間が必要であろう。核兵器保有国やそれに依存する日本政府などの抵抗が極めて強いからである。
けれども、「核兵器のない世界」に向けて大きな一歩が踏み出されたことは間違いない。先生の努力も一助になっていたであろう。被爆者と寄り添いながら、核兵器も戦争もない世界を求めてきた先生の足跡に改めて敬意を表したい。
おわりに
そして、再確認しておきたいことは、先生は「核兵器のない世界」だけではなく「軍隊のない世界」も展望していたことである。「軍隊のない国」コスタリカへの三度にわたる渡航や、カレン・オルセンさんやカルロス・バルガスさんとの友情は、「軍隊のない世界」を希求した先生の自然の行動であろう(この辺りの事情は著作集参照のこと)。
先生の「反核・平和を貫く」という人生の背景には、当初は、直感的な心情であったかもしれないけれど、晩年には、被爆体験が憲法9条とりわけ2項を生み出す契機となっていたこと、逆に、9条の擁護と普遍化が、再び被爆者を生み出さない条件になるという連関が、一つの政治思想として確かに存在していたのである。
この先生の「反核・平和を貫く」生き方は、私たちに、「核の時代」における日本国憲法9条の普遍的意義を再確認する機会を提供しているといえよう。「反核と平和を貫け」、それが先生からの宿題だと受け止めることとしよう。