問題の所在
米国で、核政策の見直しが進められている。「核態勢見直し」(Nuclear Posture Review-NPR)という作業で、8年に1度行われるものである。今年末までにはその結果が公表される予定である。今回の見直しは、4月5日のオバマ大統領の「核兵器のない世界」を目指すとしたプラハ演説をどのように具体化するのかという課題を担うものである。オバマ政権の核政策の基本となるもので、オバマ演説が今後どのように生かされるのか、その見直しの内容に注目しなければならない。
オバマ演説以前・以後の経緯を見れば、米国の核戦略の見直しの内容は、(1)核兵器の廃絶をめざして、(2)核兵器に依存する戦略を見直し、(3)米ロ間の核軍縮から始めて、(4)核不拡散条約(NPT)の誠実な履行、(5)包括的核実験禁止条約(CTBT)の発効、(6)軍事用核分裂物質生産禁止条約(FMCT)の制定などを目指す内容となることが期待されている。(オバマ演説には核抑止論の残滓があるので予断は許されないが。)
ところが、日本政府は、米国の核政策見直し、特に、核兵器に依存する戦略の見直しに、一般的に言えば慎重、はっきり言えば足を引っ張る姿勢をとっているのである。
日本政府の姿勢
中曽根外務大臣は、4月27日の演説「ゼロへの条件-世界的核軍縮のための『11の指標』」でこういっている。「核軍縮・不拡散を進めていく際には、現実の安全保障環境を踏まえる必要があります。東アジアの状況にかんがみれば(北朝鮮の危険性と中国の不透明性のこと。筆者注)、日米安全保障体制の下における核抑止力を含む拡大抑止が重要であります」、「国際的な核不拡散体制を維持・強化しつつ、核兵器のない世界という到達点と、そこに至るまでの過程で、国際的安全保障を維持できるような現実的な核軍縮の方途を、より具体的に検討すべきです」
要するに、「日本の安全に万全を期すためには、核を含む米国の抑止力に頼る必要がある」というのである(外務省ホームページ)。
この姿勢は確固としたもののようで、「米戦略態勢に関する議会委員会」(委員長ペリー元国防長官)の最終報告(「核態勢の見直し」に大きな影響を及ぼすとされる)は、アジアの一部の同盟国(日本のこと)が、米国が不要と考えている攻撃型原子力潜水艦に搭載されているトマホーク地上攻撃型核ミサイルの退役に深い懸念を抱いているとしているのである(しんぶん赤旗09.8.4)。
また、4月6日・7日にワシントンで開催されたカーネギー国際平和財団主催の国際会議で、日本は対米同盟を絶対視し、中国や北朝鮮を意識して、冷戦時代の抑止論を繰り返し、会場に場違いな印象を残したとされている(毎日新聞09.5.4)。
整理しておくと、「唯一の被爆国」を枕詞に、核兵器の究極的廃絶を口にする日本政府は、「唯一の核兵器使用国」としての道義的責任を認めて「核兵器のない世界」を目指すとした米国大統領がその核戦略を見直そうとしているのに、「核の傘」をはずさないでくれと頼み込み、核兵器依存体質を維持しようとしているのである。唯一の被爆国日本が、唯一の核兵器使用国米国の核軍縮・核不拡散・核廃絶への政策転換を妨害するという「皮肉な悲劇」(米国・「憂慮する科学者同盟」のグレゴリー・カラキー)が展開されているのである。
日本政府の姿勢が及ぼす影響
この日本政府の姿勢は、米国国務省、国防省、国家安全保障会議なども含め米国内に残っているオバマ大統領の核政策転換に反対する勢力に勢いをつけることになるであろう。元々、核兵器の先制使用も含めて核兵器依存国家戦略を支えてきたのは、米国のいう自由と民主主義と市場経済を承認しない国家に世界支配を譲るぐらいなら地球の滅亡も辞さないという勢力と、核兵器の生産と維持に依存する軍需産業である。端的に言えば、強力な武力を背景にして、野放図な金儲けができないのであれば地獄のほうがましだと考えている連中である。彼らが簡単に権力と利権を手放すと考えるのは余りにもナイーブであろう。彼らはこう言うであろう。「同盟国日本が必要としている『核の傘』は核抑止と拡大抑止に不可欠なものだ」、「同盟国との信頼関係を維持しなければならない」、「もし、ここで我々が『核の傘』をはずすようなことがあれば、彼らは我々に不信を持ち、独自に核兵器の保有に走るであろう。現に日本には、そういう勢力が存在しているではないか」、「そのようなことはかえって我々の安全保障にとって不都合である」、「だから我々は核兵器を手放すことはできないのだ」などと。
このままでは、オバマ大統領が命懸けで提案した「核兵器のない世界」は、その重要な一歩を踏み出せないことになってしまう。もしこのような事態を是正することができなければ、私たちは、「皮肉な悲劇」の鑑賞者にとどまらないで、悲劇を生み出す張本人の役割を演ずることとなるであろう。
日本政府の問題点
日本政府の主張は、「東アジアの状況にかんがみれば、米国の『核の傘』でわが国の安全を保障してもらう必要がある」、「北朝鮮と中国の脅威からわが国の安全を確保するために、米国の核兵器を頼りにする」というものである。北朝鮮は核兵器もミサイルも持っているし、中国も核軍縮をしようとしていない。もし彼らがわが国を攻撃するようなことがあれば、米国に核兵器で反撃して欲しいというのである。
この主張の特徴は、「核兵器による抑止」(核抑止論)を前提としていることである。ここで「核抑止論」とは、敵国が攻撃に出れば核兵器による反撃を受け、壊滅的な打撃を受けるということを恐れて、攻撃を思いとどまるであろうという「理論」である。そもそもこの「理論」は数多くのパラドックスに満ちていた(岩田修一郎)。この「理論」がパラドックスに陥ることは無理もないことである。何故なら、この「理論」は、核の恐怖で相手の行動を制約しようとするものであるから、核を使用しないということであれば恐怖を覚えさせることはできないし(もちろん相手が核攻撃を恐れないのであれば効果はない)、核を使用すれば「相互確証破壊」が現出するか(米ソ間の核戦争)、少なくも非人道的国家としての烙印を押され「政治的敗北」をすることになるからである(非核兵器国への使用)。「相互破壊」も「政治的敗北」も避けたいということになれば、使用できない兵器に巨額の国費(米国の核開発に投入した国防予算が年間500億ドルに達したこともあるという)を費やすことになる。使用することができない兵器に自国の命運を託するというパラドックスである。「悪魔の兵器」に自国の安全を委ねる愚かさに気づくべきであろう。核抑止論は自縄自縛の中でもがき続けてきたのである。
「核抑止論」の副作用
この「理論」に囚われてしまうと、思考停止という副作用も起きることになる。北朝鮮との国交の確立や中国との友好関係の樹立などを忘却してしまうという副作用である。何らかの脅威を覚えるのであれば、その脅威の正体を正確に把握し、その除去を試みればよいのに、いたずらに脅威を言い立てるだけに終始してしまい、軍事力による対立や恐怖で相手を制圧するという方策以外に想いが至らなくなるのである。米国の核という使用できない武器に依存して事足りるとしていた付けが回っているのである。
核兵器に頼れば自国の安全が確保できると考えるのは、単に論理的に非整合的というだけではなく、実践的にも有効でないことは、最大の核兵器国である米国が核兵器に脅えていることを見れば明らかである。日本の「核抑止論」に基づく安全保障政策はその根本において間違っているのである。「北の核の脅威」に対抗するために「核の傘」に頼るという姿勢は、多くの被爆者が指摘するとおり、核兵器廃絶を遠ざけるだけではなく、一層危機を深めることに直結するであろう。
求められていること
今私たちに求められていることは、オバマ演説の積極的側面を評価し、核廃絶に向けた彼の決意の実現をサポートすることである。兎にも角にも、核超大国の政治リーダーが、「核兵器のない世界」の実現についての道義的責任を宣言したのである。この機会を活かさないという選択肢はない。そのためには、核兵器の必要性を支える「核抑止論」の没論理性と無用性を確認し、それを乗り越えることである。合わせて、核の恐怖に依存しない安全保障体制を樹立することである。当面、国連憲章が定める「各国の主権の平等」と「武力行使禁止」の規範を遵守し(更にその発展形態として日本国憲法9条がある)、核兵器の先制不使用を確立し、核不拡散条約(NPT)を誠実に履行し、北東アジア非核地帯条約を実現すべきである。その地平に立って、「核兵器廃絶条約」を実現すべきである。そのような運動の原動力となるのは、核兵器が人間に何をもたらしたのか、ヒロシマ・ナガサキの実相を知り、世界のヒバクシャの叫びを聞くことである。大量・無差別・残虐かつ永続的な被害をもたらす核兵器の犯罪性・非人道性を知るならば、核兵器に頼りながら語られる「平和」や「安全」がいかに欺瞞に満ちた気色の悪いものであるかを確信できるであろう。