原爆症認定集団訴訟は、広島・長崎の被爆者が、自らの疾病は原爆放射線に起因する「原爆症」であるとして、それを否定する厚生労働大臣の処分の取消を求めて、全国各地の裁判所(17地裁)に提起した行政訴訟である。原告総数は306名であった。
この裁判は、2003年に提起され、2006年の大阪地裁を皮切りに、全国各地の裁判所で勝訴判決(却下処分の取消)を積み上げてきた(30判決)。
裁判所は、原告らに放射線の影響は及ばないとする被告の主張を排斥し、原告の疾病は、原爆放射線に起因するとしたのである。裁判所は、争点とされていた残留放射線による内部被曝の影響について、原告の主張を採用したのである。
その連続する勝訴を背景に、2007年8月、安倍首相(当時)が認定基準の見直しを発言し、2008年4月には、「新しい審査の方針」が策定され、2009年8月には、麻生首相(当時)との間で「原爆症認定集団訴訟の終結に関する基本方針に係る確認書」(確認書)が締結された。
そして、同年12月には「原爆症認定集団訴訟の原告に係る問題の解決のための基金に対する補助に関する法律」(基金法)が制定され、敗訴原告に対する処遇が確立し、集団訴訟の終結が視野に入ったのである。
このように、原爆訴訟認定集団訴訟は、裁判所、政府、国会という国家の統治機構全体を動かし、敗訴原告を含む被爆者の救済を実現することができたのである。
この成果は、日本裁判史上、画期的なものであると評価できよう。
この特筆すべき成果を獲得できた要因は、第一に、原爆被害の実相があまりにも非人道的・犯罪的であったこと、第二に、その悲惨さが法廷で立証され、裁判官がその事実を無視できなかったこと、第三に、政府も国会も、その裁判所の判断を無視できなかったことなどにある。もちろん、原告、弁護団、科学者・医者などの専門家、支援者の主体的たたかいを忘れてはならない。
非人道的な被害の当事者が、勇気をもって立ち上がった時、それを支える専門家や市民社会が協働し、「山が動く」典型例がここにある。
被爆者の「私たちを最後にして欲しい。」との願いは、被爆者援護と核兵器廃絶を希求する多くの人々の正義感と共鳴したのである。被爆者と専門家および市民社会の法廷内外のたたかいが、「国家の壁」を打ち破ったのである。被害者に共感し、不正義を許さない民衆の戦いが、社会を動かしたのである。
私は、ここに、原爆被害者(ヒロシマ・ナガサキ)が原発被害者(フクシマ)に手渡せるものがあるように思えてならない。
もちろん、原爆投下による被害と原発事故による被害を一律に論ずることは適切ではない。けれども、原爆被害と原発被害は、放射能被害だけではなく、「国策」による被害という意味でも共通している。
私たちは、「大東亜共栄圏」という植民地支配のために、「一億火の玉」、「鬼畜米英」と駆り立てられ、「戦争の早期終結」、「植民地の解放」などという理由で原爆を投下された歴史を知っている。そして、原発は、資源のないわが国において、「経済性に優れ」、「環境に優しく」、「安定的であり」、「安全であり」、「地域振興にも役立つ」などとして建設され続け、今、多くの人々が、故郷と生業を失い、家族や地域社会との分断を味わい、放射能被害に慄かされている現実も知っている。ここに、「国策」による被害という類似性を認めることができるのである。
支配者は、その権力維持と利権のためであるならば、人々の命や、自由や、財産や幸福などどうなってもかまわないと考えている。「わが亡き後に洪水は来たれ」である。核兵器に「安全保障」を委ね、原発の「経済効果」に依存する政・財界の「要人」、そしてそれに追従する連中たちの言動がその証左である。
今、私たちが求めているのは、核兵器や武力に頼らない国際社会の平和と安全であり、コントロール不能な核物質に頼らないエネルギー政策である。
にもかかわらず、彼らはそうしようとしないどころか、核抑止力を含む日米同盟の強化を図り、原発の再稼働を進め、原発の輸出まで準備している。
「平和のうちに生存する権利」や「健康で文化的な最低限度の生活」を無視・軽視する改憲が日程に上っている。
核兵器によるものであれ、原発によるものであれ、放射能被害から免れることは、現在と未来の人類の生存と共同生活のための必須条件である。
戦争も貧困もない、各人の幸福が万人の幸福につながるような未来社会の実現のために、ヒロシマ・ナガサキの被爆者のたたかいをフクシマの被害者のたたかいに生かさなければならない。