長谷部恭男先生が「安保法制を改めて論ずる」という論稿を書いている(「安保法制から考える憲法と立憲主義・民主主義」・有斐閣・2016年)。「憲法の基本原理、つまり立憲主義に対して攻撃を加え、日本という国を殺そうとしているのが安倍政権である。」、「アメリカの戦争の下請けとして、世界中で武力を行使し、後方支援をするための法制であることは明らかである。」という安保法制批判である。
その批判の理由は、「個別的自衛権の行使は合憲だが、集団的自衛権の行使は違憲であるという政府の有権解釈」を、「論理的整合性」や「法的安定性」を欠いたまま変更することになる。「自国を防衛するための個別的自衛権と、他国を防衛するための集団的自衛権は、全く本質を異にしており、前者が許される論拠が、後者を容認する論拠となるはずがない。」、「我が国に武力攻撃がないにもかかわらず敵に攻撃を加えることは、先制攻撃になる。そんなことが許されるはずがない。」ということである。憲法は個別的自衛権を認めているけれど、集団的自衛権は認めていない。集団的自衛権を容認する安保法制は違憲であるという立論である。
私は、この結論に異を唱えるつもりはない。また、先生の衆議院憲法審査会における安保法制は違憲との意見表明が反対運動に大きく寄与したことも記憶に残っている。
しかしながら、私は「個別的自衛権の行使は合憲である」との言説に無留保で同意することはできない。憲法は、国家に固有の自衛権を認めているかどうか、自衛権があるとしてもそのための武力の行使を認めているかどうか、そのための実力の保有を認めているかどうかなどについて、様々な議論が存在するからである。とりわけ、私は、「核の時代」における武力の保有と行使にこだわるので、「自衛権の行使」にも敏感になるのである。
先生は、「急迫不正の侵害に対して実力の行使なくして対処することは不可能であるから、個別的自衛権の行使が憲法9条の下で認められることは良識にかなう。それを否定することは、絶対平和主義という特定の価値観を全国民に押し付けることになり、多様な価値観を実現しようとする近代立憲主義と衝突する。」としている。多様な価値の実現のために、9条の下で、武力の行使を伴う自衛権の行使を容認するという議論である。
それは先生の選択として聞いておくこととして、着目したいことは、先生は、憲法制定直後においても、「政府は個別的自衛権の行使さえ想定していなかったとするのは誤解」としていることである(同書・95頁)。しかも、その論拠として、憲法公布と同時に刊行された「新憲法の解説」(高見勝利編・岩波現代文庫・2013年)を引用していることである。
先生は、この解説本が「日本が国際連合に加入する場合を考えるならば、国際連合憲章51条には、明らかに自衛権を認めている」としているので、…「「自己防衛」の手段としての個別的自衛権の行使の可能性を想定していたことをうかがわせるには足るものではある。」としている。安保法制批判の口調と違って歯切れが悪いけれど、この解説を根拠に、1946年11月3日当時も、日本政府は「個別的自衛権の行使を想定していた」と主張しているのである。
私は、その意見に反対である。そもそも、その本の当該箇所(103頁)は、「…国際連合憲章第51条には、明らかに自衛権を認めているのであり、安全保障理事会は、その兵力を以て被侵略国を防衛する義務を負うのであるから、今後わが国の防衛は、国際連合に参加することによって全うせられることになるわけである。」としているのであって、わが国の個別的自衛権の行使を認める記述ではないのである。
そして、その直前には、「わが新憲法のように、大胆に捨て身となって、率直に自ら全面的に軍備の撤廃を宣言し、一切の戦争を否定したものは、いまだ歴史に類例を見ないのである。」と書いているのである。これらの記述から「個別的自衛権の行使の想定」を根拠づけることは牽強付会どころか、暴論であろう。
この様な暴論を導いたのは、この解説にある「一度戦争が起これば人道は無視され、個人の尊厳と基本的人権は蹂躙され、文明は滅ぼされてしまう。原子爆弾の出現は、戦争の可能性を拡大するか、または逆に戦争の原因を収束せしめるかの重大な岐路に到達したのであるが、識者は、まず文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を抹殺するであろうと真剣に憂えているのである。」との記述を無視したからであろう。この部分は、「核の時代」に武力で物事を解決しようとすれば、文明が抹殺されることになるので、武力での解決を止めよう、それを徹底するためには戦力と交戦権を否定することであるという思想に基づく記述である。その思想の規範化が日本国憲法9条である。
多様性の確保のためには武力による自衛が必要だとする論者は、現在、人類は「核の時代」にあるということを視野に置いていないか軽視しているのであろう。文明が抹殺された人類社会に、多様性を求めることは不可能である。多様性の追求の前に確保しなければならないものがある。人類生存の土台の確保である。そのための核兵器を含む戦力の廃絶や戦争の放棄である。
私は、新憲法制定直後の政府と同様に、非軍事・非武装の国家を目指したい。そして、当面、核兵器禁止条約を発効させ、核兵器国の核武装を廃絶に導くための努力をしたいと思う。長谷部先生に、非常識な絶対平和主義者と嘲笑されようともである。併せて、先生の「解釈が必要となるような憲法の条文は廃止すべきである。」という議論が、どのような結末をもたらかについても注視し続けるつもりである。