1 本号掲載のC・G・ウィーラマントリーによる公開書簡(「日本においての原子炉の惨劇―世界の環境担当大臣に向けた公開書簡―」)は、東日本大震災より3日後の2011年3月14日に、核問題に携わる関係者らに向けて送付されるとともに、ウィーラマントリー国際平和教育・研究センターのウェブサイト(http://www.wicper.org)において公開されたものである。この公開書簡は、福島第一原発事故における深刻な事態が世界に向けて発信される中、これに反応するものとして、同年3月15日に公表されたリチャード・フォーク(プリンストン大学名誉教授)による論考(http://richardfalk.wordpress.comにおいて閲覧可能)とともに、もっとも初期の段階で福島の事故と法規範とを関連づけて考察した論考の一つとなった。
本誌の読者にとっては自明なことであろうが、現在、ウィーラマントリーは、国際反核法律家協会(IALANA)の会長職にある。このことから、彼の思想と行動は、核問題全般に対するIALANAの影響力の大きさから見ても、日本のみならず、世界で展開される核廃絶運動の実践に一定の方向性を与えうるものである、この点を重視し、2011年4月28日に日本反核法律家協会で開催された「核兵器問題フォーラム」において、筆者が報告者となり、公開書簡の内容が検討された。
本稿では、限られた紙幅の範囲内ではあるが、当日の報告に基づき、公開書簡の内容、これに関連する論点等について、一定の情報を本誌読者に提供することとしたい。
2 公開書簡において、ウィーラマントリーは、原子炉の存続と拡散が「将来の世代に対する犯罪」であり、「人道法、国際法、環境法、および国際的な持続可能な発展に関する法のすべての原則に反する」ものであるとして、世界の環境担当大臣に対し、次の4点について直ちに行動する必要があると提言している。すなわち、(1)新たな原子炉の建設停止、(2)代替エネルギーシステムの探求、(3)既存のシステムの段階的廃止、(4)原子炉の危険性についての警告(一方的な情報流出の是正)である。つまり、新たな原子炉の建設を凍結し、太陽光などの再生可能エネルギーの開発を継続しつつ、原子力発電に依存しない発電システムに移行すべきであるとする、「段階的廃止」がウィーラマントリーの立場ということになるだろう。また、原子炉の利点だけではなく、危険性についての情報が広く市民に伝わるように求められていることは、公的立場にある者のみでなく、NGO関係者に対しても強く要請される点であることからすれば、むしろ核廃絶運動に携わってきた者にこそ自省的な意味も含めて強い留意がなされるべきである。
ところで、公開書簡においては、上記のような提言に至る論拠として、大きく分けて二つの側面から議論が展開されている。一つは「科学的(統計的)根拠に基づく反対理由」、もう一方は「倫理・規範的な根拠に基づく反対理由」である。以下で敷衍してみよう。
前者については、ウィーラマントリーの過去の著作、ないしは国際司法裁判所(ICJ)においての彼の個別意見からの引用がなされている。そのいくつかをあげると、米国原子力規制委員会(NRC)による原発事故の被害額に関する試算(被害額3000億ドル以上)、ハリスバーグの核リーク(数年以内の原子力事故の発生確率が5~10%)、原子炉損傷の際の環境被害の程度、チェルノブイリ原発事故における損害の状況、世界中の原子炉から排出される廃棄物の総量が計測不可能であること、などがある。
これらは、いずれも科学的な知見に基づいた報告書あるいは著作等を根拠として原発の危険性を提示するもので、その性質上、科学的な反証を許すものであるが、ウィーラマントリーが強調するように、現在の偏った情報量からすると、あるいはこのような原発の危険性に関する情報の存在を提示すること自体が一定の価値を有するのかもしれない。
後者については、ウィーラマントリーの価値観は確固としたものである。これは「将来の世代に対する犯罪(crime against future generations)」というウィーラマントリー独自の用語で明確に表現されている。ウィーラマントリーによると、我々は、その一人ひとりが環境の受託者なのであって、特に世界の環境担当大臣は、この点に関して特別の責任を有している。そして、将来の世代に引き起こされる損害について、完全に認識しているのに、回復不能な損害を引き起こすことが明らかな活動、すなわち原子炉の建設を推進することは、将来の世代に対するありうべき最も重大な犯罪に関与することになるとするのである。ウィーラマントリーはこの主張を裏づける例証として、すべての環境法の基礎ともなる、古代の人々に見られる知恵(wisdom)、また世界の主要宗教に見られる知恵を引き合いに出し、これらのいずれもが、将来の世代の環境に対する配慮という点で共通性があると主張している(なお、このようなウィーラマントリー特有のレトリックについては、拙稿「現代国際法における弱点領域?―C・G・ウィーラマントリーの主張と「普遍化」概念―」、(http://sites.google.com/site/studiesofilにおいて利用可能)で整理してあるので参照されたい)。
「将来の世代に対する犯罪」という用語は、一般的には、「世代間の衡平」の概念に類する用語であると推認できる。この概念は、環境法の領域においては、主として先進国と発展途上国、ないしはその国内においての現世代の利害調整を眼目とする「世代内の衡平」の概念と対になって認識され、世代を超えた規範的関係を取り扱うものであるが、地球環境保護の意識が高まるのに従い、たとえば気候変動条約3条、あるいは生物多様性条約2条の規定に見られるように、国際条約上の義務としても国際社会の支持を得てきているといえよう。
3 翻って、原子力の平和利用は、核不拡散条約(NPT)4条において締約国の奪い得ない権利とされている。この点、原子力の平和利用とされる原子力発電には確固とした正当性が付与されており、原子力発電に何らかの問題があろうとも、現時点において核軍縮問題と同列にこれを論じることは適切ではない。その一方で、今回の福島の事故を受けて、環境法の側面において、「原子力に関わる活動全般」についての環境破壊とこれに対する法的位置づけは、専門家の間でも再検討を余儀なくされることだろう。むしろ、「原子力の平和利用」の実態が地球環境にもたらしている被害状況が実証されるのに従い、原子力の利用方法という従来の枠組みを越えて、地球環境の保護という「異なる次元」の枠組みの中で、軍事利用・平和利用に関わりなく原子力全般をどのように取り扱うのかという視点がより強く求められることになるのではなかろうか。
もとより、取り組むべき課題は多い。公開書簡においてウィーラマントリーが求めた原子炉の段階的廃止にしても、その前提となる原子力発電の危険性に関する科学的データは、その安全性を標榜するデータと比較して圧倒的に少なく、容易には入手し難いものである。安全性・危険性の両者の情報の不均衡は、民主主義の大前提である正確な情報を得るためにも、より意識的に是正されていかなければならない。その一方で、ウィーラマントリーの規範的主張の根幹にある「将来の世代」についての権利は、環境法の基本原則として定着しつつあるものの、これを支える法理論は、そもそも従来の権利義務関係で構築しうるのかを含め、いまだ不完全である。まさしく、道徳を説くのは易しいが、これを根拠づけることが困難なのである。
前者については、すでに福島の事故が発生し、少なくとも我々の世代が存命中にその影響が消滅することがない以上、日本においても、今後、膨大なデータが蓄積されていくことだろう。このことは、科学的データに基づいた原発の是非について、活発な議論が展開されることを予想させるもので、その中で「監視者」としてのNGOは必要不可欠な役割を果たすことになると考えられる。後者については、法学研究者のみならず他の学術分野の研究者、ないしは実務家によっても、より詳細な検討の対象とされなければならない。特に、原子力発電それ自体が「将来の世代」の権利を侵害するのか否か(さらにいえば「将来の世代」に対する「犯罪」となるのか否か)は、これを是としたとしても、(少なくとも原発に依存する先進国においては)従来の生活様式・常識の転換が求められる難問なのであって、実のところ、ウィーラマントリーの古代の人々の知恵、あるいは主要宗教の知恵に基づく立論形式は、このような難問の解決に道筋を与える処方の一つでもある。
4 他方において、世代内・世代間の広範な環境問題として、原子力発電を取り扱う場合、法的問題に限ったとしても、その労力は現にあるリソースを超えたものになることが疑いない。反核NGOによる情報の発信にあたっても、自らの役割を認識したうえでの、ある種の戦略性が必要とされるのではなかろうか。
たとえば、上述の「原子力全般がもたらす環境被害」という点に注目して、地球環境保護の側面から核兵器と原子力発電の相関関係を明らかにしていくのであれば、「核兵器に反対する」法律家協会ないしはこれに類する法律家集団が、他のNGOと異なる独自の寄与をなしうるものは、すでに一定の知見の蓄積がある「核兵器の製造・配備・廃棄等に関わる環境問題」、特に過去に行われた核実験においての健康被害、ないしは環境破壊の科学的・規範的問題点の再提示といった側面であるのかもしれない(これらの情報の所在は、さしあたり『地球の生き残り―解説モデル核兵器条約』(浦田賢治編訳、日本評論社、2008年)の参考文献からも確認することができる)。現に、ウィーラマントリーが公開書簡において原発問題のために展開した論理は、ICJの「核実験事件」(1995年)においての彼の個別意見(C.G.Weeramantry, Universalising International Law, Martinus Nijhoff Publishers, 2004に再録)で展開された「核実験がもたらす健康・環境への影響とその責任に関する論理」と非常に類似したものとなっているのである。