自著「『核の時代』と憲法9条」を語る
大久保賢一
はじめに
「『核の時代』と憲法9条」という著書を上梓した。日本評論社からの出版である。日本評論社とは『原爆症認定集団訴訟闘いの記録』(2011年)、『肥田俊太郎が語る いま、どうしても伝えておきたいこと』(2013年)、『核兵器のない世界を求めてー反核・平和を貫いた弁護士池田眞規』(2017年)などで共同した縁で、今回の出版を引き受けてもらったのだ。通底しているのは核問題である。
出版の動機その1
出版のそもそもの動機は、安倍晋三の改憲盲動はもとより、武力の行使と戦力の保持を容認する有象無象の似非「護憲論者」の存在に危機感を覚えていたことにある。自衛権の行使であれ正義の実現であれ武力での問題解決を容認すれば、「最終兵器」である核兵器の保有や使用を容認することにつながるという危機意識でもある。
核兵器の最初の使用者トルーマンは、真珠湾を不意打ちし、アジアへの侵略と植民地支配を展開した大日本帝国に対する報いとして原爆を投下したとしている。戦争の終結と植民地の解放を早めた「正義の行動」だというのである。彼は、その業火の下で展開された、生きたまま焼かれる肉親を放置しなければならなかった地獄は無視しているのである。
私は、ブレーキとアクセルの操作もできないくせに車の運転をした「老いぼれ」に、妻と幼子を殺された若い父親の無念の情を、夫としてまた父としての自分に置き換えた時、痛いほど理解できるような気がする。あるはずの日常が理不尽に奪われることの苦しみを想像できるからである。
核兵器は、あまたの日常を国家という怪物の事情で、大量かつ無差別に奪うのである。これは、想像の世界ではない。広島・長崎で現実に起きたことであり、世界の核実験場などでも展開されてきた現実なのである。核兵器禁止条約は、核兵器の使用は意図的であるかどうかにかかわらず、「人道上の壊滅的結末」をもたらすとしている。「人道上の壊滅的結末」とは、人間の手に負えない事態を意味している。人間の手に負えないものであるがゆえに「最終兵器」となりうるのである。人間の手に負えないものに人類社会の現在と未来を託するという倒錯がここにある。
私は、核に依存する核抑止論などの言説を心の底から軽蔑する。そして、同様に、原爆投下や核兵器を念頭に置かない憲法論や平和論は取るに足らない駄弁だと考えている。その駄弁があたかも新鮮なものであるかのように流布されたり、その言説に右往左往している光景に接すると「何と愚かなこととか」と慨嘆したくなる。「核の時代」にあって、核兵器の存在を視野に入れない「平和論」や「護憲論」など無意味どころか有害である。
もう一つの動機
もう一つの動機は、核兵器の廃絶や憲法9条の擁護に誠実に取り組んでいる人たちに、9条2項が成立した背景に、広島・長崎のホロコーストがあったことを知ってもらいたかったことである。安倍改憲ノー全国統一署名(3000万署名)やヒバクシャ国際署名が取り組まれているけれど、その二つの課題の歴史的、論理的関係については十分な理解がないように思えたからである。9条2項の絶対的平和主義は、被爆者の犠牲の上に打ち立てられたことを伝えたかったのである。これらの運動に取り組んでいる人たち中にも、そもそもこの連関についての問題意識を持とうとしない人もいた。核兵器の廃絶も9条の擁護も当然のことであって、その関係性を考える必要などないということのようであった。もちろん、関係性など考えないでも署名集めは可能である。もともと、別々のルートで始められているのだから同時進行しなければならない課題ではないからである。けれども、自らが取り組む運動の歴史的背景や普遍的意義を知っておくことは決して無駄ではないであろう。その方が主体的取り組みとしての質が高いからである。そんな動機付けもあったことを記しておきたい。
個人的体験の記録として
はしがきにも書いたけれど、この本は、私の市民としての活動の記録でもある。弁護士登録以来の40年間、所沢という地方都市で、家内制手工業的な事務所運営をしながら、せめて思考は世界的になどと背伸びをしながら活動してきた記録なのだ。だから、誰かに読んでもらいたいと心から願っているのだ。そう考えて何人かの方に贈呈させてもらった。
いくつかの感想
何人かの方から感想をいただいている。いくつか紹介したい。
学生時代からの友人Y君。
平成最後の日は雨。TVでは終日、大晦日のような特別番組を放送していますが、世の中の喧騒を離れ、今日は一日、大久保さんの新しい著作を読んでいました。日本評論社発行の「『核の時代』と憲法九条」です。第一部・論稿と第二部・エッセーから構成されています。論稿、エッセーともに、折々に大久保さんがメール添付で送ってくれるものも収録されており、一度拝読したものもありますが、論稿は改めて、じっくりと勉強させていただきました。論旨が明快で、ズバリ指摘、切り捨てるところは、学生時代の大久保さんそのままです。人類が核兵器を持った時代の九条の非武装平和主義の先進性、九条の普遍化、世界化という主張について、さらに確信を深めることが出来ました。エッセーは率直な物言いで、お人柄がそのまま出ています。
敬愛する平和学者のYさん。
先日は貴重な著書をありがとうございました。大変興味深く拝読し、学ぶことがたくさんありました。むすかしい問題を論理的にわかりやすく、多くの学生だけでなく、市民に読んでほしい本だと思っています。最後の章はユーモアにあふれ、思わず笑ってしまったこともありました。P266の金英丸さんとは平和資料館「草の家」でいっしょに活動をしましたが、11月には「草の家」創設30年でいっしょに記念行事に参加して話をする予定です。本当に世界は小さいですね。テレビで北朝鮮ばかり非難し、アメリカの核兵器を批判しないマスコミはいつもおかしいと思っていました。著書できちんとなぜそうなのかなど分析をされ、マスコミが報道しないことがたくさん書かれていると思いました。大変読みごたえのある本をいただき、本当にありがとうございました!
沖縄の弁護士Pさん。
ご著書、拝受いたしました。ありがとうございます(団通信をいつも楽しく拝見している僕にとっては、復習的な内容となりました^^)とはいえ、古希とは存じ上げておりませんでした。本当に、「これまでは助走」という表現は誇張でも何でもないと感じました。僕が言うまでも無く、先生はいわゆる平和勢力の中でも、朝鮮半島情勢はもちろんのこと、あらゆる面で造詣が深く、そして(いわゆる評論だけではない)実行力をお持ちです。もちろん、ご無理はなさらず、しかし、今後ともその人生をもって、我々を引っ張っていってください。今後とも、よろしくお願い申し上げます。
被爆者のWさん。
新元号で大騒ぎをした連休もやっと終盤となりました。3日の憲法記念日も、渋滞情報がNHKのトップニュースとして流れ、改憲反対派の65000人集まった憲法集会の映像などは、全く見ることはありませんでした。 そんな中、『「核の時代」と憲法9条』をお送り頂きました。 貴重な著書を本当に有難うございました。 これから様々な場面でも、参考にさせていただく資料が 多く含まれており、有難く思います。 今日は午後から、2・20福島原発かながわ訴訟の判決報告会に 出席してきました。自主避難をしてきた方たちに対する国の態度は 原爆症裁判のそれと同じもので、私たちの裁判のことを聞いているような思いでした。 高裁に向けて、どのように闘えばいいのか、原告の方の心痛が伝わってきました。
被爆者は、原発の問題に、もっと心を寄せなければならないと思いました。
こういう感想文をいただくと本当にうれしい。またこれからも頑張ろうと元気が湧いてくるのだ。
娘のFBへの投稿
もう一つだけエピソードを語らせてほしい。長女がFBでこの本のカバー写真と合わせてこんな文章を書いてくれたのだ。
40年間「くらしに憲法を生かそう」 をスローガンに、弁護士活動をする傍ら、 長きに渡り、わたしに、着るものと、食べるものと、住むところと、教育を、 そして愛情を、 無条件に与えてくれ、 今もなお、ちょいちょいスネを齧らせてくれる有り難い御方。 歯並びまでそっくりなのに、 脳細胞は受け継ぎ損ねたのか、 後天的に失われたのか、 私にはなにやら難しいことも多いけど、 たぶん、1番伝えたいことは、 ちゃんと受け取っていると思いますよ。 ――― 本書は、憲法9条の改悪阻止と世界化・普遍化、核兵器のない世界、原発の廃止などを希求している人たちへの、ささやかなメッセージである。(はしがき より) ――― 令和。 戦争をしない国であり続けてほしい。 きっと私も「非力だけれど無力ではない」はず。 お父さん、元気で長生きしてくださいよ。 ボケないでね😆」
娘がこんな文章書いてくれただけでも、私はこの本を出した甲斐があると思っている。私の想いが間違いなく継承されているように思うからである。そんな親バカ気分になれたことは本当にうれしいことである。また歩き続けることにしよう。
(2019年5月9日記)