第100代内閣総理大臣岸田文雄氏が『核兵器のない世界へ―勇気ある平和国家の志』を出版している(日経BP・2020年)。「核兵器のない世界」の実現を前面に押し出した歴代首相はいない。私は大きな興味関心をそそられている。わが国の政治リーダーが核兵器廃絶を本気で取組むということであれば、それに反対する理由がないどころか、大いに協力したいと思うからである。そこで、本書で展開される氏の核兵器廃絶論を検討してみることとしたい。
岸田氏の問題意識
氏の執筆動機は次のようなものである。
ロシアだけではなく、米国までもが「使える核」に手を伸ばした事実は人類にとって大きな意味を持っている。米国が広島・長崎に原子爆弾を投下して以来、長い間人類が踏み超えることになかつた「核のハードル」が着実に下がっているからだ。冷戦時代ほどではではないにしろ、人類社会はなお、核の恐怖におびえて生きている。戦後から75年の歳月が流れ、多くの被爆者がこの世を去る中で、戦争の記憶も被爆の実相も急速に色あせつつある。人類は再び悪魔の業火に手を伸ばしかねない。こうした状況を少しでも改善するために、私たちは知恵を出し合って「核兵器のない世界」の実現に取り組んでいかなければならない。
そして、次のように決意表明している。
「核廃絶」という松明の火が弱くなっている今、私は迷うことなく、その松明を「この手にしっかり引き継ぎたい」と思う。広島県出身の国会議員ということだけではなく、核兵器がもたらす非人道的な災いを再び、この地球上にもたらすべきではないと誓っている日本人として。
私は、氏のこのような情勢認識にも決意表明にも心から賛同するものである。
岸田氏の提案(岸田イニシアチブ)
氏は、自身の知恵の結論として次の5項目を提案している(岸田イニシアチブ)。
1. NPT体制の強化とCTBT、カットオフ条約の推進
2. プルトニウムの大幅削減と新しい「核の平和利用」
3. 「日米拡大抑止協議」の政治レベルへの格上げ
4. 「核兵器のない世界のための国際賢人会議」の創設
5. 「核の平和利用のための国際会議」の新設
少しコメントしておく。
NPTというのは核兵器不拡散条約。CTBTというのは包括的核実験禁止条約のことで、宇宙空間、大気圏内、水中、地下を含むあらゆる空間における核兵器の実験的爆発を禁止している。カットオフ条約というのは核兵器用核分裂性物質生産禁止条約のことで、高濃縮ウランやプルトニウム等の生産を禁止することにより,核兵器の数量増加を止めることを目的としている。NPTの強化とこの二条約の発効を推進しようという提案である。
プルトニウムの大幅削減とは、日本が保有する長崎型原爆六千発相当にあたる約47トンのプルトニウムを削減しようという提案である。核の平和利用とは、原子力発電はもとより、がんの放射線治療や水資源の活用や作物の品種改良などでの利用のことである。
「日米拡大抑止協議」とは、日米同盟の抑止力強化について意見交換を行うものであり、複雑化する安全保障環境下での政策調整のあり方について理解を深める場である。2010年以降は定期的に行われている。米側はこの場で自らの核戦力の配備状況や有事の対応などの情報を日本側に伝えている。参加者は両国の防衛・外交の審議官レベルであるが、氏は、これを政治レベルに引き上げようと提案しているのである。最終的な意思決定権限を持つ政治の側が、より深く、核の傘の実相を知り、理解することは、日本国民の平和と安全なくらしを守ることにつながるという理由である。
賢人会議には、オバマ氏やゴルバチョフ氏などの招聘も念頭に置かれている。核の平和利用のための会議では、原発施設のメンテナンス技術向上、事故防止策、事故後の対応などの議論をするとされている。
氏が出している知恵はこのようなものである。具体的なのは日米核同盟の強化だけである。NPTの強化と核兵器国が抵抗している条約の推進もいわれているが、核兵器国にどのように働きかけるかについての具体的方針は示されていない。あとは会議をやろうということだけである。そして、原子力発電は維持することが前提とされている。
そして、このイニシアチブでは核兵器禁止条約については何も触れられていない。
核兵器禁止条約に対する態度
氏は、サーロー節子さんが、核兵器禁止条約について「核兵器は人の道に外れており違法」と明確に定めるものだとして歓迎しながら、日本の不参加について「被爆者は自分の国に裏切られ、見捨てられたとの想いが強まった」と強く非難していたことを紹介している。けれども、氏は、次のようにいうのである。
今「核兵器禁止条約」を導入しようとすることは保有国と非保有国の対立を「一層深刻化させる」だけだ。NPT、CTBT、カットオフ条約などの発効などの「現実的手段」で核兵器を「最小限ポイント」まで減らすことが重要だ。その上で、「核兵器禁止条約」の中に、各国による核放棄の検証体制を盛り込む国際的な「法的枠組み」を実現すべきだ。
氏は、遠い縁戚(節子さんの姉が岸田さんの祖父のいとこの妻)にあたる節子さんが「自分の国に見捨てられた」と嘆いているのを知りながら、見捨てる役を担っているのである。禁止条約は、核兵器の違法性を確立し、その廃絶のための条約である。それに反対するということは「核兵器のない世界」の実現に反対する行動である。氏は「核兵器のない世界」の実現をいいながら、核兵器国が賛成していないので、禁止条約には反対だとしているのである。どうしてそうなってしまうのだろうか。
岸田氏のリアリズム
氏は次のように言う。
現実を冷徹に見れば、核廃絶という目標はとてつもなく遠い存在である。「核兵器を無くしたい」という思いは人一倍、胸に秘めているつもりだ。しかし、「だから直ちに廃棄しろ」と言っても多くの人、国家が「はいそうですか」と応じるわけではない。私は、難問に向き合うとき「リアリズム」を忘れないようにしている。
核兵器はこの地上からすぐに無くなるものではない。核廃絶は人類にとって未来永劫、不可能な夢物語なのかどうか、その答えはまだ分らない。しかし、私は「その果てしなき夢」をあきらめてはいない。
核兵器廃絶は地球温暖化やパンデミックなどと並び地球規模の課題であり、人類共通の懸案事項。「核なき世界」の実現もそれと同列。米国や日本だけで解決できる課題ではない。
このように、氏は「核兵器のない世界」の実現は超難問としており、オバマ氏と同様に、自分が生きている間には実現しないと考えている。けれども本当にそうだろうか。地球温暖化やパンデミックは、人間の行動に原因があるけれど、自然やウィルスという人間の意思とは無関係の存在もかかわっている。他方、核兵器は人間だけの営みである。その違いを無視して論ずるのは不適切であろう。現に、1986年のピーク時には約7万発あった核兵器は現在1万3千発台に減少している。その気になればできるのである。氏は核廃絶の困難さをいたずらに大きく見ているのである。
さらに氏は、この困難さ以外にも、安全保障環境を理由とする困難さも指摘している。
安全保障環境からする困難さ
氏の主張はこうである。
北朝鮮や中国、そしてロシアが示す「核兵器」への執着心を見れば、「核の傘」を今すぐ「要らない」とはなかなか言えない。
北朝鮮のように国際社会の目を盗んで核開発を進める行為を許すわけにいかない。既に保有している核兵器をすべて廃棄させなければならない。
国際的な反核運動などお構いなしに、ひたすら核軍備増強を続ける中国を「前門の龍」とすれば、独自の生き残り戦略として「使える核」の使用も辞さないロシアは「後門の虎」である。
などとして、北朝鮮、中国、ロシアの脅威を強調している。そして、「核の傘」については次のようにいう。
「核の傘」は、中国やロシア、北朝鮮など核兵器に執着する国からその身を守るための現実的、かつ、必要最低限度の「護身術」。
「核の傘」と呼ばれる核政策の根幹は、米国など核保有国が日本など同盟関係にある非核保有国に対して「有事の際に提供する」と約束している抑止力。
日本は、非核3原則を国是として掲げながら、冷戦時代は旧ソ連、冷戦後は中国や北朝鮮の核の脅威に備えるため、米国の「核の傘」に依存するという国家戦略を貫いている。
日本の周囲には、核に執着する国家が存在するので、日本はアメリカの核の傘に依存して安全を確保するというのである。核兵器に執着しているのは、これらの国だけではなく、米国や日本もそうである。そもそも、核兵器を公然と開発した国はないし、一方的な「核武装解除」など北朝鮮が受け入れるわけがないであろう。また、敵対関係は一方的ということはありえず相関関係である。そして、米国が国際的な反核運動の主張を受け入れたという事実もない。氏のいい方は、日米同盟の存在意義を強調するうえでは有効かもしれないけれど、双方が核兵器に依存しあっている事態を無視する片面的なものである。
自分は核兵器に依存しながら「核兵器のない世界」など実現できるはずがない。何らかの妥協が成立するということは、双方が納得できる論理が背景になければならない。北朝鮮の例で考えれば、「俺は持つお前は捨てろ核兵器」という論理は説得力がないだけではなく、むしろ敵意を掻き立てるだけであろう。現に、現実はそうなっている。私には、氏がリアリストとは思えない。
岸田氏の議論に欠けているもの
氏は、核兵器は抑止力だという。敵国の行動を制約し、戦争を避ける力だというのである。その抑止力が機能したので米ソの間で核の応酬がなかった。双方が「相互確証破壊」を恐れたので核戦争をしなかったというのである。その論理は虚妄であるが、ここで指摘しておきたいことは、仮にそうであったとしても、核兵器が意図的ではなく使用される危険性を無視するなということである。その危険性が存在したことは、米国の政府高官であった人たちも認めている。また、核兵器禁止条約もその危険性に着目して、核兵器の廃止が必要だとしているのである。氏はこの事実を完全に無視している。そして、その抑止が破れた場合に「悪魔の業火」がもたらす事態を想定していないのである。核抑止が壊れないという保証はない。ヒロシマを知っているというのであれば、いかなる理由があっても、核兵器の使用を避けるのが本来の筋道であろうが、氏はそうはしていないのである。「悪魔の業火」が人々を襲うことを容認しているのである。これが核抑止論の底知れない危険性ある。
更に欠けていることは、日本国憲法制定時の政府は、今度世界戦争が起きれば核兵器が使用され、人類社会が消滅してしまうので、戦争も戦力も放棄しようとしていた事実である。氏は「限定的な集団的自衛権」の容認は違憲ではないとしているので、制憲議会における核兵器をめぐる議論など知りたくもないのかもしれないけれど、首相になったのだから、1946年8月当時の政府は核兵器も一般戦力も否定していたことは知っておいて欲しいと思う。その議論には、氏が尊敬する吉田茂氏も参加していたからである。
岸田氏の議論に過剰なこと
逆に氏の議論で過剰なこともある。ケネディ氏やオバマ氏などの元米国大統領や四賢人(核なき世界についてのオバマ氏の提案に影響を与えた人たち)に対する礼賛と安倍晋三元首相に対する積極的評価である。ケネディ元大統領は、1960年代のキューバ危機の時、多くの子どもたちが死ぬことを想定したけれど、核兵器使用を決断していた人である。また、オバマ氏も四賢人も核兵器の抑止力を前提としていたことは本書でも触れられていることである。彼らは、「核兵器のない世界」を口にはしていたけれど、自国の核兵器の必要性と有用性に依存しているのである。「不徹底核廃絶論者」、「口先核廃絶論者」と言っていいだろう。岸田氏もそのレベルなのである。
そして、氏は、安倍元首相を「極めて現実主義にのっとった政治リーダー」と積極評価している。「集団的自衛権」を容認する「安全保障法制」制定に際しての評価である。氏は、自分は「ハト派」、安倍氏は「タカ派」と評価されることを否定していない。安倍氏との違いを強調しているわけでもない。むしろ共通項があるとしているのである。両名とも、自民党に所属し、政権を担当してきたことのだから当然であろう。自民党は、自衛の名のもとに核兵器を含む武力の行使とそのための戦力を保持するために、憲法9条を変えようとしていることを忘れてはならない。
むすび
サーロー節子さんは、岸田さんについて「政治家の傲慢さがあるのではないかと案じていたが、会ってみたら胸襟を開いて語り合うことができた」としている。そして、「広島出身の首相ということで、これまで以上に世界から注視されることになる」、「市民や被爆者の声に耳を傾け」、「人道的な観点からも核問題を考え、核廃絶の先頭に立ってメッセージを発信して欲しい」と注文している(「毎日新聞」10月3日付朝刊)。
現在、政府は、禁止条約は「国の命と財産を危うくするもの」としている。禁止条約への署名・批准は拒否しているし、「締約国会議」へのオブザーバ参加にも消極的である。
岸田さんの核兵器廃絶論はここに紹介したとおりである。サーローさんの批判は承知のうえで、禁止条約には消極的なのである。氏のこの姿勢が続く限り、サーローさんの願いはむなしく響くだけであろう。
私は、岸田さんの「核兵器のない世界」を創りたいという決意にもちろん大賛成である。けれども氏の「核兵器廃絶論」の効用と限界をしっかりと把握しなければならないと考えている。そのことを踏まえた上で、新政権への働きかけをしなければならないからである。
核兵器廃絶を未来永劫の理想ではなく、喫緊の現実的課題とする私たちは、リアリストでなければならない。「夢は追い続ける」なとど悠長なことを言っている場合ではないのである。核兵器国は使用できる核兵器の開発に拍車をかけているからである。
サーローさんを含む被爆者の願いに応えるためにも、また、私たちと次世代の未来のためにも、核廃絶の掛け声だけでない行動が求められている。