拓殖大学の佐藤丙午教授が、「核なき世界を望むなら、日本は核兵器禁止条約に入ってはならない」と主張している。
氏はまず次のように言う。「核兵器のない世界」は国際社会の共通目標である。日本は、核廃絶を訴える歴史的宿命を背負っている。核兵器禁止条約(以下、禁止条約)が、核兵器廃絶を法的な目的としたことには意義がある。核廃絶を願う被爆者が、日本政府が禁止条約に反対することについて、納得できないというのも不思議ではない。ここまでを読むと、日本政府に参加を呼びかけるはずだと思うのであるが、「禁止条約に参加すべきではない」という結論なのである。
その理由は次のように語られている。「この条約の内容に問題があることに加え、核軍縮をめぐる複雑な状況を考えると、この条約は政治宣言に終わる可能性が高い。」、「日本が賛同することは、核軍縮の実現を遠のけ、自身の安全保障を危うくする。」、「条約は核兵器国に核兵器の廃絶を迫る形になっているので、核兵器を受容する国とそれ以外とに国際社会を分断する。」というのである。(1)禁止条約の内容に問題がある。(2)日本の安全保障を危うくする。(3)国際社会を分断する、という三つに整理できるであろう。
第1の禁止条約の内容の問題点として、「禁止条約は核軍縮と核廃絶の間の法的ギャップは埋めたが、軍縮から廃絶に至る過程を規定していない。」、「禁止条約は、従来の条約と異なり、規範性の高い条約であり、局面が根本的に異なる。」ことなどが指摘されている。これまで、核廃絶を志向する条約はなかったが、今回の禁止条約で局面が根本的に変わるとしているのである。本当にそうだろうか。核不拡散条約(NPT)6条は、「全面的かつ完全な軍備縮小に関する条約についての誠実な交渉」を規定している。全面的かつ完全な軍備縮小と軍備の廃絶とは同義である(そもそも、英語ではdisarmament)。そして、禁止条約の前文は「全面的かつ完全な軍縮」にも「NPTの礎としての機能」にも触れている。氏は、NPTと禁止条約との間に根本的な違いがあるかのようにいうが、NPTは「全面的かつ完全な軍縮」を加盟国に課しているし、禁止条約はそのNPTを補完するものなのである。これまで、核廃絶条約の交渉が始まらなかったのは、核兵器国が怠惰だっただけの話である。また、禁止条約2条から4条は、核兵器保有国が禁止条約に加入する道筋も規定しているところであり、廃絶に至る過程を規定していないという指摘は当たらない。結局、氏が指摘する「禁止条約の内容の問題点」というのは的外れなのである。的外れの原因は、NPTと禁止条約についての理解の浅さであろう。
第2の「日本が賛同することは核軍縮を遠ざける」という主張は、そのままでは理解不能である。禁止条約に加入する国家が増えれば「核兵器のない世界」に近づくはずだからである。この点での氏の説明は、「日本が条約に参加し、拡大抑止を断るのであれば、日本は周辺国の核兵器に対し、独自の方策を講ずる必要があり、場合によっては、核兵器廃絶とは逆の政策を推進することになる必要性が生まれる。」というのである。要するに、禁止条約に加入することは、米国の「核の傘」から抜けることになり、抑止力が低下するので、独自の核武装が必要となり、核廃絶とは逆の方向になるという説明である。米国の「核の傘」から抜ければ、独自の核武装が必要だという論理的必然性はない。「核の傘」から抜けても核武装しなければいいだけの話だからである。けれども、氏の念頭には、米国の「核の傘」がなくなれば、中国の核に対抗するために独自の核武装が必要だとの想いがあるので、このような物言いになるのであろう。だから、氏は、「日本が禁止条約に加入することは、核廃絶を遠ざけるだけではなく、自国の安全保障も危険にさらすことになる」と論結するのである。典型的な核兵器依存であり、核抑止論である。氏は、核兵器に依存しない安全保障政策など考えようともしないのであろう。
第3の核兵器依存国とそうでない国との間に分断が深まるというのはそのとおりである。禁止条約によって、核兵器依存国と「核兵器のない世界の達成と維持は最高の公共善」であるとする国家との差異が一層際立つからである。この「分断」や「対立」は不可避である。核兵器に依存し続けるのか、それを止めるのかが問われている状況だからである。この様な場合、「対立」が生ずる条約には反対だということは、核兵器に依存し続けるという選択を意味している。岸田外相(当時)の「核兵器国と非核兵器国の対立を一層深めるという意味で、逆効果になりかねない。」という言明は、日本は米国の核兵器に依存し続けるという宣言なのである。氏の理由付けは、その言明をコピペしているだけである。
結局、氏の主張は、核兵器依存・核抑止論をベースに、NPTと禁止条約をいたずらに対立させ、政府の態度を擁護しているだけのものである。ただ、救いがあるのは、氏も、「核兵器のない世界」は国際社会の共通目標だとしていることと、禁止条約の意義を認めていることであろう。本当にそのように考えているのなら、禁止条約は「政治宣言」に終わるだろうなどと冷たいことを言わないで、「法規範」として現実化する方向で、発言して欲しいと思う。
更に、氏は、外務省が提唱する「賢人会議」について、禁止条約は日本の外交政策を混乱させているので、それを再建するための試みだと評価している。
私は、核兵器に依存し続けることを是とする人物を「賢人」とは思わないけれど、せめて、NPT6条の「全面的かつ完全な軍備縮小に関する条約についての誠実な交渉」の開始を求める程度の「賢人会議」であって欲しいと願っている。けれども、その願いはむなしいかもしれない。だから、他力本願は止めよう。
禁止条約が唱導する「核兵器の使用がもたらす『壊滅的な人道上の結末』を避けるためには、核兵器を廃絶することだ」との思想と論理を世界の人々の中に広め、日本政府の姿勢はもとより、核兵器国の姿勢を変革するための主体的努力を展開することとしよう。例えば、ヒバクシャ国際署名を成功させることなどである。