この「構想」は、核兵器廃絶を進めるために「裁判」を活用する運動の提起である。
1 新原爆裁判とは何か
広島・長崎の被爆者(外国人被爆者を含む)を原告とし、原爆投下者アメリカ政府を被告とする裁判をいう。
日本政府を被告とする「原爆裁判」は存在したけれど(1963年東京地裁判決)、アメリカ政府を被告とする裁判はいまだ誰も提起していない。計画されたことはあるようだが、実行されたことはない。理由は、アメリカでの代理人が見つからなかった、費用が用意できなかった、政治的過ぎる、法律上の困難さがあるなどといわれているが、正確なところは総括されていないので不明である。
2 新原爆裁判で何を求めるのか (請求の趣旨)
(1) 原爆投下の違法性の確認 (不可欠)
(2) 原爆投下についての謝罪 (不可欠)
(3) 原爆被害に対する賠償と補償 (金銭請求をしなければ不要。金銭請求をしないからといって個人請求権の問題が回避できるわけではない。)
(4) 核兵器使用禁止命令 (要検討・司法権による行政権への義務付けが可能か。)
(5) 核兵器廃棄命令 (要検討・同上)
3 新原爆裁判の基礎にある事実 (請求の原因)
(1) 原爆被害の実相 その非人道性 過剰な殺傷と破壊 永続する被害 (言葉にすることは困難であるとしても、言葉として表現しなければならない。被爆者の声がここに集約される。これまでに多くの蓄積がある。)
(2) 原爆投下の違法性 国際人道法・戦争法違反・人道に対する罪 違法性については、「原爆裁判」や国際司法裁判所の勧告的意見などで整理されている。これまでの成果を体系的に展開することとなる。
(3) 原爆投下の責任 原爆被害を予測できたにもかかわらず、敢えて、原爆を投下した。このことについても、研究は進められている。アメリカ政府は原爆の威力を事前に承知しながら、大戦後の世界のイニシアチブの確保のために、それを誇示した。
(4) 原爆投下による損害 損害賠償や補償を求めないのであれば、金額に見積もる必要はなくなる。被害の実相で述べられることになる。そもそも金額に見積もることのできるような損害ではない。
(5) 核兵器の人類に対する危険性 使用禁止命令・廃棄命令の根拠となる危険性 核兵器は被爆者にとってだけの問題ではなく、全人類の存亡にかかわる問題。原告は被爆者であるとしても、すべての支援者自身の課題であることの確認。
4 新原爆裁判の必要性
(1) 被爆者には、自分と自分につながる人たちに地獄を味合わせたアメリカが、なぜ、法的に裁かれないのかとの率直な疑問と要求がある。その要求に応える必要がある。
(2) 原爆投下についてアメリカ政府が「公的機関」によって「法的責任」を追及されたことはない。アメリカ政府と軍の行為は法を超える営為とされているのである。強大な殺傷力が法の枠外に放置されているのである。法的解明と追及が必要とされている。
(3) 人類史上最悪の「犯罪行為」が法的に裁かれていないことは、「法」の上に「軍事力」を置くことになる。人類は核兵器の使用権限を持つものの許容の範囲内でのみその生存を許されることになる。このままでは国際法は核兵器の前で無力ということになる。「幸福の名においてマルスが支配する」事態を超えて、新たな国際法秩序を打ち立てる必要がある。
(4) アメリカは核兵器の先制使用を国策とし、「使える核兵器」を開発し、配備している。アメリカ政府には核兵器を使用することについての内発的自制心はないのだ。このままでは、また被爆者が生み出される。これを阻止しなければならない。
(5) 核軍縮は進まないし、むしろ核兵器の拡散は進行している。アメリカは核軍縮を妨害し、核拡散を恣意的に容認している。その傲慢で不遜な態度に一矢報いる必要がある。
(6) 原爆展、語り部活動、署名、集会、デモなどの運動に何かプラスできる運動形態が求められている。アメリカ政府に対して、その想定を超える戦いを挑まなくてはならない。アメリカ政府を被告席につける戦いを構築する必要がある。
5 どこの裁判所に訴えを起こすのか
アメリカ連邦裁判所と日本の裁判所が考えられる。インパクトはアメリカの裁判所のほうが大きいが、法理論上の問題点はおいたとしても、被爆者の主体的参加の観点から困難を伴う。日本の裁判所ではそもそもアメリカに訴状が送達されない可能性が高いが、被爆者の主体的参加は容易である。同時提訴もありうる。「戦争は日本が始め、原爆はアメリカが落とした」のだから、むしろ必要だし効果的かもしれない。いずれにしても運動の質の高さが必要となる。
6 いつ提起するのか
2007年の8月1日を目標とする。被爆者の高齢化は進んでいる。現在、平均年齢は74歳になる。いつまでも待てない。納期のない仕事はいつまでも進まない。
7 請求が認められる可能性
原告の請求が認められ可能性は限りなくゼロである。
むしろ、そもそも裁判として成立するかどうか、アメリカ政府に被告として対応させることができるかどうかが問題。
日本の裁判所の場合は、アメリカ政府に対する裁判権は及ばない(主権免除論・制限的主権免除論の立場でも同じ)として、訴状を送達しない可能性がある。訴状が送達されなければ、アメリカ政府が日本の裁判所に出頭することはない。
アメリカの裁判所の場合は、米軍の外国での行為は訴訟の対象にならないとされている(国家無答責論)。原爆投下は外国での米軍の軍事行動であるから、そもそも司法審査の対象とならないとされる可能性が極めて高い。
8 にもかかわらず、裁判をする意味があるのか
(1) 原爆投下が被爆者に何をもたらしたのかを提訴することは、最終判決の結論に係らず、原爆投下は史上最悪のホロコースト・ジェノサイドであることを訴状としてアメリカの裁判所および日本の裁判所に記録させ、保存させることになる。原爆被害の実相を裁判所という国家機関の正式記録にすることになる。
(2) 原爆投下は国際法規範に違反しているとの主張に対して日米各国の裁判所がどのように対応するかは、それぞれの国の裁判官の良心と法的確信のレベルがテストされることとなる。あわせて、各国の法律家・学者に対する問題提起ともなるであろう。あなたは核兵器を法の枠内に置き続けることに法律家としての良心が疼かないのか、法外のものとするために一肌脱ぐ意思はないのかという問いかけである。
(3) 原爆投下は「戦争犯罪」であるかどうかを裁くことは、「戦勝国」の行為を裁くことを意味している。「戦争犯罪」の成否を勝者による裁判だけにとどめてはならない。ニュルンベルグ裁判・東京裁判は、ドイツ・イタリア・日本が敗北したからではなく、国際法に違反したから存在しえたのである。国際法違反があれば、戦勝国も同様に裁かれなければ、国際法はその正義と衡平を喪失することとなる。アメリカの「正義」と「衡平」が正面から問われることになる。
(4) 原爆投下は「戦争を早期に終結するための行為であり、そのことによって、多くの人命を救済できたし、また、植民地の解放を早めた。」と正当化されている。この言説の当否は別に検証されなければならないとして、ここで確認しておかなければならないことは、「合法的な戦争」・「正義の戦争」の下でも、禁止されている攻撃方法・戦争行為があるということである。原爆投下は、いかなる理由があれ、禁止されている攻撃方法であることの確認である。国際人道法・戦争法の到達点の確認作業でもある。反ファシズムの戦いであれ、植民地解放闘争であれ、禁止されている武器の使用や攻撃方法は厳に存在することの確認である。
(5) このような「裁判」運動を核兵器廃絶運動に質的変化をもたらす機会としたい。原爆投下が人類に何をもたらすのかをアメリカ市民に理解してもらい、アメリカ政府の政策転換にインパクトを与えたい。アメリカ人が変わればアメリカ政府が変わる。アメリカ政府が変われば国際政治は変わる。
(6) 日本政府の被爆者政策と核政策を転換させる機会としたい。唯一の被爆国と言いながら、原爆被害を過小評価しつつ、アメリカの「核の傘」に依存する政策を転換させたい。この「裁判」に日本政府が直接係ることはできない。日本政府の対応が見ものである。
(7) 核兵器廃絶条約締結のために、法理論上及び運動上の貢献をする。核兵器廃絶の法的枠組みは核兵器廃棄条約の成立にかかっている。原爆被害の実相を明らかにし、原爆投下の違法性と責任を法的に問う裁判提起は、核兵器廃絶条約のための一助となるであろうし、またそうしなければならない。核兵器廃絶の思想とこれまでの運動を「裁判」運動という形に転化し、核兵器廃絶条約を早期に成立させたい。核兵器の所有や使用を明示的に禁止する国際法がないとすれば、それを制定しなければならない。
9 裁判を可能とする条件
(1) 原告団の形成 約26万人被爆者(被爆者手帳保持者)の内1万人程度を原告として組織できるか。 外国人被爆者との連携は可能か。渡米できる被爆者を何人組織できるか。東京に結集できる被爆者は何人組織できるか。残された命と時間をどのように生かすのか。将来の世代に何を継承すべきものとして託すのか。これまでの戦いをどのような形で集約するのか。この裁判は、被爆者が原告となることに最大の意味がこめられているのである。
(2) 説得的法理論の展開
1.第1に、主権免除論・国家無答責論をどう突破するかである。日本の裁判所はアメリカ政府に対する裁判権はないというだろうし、アメリカの裁判所は米軍の指揮権は大統領に専属するし、米軍の戦闘行為を裁く実定法はないというだろうからである。これではそもそも裁判にならないのである。第2に、個人が外国政府に対して何らかの請求権を持っているのか、またそれを行使できるのかという問題がある。現状では、外国政府に何らかの請求ができるのは、その個人が帰属する政府であって、個人の直接的請求は認められないとされている。
2.これらの問題の背景にあるのは、国家主権は原則的に外国政府には及ばないし、個人が国家に請求することができるのは、それを認める明文の法律がある場合だけである、という思想である。国家間の相互の独立性と、国家と個人の峻別と国家優先の思考がはっきりと現れているのである。この思想とシステムの下では、個人が外国政府を相手に法的に何かを請求することなど「夢のまた夢」ということになるのである。
3.そうすると、この現状を踏まえた上で、国家の違法行為により被害を受けた個人の救済のための法理論を構築する必要がある。とりわけ、戦争に直接責任を負えない個人が、国家の違法な戦争行為によって被害を受けた場合、戦争当事国のいずれの裁判所にも、法的救済を求めることができるとする法理論の構築である。端的に言えば、原爆投下のような重大な違法行為、人道違反行為が行なわれた場合、加害国は被害者が帰属する国の裁判権を拒否できないし、自国の裁判所への提訴と審理を拒否できないとする理論である。更に、その法的救済は、損害賠償・補償にとどまらず、謝罪や将来の行為の差し止めも含まれるとするものであるとすれば、より先進的なものとなるであろう。政府の行為による戦争の惨禍を、事後的とはいえ、個人が法的救済を求めることができるシステムは、国家と個人の関係に質的転換をもたらすことになるであろう。
4.ところで、原爆投下の違法性については、「原爆裁判」の東京地裁判決、国際司法裁判所の勧告的意見などの「公的機関」の見解も、「国際市民会議」や「民衆法廷」での議論なども蓄積されてきている。また、投下についてのアメリカ政府の確信的故意の論証も可能であろう。
5.いずれの論点についても、国際的かつ学際的な協力は不可欠である。アメリカでの裁判ということになれば、当然アメリカの弁護士の協力は不可欠である。千人規模の弁護士、百人規模の学者の協力が必要となるであろう。
(3) 支援グループの形成 国内外の世論の高まりが不可欠である。とりわけ、アメリカ国内での支援グループの形成は重要である。また、大日本帝国の侵略と植民地支配を受けた国の民衆の支援を確保できるかどうかも重要である。非同盟諸国、中堅国家構想諸国、平和市長会議など国家、自治体首長の協力も必要であろう。数百万人規模の支援グループの確保が必要であろう。様々な形態の支援運動が求められる。
(4) 組織と財政 このような内容と規模の「裁判闘争」はいまだ誰も経験したことのないものである。一定規模の専従スタッフと財政が必要となる。例えば、原告一人当たり10万円、支援者一人当たり1万円の予算を確保できれば、数百億円の予算は確保できる。裁判そのものにかかる時間は決して長いものにはならないであろう。
(5) これまでの運動の承継と集大成 今日までの被爆者運動や原水禁運動の蓄積には刮目に価するものがある。この蓄積を集大成することが重要となる。また、被団協結成50周年にあたり、その闘いを継承しようとする運動も提起されている。
結語
原爆被害の実相を基礎として、アメリカ政府の違法性と責任とを法的に追求する試みは、被爆者の要求に基礎を置いているだけではなく、核戦争を阻止し、核兵器をなくしたいと希求する人々の要求と一致するが故に、取り組み方いかんによって、大きな成果をもたらすことになるであろう。
他方、この取り組みは、法理論的にも大きな困難を伴っているし、政治的抵抗も予測されるところではある。けれども、原爆投下は、人類が人類に及ぼした最悪の惨劇であり悲劇である。その最悪の事態を法的にも総括し、核兵器を廃絶しなければ、人類は破局を迎えることとなるであろう。何故なら、人類は、核兵器の持つエネルギーと対抗する手段を持ち合わせていないからである。
もちろん、広島・長崎だけが惨劇であり悲劇であるわけではない。けれども、広島と長崎以外に惨劇や悲劇があることが、この取り組みを不要とする理由とはならない。
そして、この原爆投下を法的に告発する運動は、人類社会から戦争と軍備をなくす方向へと進化するであろう。何故なら、この取り組みは戦争によって紛争を解決することがいかに残酷な結末をもたらすかを、超大国アメリカの市民にも知らせる機会となり、アメリカ市民がその政府の政策を変える意思を持つ可能性を提供するからである。アメリカ政府を変えなければ核兵器はなくならない。
被爆者と良心的法律家と核廃絶を願う市民との連携は、核兵器の使用と威嚇で世界を支配しようとしている核兵器依存者の野望を打ち砕くであろう。
更にこのことは、戦争と軍備を放棄している日本国憲法9条の意義を再確認し、非軍事平和の思想を国際社会に広め、核兵器も戦争もない人間社会を形成する上で大きな一歩を印すことになるであろう。