阪田雅裕元内閣法制局長官が、標記の論稿を「世界」2018年1月号で公表している。結論的に述べていることは、「現在の自衛隊を明記した憲法改正案を発議することこそが、法的にも、政策の当否という面でも、この問題を決着させるための王道である」ということである。
現在の自衛隊を明記するという意味は、(1)自衛のための必要最小限度の実力組織としての自衛隊の保持、(2)武力攻撃を受けたときに、これを排除するために必要最小限度の武力行使の容認、(3)わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされる危険がある場合(存立危機事態)には、その事態の速やかな終結を図るために必要最小限の武力行使の容認などを、9条1項2項の後に書き込むということである。
王道であるという理由は、国民投票の結果、「違憲の安保法制」を合憲化する結果になったとしても、違憲の法律が効力を有している立憲主義違反は是正されるし、我が国の防衛政策について、有権者が投票する機会が提供されることは歓迎すべきことだから、という趣旨である。立憲主義違反が是正されるというのが法的意味、投票機会が提供されることが政策的にも妥当ということのようである。
私は、この結論に反対である。その理由は、このような改憲が成立した場合に、立憲主義違反が解消されるとは思わないし、このような改憲手続きのための国民投票など避けるべきだと考えるからである。
私は、ある法案が、憲法の条文と文理的整合性がとれているかどうかだけではなく、国会や政府の行為によって、国民の生命、自由、財産などが侵害されないように、政治権力を拘束しておくということが立憲主義の根本思想だと考えている。端的にいえば、国家の最大の暴力である戦争の危険から、国民を遠ざけておくことだと理解しているのである。政府は自国民を戦争の危険から解放すべきだというのは、現代立憲主義が包摂する価値であろう。とりわけ、「核の時代」にはそのことを原点にするべきである。
仮に、氏の提案のような改憲が行われることは、現在よりも、政府の行為による戦争の機会が増大することになる。したがって、国民の「平和的生存権」を含む個人の生活と権利が、より危殆に瀕することになることは、論理的必然であろう。国民を戦争に駆り出し、その惨禍にまみれる可能性を高める改憲案を提案しながら、立憲主義違反が解消するなどという議論を黙過することは、私にはできない。
氏は「日本国憲法の平和主義は世界標準並みではない」と考えているようだし(「政府の憲法解釈」・七五頁~七六頁)、9条は核兵器を容認していないと理解している(「世界」本号・七四頁)ところであるので、私のこのような問題意識は共有していただけるのではないかと思うのである。
また、現在の国民投票法は、有効投票率の定めもなく、反対運動を担う人たちの行動を制約し、他方では、金に任せた野放図な宣伝活動も容認している。これらの問題点の解消もないままに、とにかく投票の機会があるのだから歓迎すべきだなどというのは、無責任極まりないであろう。
氏は「9条の下でも限定的な集団的自衛権の行使が認められることとなった今、その解釈を維持しながら憲法に自衛隊を明記するのは容易なことでない」とか、軍隊を持てる「普通の国」になるというのであれば、9条2項を削除すべきであるともいう。氏はいわゆる「9条加憲」などやれるものならやってみろと思いつつ、また9条2項の削除には反対だと内心考えながら、それでも「憲法も成文法である以上、必要な改正はその宿命である。」としているかのようである。安保法制を違憲だとする氏なのだから、そうなのだと思い込みたいところでもある。
けれども、私は、「宿命である」などと第三者的にはなれない。人類が核を兵器として使用することが可能な現在、武力の行使を容認することは、直接的であるか、緩慢であるかはともかくとして、「壊滅的な人道上の結末」をもたらすことなると恐れているからである。そして、その恐怖から免れるためには、核兵器にとどまらず一切の戦力を放棄することだと思うからである。日本国憲法は、その地平を規範としているところであるし、それを後退させたくないからである。換言すれば、核兵器も含む戦力をどう制御するかは、現代の立憲主義に課されている最も重要な課題なのである。私はそれから逃げたくないのである。
願わくば、安保法制は違憲だとしている元内閣法制局長官の知恵と経験を、「宿命」を説く方向でなく、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利」を実現する方向で生かしていただきたいと思うのは、私だけではないであろう。