ヨハン・ガルトゥング著『日本人のための平和論』を読む
大久保賢一
「平和学の父」といわれるヨハン・ガルトゥングが『日本人のための平和論』を書いている(2017年・ダイヤモンド社・御立英史訳)。氏の提案を検討してみる。
ガルトゥング氏の問題意識
氏は、日本が抱える難問として、米軍基地をめぐる政府と沖縄の対立、尖閣諸島を挟んでの中国とのにらみ合い、韓国との竹島、ロシアとの北方4島、北朝鮮とのミサイル、「慰安婦」や「南京事件」など歴史認識をめぐる対立などを挙げている。そのうえで、もっとも強調していることは、「集団的自衛権」行使容認である。特に、安倍首相の手法については次のように怒りをあらわにしている。
安倍晋三首相は当初、その米軍追従政策を「積極的平和主義」というネーミングで推進しようとしていた。「積極的平和」というのは、私が1958年から使い始めた用語である。平和には消極的平和(negative peace)と積極的平和(positive peace)がある。国家や国民の間に、ただ暴力や戦争がないだけの状態を消極的平和、信頼と協調の関係がある状態を積極的平和という。消極的平和を積極的平和と言い換えるだけなら単なる無知だが、こうまであからさまな対米追従の姿勢を積極的平和というのは悪意ある言い換え、許しがたい印象操作である。
氏は、単に自身の用語の悪意の転用だけではなく、あからさまな対米追従を指摘しているのである。氏は、米国には、米国は神に選ばれた善なる存在であり、米国に歯向かうものは悪とみなすという「深層文化」がある。そして、身勝手な論理で、世界を混乱させ、テロの恐怖を拡散させた張本人であり、覇権主義の行使として、経済的利益の追求のため軍事介入を行う国であるとしてい。そのような米国に追従することは、日本を苦しめる根本原因だとしているのである。
私も、安倍首相の「積極的平和主義」には強い違和感を覚えていた一人だけれど、ご本人がここまで言うのだから私の直感は間違いなかったことになる。安倍首相がガルトゥング「平和学」を勉強するとは思われないので、米軍と一緒に武力行使することを「積極的平和主義」といったのであろう。米国追従を積極的平和という用語で正当化しようとすることは質の悪い印象操作であろう。私は、氏の米国観に異存はないし、日本政府の「集団的自衛権」行使容認は憲法違反の蛮行であると考えている。氏の主張に共感する。
氏の4つの提案
氏は、日本が抱える諸問題の解決のための4つの提案をしている。
①領土の共同所有 日本とアジア大陸の間にある諸島の領有権を相手国と共有することにより、疑心暗鬼や一触触発の緊張状態を解消し、戦争という愚かな選択を避ける。
②東北アジア共同体 日本、二つのチャイナ、二つのコリア、モンゴル、極東ロシアの7つの国と地域からなる共同体をつくる。
③専守防衛 他国の領土を攻撃する能力がなく、軍拡競争を刺激しない武器を保有して、日本の国境線を守る。
④対米従属からの決別 日本は1945年8月15日以来、今も米国に占領され続けている。占領は日本の奥深くまで浸透し、植民地レベルに達している。この状態から脱しない限り、日本は独自の方法で東アジアの平和に貢献することができない。
専守防衛については次のように説明されている。
武装解除(軍縮)が理想だが、防衛のために一定の武器保有は必要である。専守防衛とは、①国境防衛すなわち海岸線防衛、②自衛隊による領土内防衛、③非暴力的抵抗行動による非軍事的防衛である。専守防衛のための武力として、陸上ではジープ、海上では魚雷艇、空ではヘリコプターと精密誘導ミサイルなどである。
氏は、専守防衛という武力の行使と、そのための武力を保有することは否定していないのである。その理由はこうである。
武力の保有を否定すべきという気持ちには敬意を表するが、残念ながら世界は善意だけでは成り立っていない。まったくの丸腰で国を守ろうというのは非現実的である。紛争の根底にある対立が解決されなければ、人間は包丁や金槌を使ってでも戦いを始めるだろう。あるいは再軍備に走るだろう。
私は、氏のこれらの提案のうち、領土の共有については留保し、東アジア共同体の形成と対米従属の解消には賛成し、武力を用いての専守防衛には反対である。武力行使の容認と武力の保有は、結局、最終兵器である核兵器に傾斜するであろうし、不幸にして占領されたら、氏がいうように非暴力的抵抗運動という手段が残されているからである。そして、紛争の根底にある対立の解消のためには、対立の法的解決を工夫したほうが生産的だと考えている。例えば、国際司法裁判所の強制的管轄権を規定するなどの方法である。
氏も武装解除は理想だとしているし、国際紛争の調停者としての実績があるのだから、有効性が疑わしい武力の保有など提案してほしくない、と思えてならない。
正義の武力行使(武力介入)の容認
更に氏は武力行使が例外的に許容される場合を想定している。
武力介入が正当化される要件は次のとおりである。
①直接的または構造的暴力による苦しみが耐え難いレベルに達していること
②考えうる平和的手段はすべて試したが効果がなく、外交交渉も役に立たないこと
③暴力の行使が必要最低限に抑えられること
④勝利や英雄的行為の追求ではなく、正しい動機に基づく行動であるか、慎重な自己吟味が行われること
⑤平和的で非暴力的手段の模索が並行して続けられること
氏は、この最後の手段としての力の行使を敗血症に侵された足の切断のたとえ話で説明している(氏は、健康と戦争を並べて論ずることがある)。私は、この発想にも同意できない。そもそも、個人の苦痛をどう救済するかという問題と国家による武力行使とは別に論じられるべきだからである(国家権力の問題を捨象してはならない)。また、その判断権者を誰にするかという難問に逢着する。そして、正義の実現のためであれ、武力の行使を認めることは、戦争をいつまでたっても廃止できないことにつながるからである。
私は、自衛のためであれ、正義の実現のためであれ、武力を用いることには反対である。
氏の日本国憲法9条についての意見
氏の9条観は次のとおりである。
憲法9条は米国が日本を罰するために使った道具だという主張がある。将来日本が米国を攻撃できないようにである。私もそう考える一人である。当時の日本は米国がサインせよと要求するものを断れる状況になかった。9条は反戦憲法であっても平和憲法ではない。9条があるために、日本では現状を変えるための平和政策が生まれてこなかった。9条のおかげで国家間の対立や戦争のことで頭を悩ませる必要がなかった。9条は崇高な理念を謳っているが、それゆえに躓きの石となり、安眠枕になっている。私は、新しい憲法9条の制定に賛同する。私は、新9条が、これまで通りの反戦憲法にとどまらず、積極的平和の構築を明確に打ち出す真の平和憲法であってほしい。平和とは何かを明記し、公平と共感の精神を高く掲げるものであってほしい。
私は、氏のこの9条観に同意することはできない。その理由は、日本国憲法9条の成立時、戦勝国による大日本帝国の武装解除というにとどまらず、「核の時代」における平和の在り方が問われていたからである。核兵器が存在する時代において武力による紛争解決を止めないならば、戦争が文明を滅ぼすことになるという問題意識である。その問題意識は、当時の被占領国日本の指導層や民衆の共感を得ていたのである。その共感は、新たに選挙権を得た女性の代表者も含む制憲議会において丁寧な議論が行われていたことやその後の政府や民衆の動きに見て取れるのである。それらの事情も軽視してはならない。
日本国憲法9条は、戦争や武力の行使だけではなく、戦力や交戦権も放棄している。他国との信頼や協調を形成するうえで、これ以上の提案はない。積極的平和形成の最善の規範といえよう。加えて、丸腰の国家も26か国ほど存在している。氏の議論にはこれらの視点が欠落している。私は氏の「新9条論」はいたずらに混乱をもたらす有害な議論だと考える。
おわりに
氏は、自分の考えが常に正しいとは思わないし、それを受け入れるよう求めもしない。平和のために活動している限り、私の考えと違っても互いに同志だと思いあえる関係でありたい。しかし、平和のために核兵器が必要だといい、それを「積極的平和」という人が現れたら、私はその間違いを正さなければならない、としている。私も、自分の主張がいつも正しいとは思っていないし、氏の9条論と同工異曲の論者がいることも承知している。けれども、私は、核兵器が発明され、それが使用され、またいつ使用されるか不透明な「核の時代」において、例外的であれ、武力の行使を容認し、武器を持ち続けようとすることは、人類の破滅を導く恐れがあると考えている。だから、氏の提案には反対である。
ただし、私は、氏は私の同志というよりも師の一人と思っている。私は、氏の「種をまかなければ何も芽生えてこない。厳しい時代だからこそ、悲観することなく積極的に行動しなくてはならない」という言葉を共有する。(2020年2月22日記)