「『法の番人』内閣法制局の矜持」と題する本を読んだ。サブタイトルは「解釈改憲が許されない理由」である。テーマは、憲法9条の解釈変更による集団的自衛権容認批判である。2008年に自衛隊イラク派遣差止訴訟で画期的な違憲判決を獲得した川口創弁護士が、2004年から2006年(小泉政権後期)に内閣法制局長官であった阪田雅裕さんにインタビューするという形式で、阪田さんの考えを聞きだしている本である。2014年2月20日に大月書店から発行されている。集団的自衛権行使容認の閣議決定は、2014年7月1日だから、この本はこの閣議決定よりも前に発行されていたのである。伊藤真さんは「立憲主義を守るという信念に満ちた阪田さんの言葉に、護憲・改憲の立場を超えて耳を傾けてほしい」と推薦している。
ところで、阪田さんは、川口さんもいうように「護憲の立場から9条を守れ」と主張している人ではない。むしろ、「たとえば、…日本が国連の常任理事国になろうといった場合に、軍事力の行使ができないということが軛になるという考えがあってもおかしくない。私は、そうした意見を否定するのではなく、そういうニーズがあるのなら、ぜひ9条を改正してください、と申し上げているにすぎません。」というスタンスである。
そして、「改正を議論すること自体ダメという姿勢は、むしろ国の在り方についての議論を歪めます」として、日弁連などの姿勢を批判しているところでもある。ちなみに、川口さんは、この阪田さんの批判について、「肝に銘じておきます(笑)」と応じている。この様に、阪田さんと川口さんとの間には政治的立場の違いが存在するのである。
その阪田さんは川口さんについて「教条的な左翼弁護士をイメージしていたが、見事なまでに裏切られた」と評価し、川口さんは「イラク派遣違憲訴訟の時にも、内閣法制局の憲法解釈の論理的強さを感じてきた」としている。二人の間には、世代(1943年生と1972年生)や政治的スタンスを超えて、知的紐帯が成立しているのである。現憲法の解釈として集団的自衛権を容認することは立憲主義に反するという紐帯である。この立憲主義の観点からの安保法制反対の意思表明と行動が安保法制反対運動に大きな役割を果たしたことは私たちのよく知るところである。
しかしながら、問題は、安倍首相が2020年までに9条を含む憲法改正を行うとしている現在の状況化で、護憲派は、阪田さんのような立憲主義者を巻き込むことができるかどうかである。川口さんと阪田さんが新たなエールを交換することができるだろうかということでもある。阪田さんは、日本が軍事力の行使をしたいというのであれば9条を改正してくださいとしている。9条を改正して、自衛隊を海外で活動させることには可能であるとしているのである。阪田さんは、そのことについて賛成も反対も言っていない。けれども、9条を改正して、日本が軍事力を保有し、海外での武力行使をおこなうことができるように憲法を改正することは憲法改正の限界を超えるとは言っていないのである。
私は、かつて「国家設立の目的は、個人の尊厳と幸福追求権の保障である。これは憲法内容を限界づける。国家創設の社会契約である憲法は、個人の尊厳と幸福追求権と本質的に両立しえない権力を国家に与えることはできない。人民の殺傷を必然にする戦争をする権力、そのための軍隊を設置する権力は国家に与えられない。」、「憲法9条は、このような立憲主義の帰結と個人の尊厳の保障を原理とする。憲法改正権力(民主主義)もまた、このような意味の立憲主義に限界づけられる。」という広渡清吾さんの原理的立憲主義を紹介したことがあった(自由法曹団通信1568号・2016年8月1日)。
この広渡説と阪田説を対比すれば、どちらが徹底した立憲主義かということがわかるだけではなく、非軍事平和主義と立憲主義、更には民主主義を関連させて理解することの重要性にも気づかされるのである。
私は、人類がその手でコントロールすることのできない最終兵器を手に入れてしまっている「核の時代」にあって、9条の改正は、単なる政策選択の問題としてではなく、根本規範のありようとして考えられるべきテーマだと思うのである。そして、憲法9条は決してユートピア思想だとは思わない。現に軍隊のない国は26カ国も存在するし(国連加盟国は193)、人間は相互の殺傷と破壊でしか問題を解決できないような愚かな存在だとも思わないからである。また、個人の人権は国家に優先するという天賦人権論に賛同しているところでもある。自民党の改憲論とは根本のところで相容れないのである。
川口さんと坂田さんの対話を読みながら、ふとこんなことが思い浮かんだのである。