本稿の問題意識
私は、「核兵器のない世界」はもとより、武力による国際紛争解決も一切の戦力もない人類社会を実現したいと考えている。その方が、人々は幸せな人生を送ることができるからである。そして、それは決して夢物語だと思っていない。核兵器も通常兵器も人間が作るものだし、戦争は人間の営みだからである。もちろん、一朝一夕に実現することではないけれど、必ずそういう時は来るだろうと信じている。もしそれが実現しないなら、きっと人類は、核兵器による相互の殺傷と破壊で、滅びの時を迎えているであろう。誰かが「人類は賢くないな核兵器」という川柳を詠んでいた。私は、人類はそこまで愚かではないと思いたいのである。だから、今、世界とこの国で何が起きているのかを読み解き、何をすればいいのかを考え、心ある人たちと共同したいのである。ここでは、昨年7月7日から今日までの動きを概観してみたい。
「核兵器のない世界」に向けての前進
「核兵器のない世界」への道程は、昨年7月7日の核兵器禁止条約の採択以降、今年4月27日の南北首脳会談、6月12日の米朝首脳会談などによって、間違いなく前進している。まだ、核兵器禁止条約は発効していないし、板門店はそのままだし、北朝鮮の核兵器が廃棄されたとの検証もなされていない。それがいつ実現するかについての確固とした期限が設定されているわけでもない。そして、核兵器禁止条約を敵視している大国もあれば、朝鮮半島の平和を望まない者たちもいる。しかもそういう連中ほど、政治権力、資金力、社会的影響力などを持ち合わせているのである。これからも、核兵器に依存する勢力からの抵抗は続くであろう。だから、少しの前進があったからといって、この道が平坦ではないことに変わりはない。
けれども、核兵器の製造、実験、保有、移譲、使用、使用するとの威嚇などが、全面的に禁止する条約が誕生したことや、口汚い罵り合いをしていた政治的責任者が、笑顔で握手し、朝鮮半島の平和と非核化を約束したのである。核兵器のいかなる使用も禁止され、朝鮮戦争の終結や、朝鮮半島の非核化が政治日程に上ったのである。これは画期的な変化である。
私は、昨年の7月4日、アメリカの独立記念日を祝う花火を、ニューヨークで見ていた。続いて、7月7日には、核兵器禁止条約の採択を目の当たりにしていた。けれども、このような画期が訪れていることなど全く予想していなかった。だから、私はこの間の変化に刮目に値する前進を見るのである。そして、想定される困難を言い立て、獲得された成果を評価しないことは、単に愚かというだけではなく、核兵器に依存し、武力での紛争解決を容認する勢力の一翼を形成することになる、と思うのである。私たちに求められていることは、北朝鮮の非核化が本当に行われるかどうかについて第三者的に憂慮することではなく、どうすれば実現できるのかを真剣に考え、可能な行動をすることである。なぜなら、朝鮮半島での熱い戦争が再発し、核兵器が使用されれば、私たちは当事者として関係することになるからである。当事者になるとは、朝鮮民族の相互の殺し合いに加担するだけではなく、自らが攻撃され、日本列島での朝鮮人虐殺の加害者となるという意味である。私は、そんな事態は絶対に避けたいと思っている。それらが避けられているだけでも大きな成果であろう。
成果を過小評価する勢力を乗り越えよう
南北首脳会談や米朝首脳会談の成果を限りなく無意味なものとしようとする勢力が存在する。日本政府や日米のマスコミである。ただし、日本政府は、あからさまに非難することはしない。「100パーセントともにある」トランプ大統領がしたことだからである。彼らからすれば、軍事力強化の根拠にしていた北朝鮮の脅威が消えるのは嫌だけれど、トランプ大統領の機嫌を損なうことも避けなければならないのである。だから、右往左往することになる。自らの北朝鮮外交政策を確立してこなかったつけが回っているのである。
そして、日本においては政府寄りのマスコミだけではなく朝日新聞や毎日新聞なども、米国においては反トランプのマスコミが、米朝首脳会談の成果を評価せず、両首脳の「属人的要素」(独裁者・不動産屋という資質や経歴)を言い立て、その成果が水泡に帰するのを待っているかのようである。なぜ、彼らが、かくも懐疑的な態度をとるかといえば、日本のマスコミは、北朝鮮を敵視し憎悪を掻き立てる政策をとる政府批判の視点が弱かったし、自らも北朝鮮の体制を嫌っていたからであろう。そして、米国のマスコミの論調には、とにかくトランプ嫌いという姿勢が反映しているのであろう。
私には、これらの態度はいかにも無責任で好戦的な姿勢と映るのである。
日本反核法律家協会は、この会談と声明を評価し、朝鮮半島の非核化から北東アジア非核兵器地帯、「核兵器のない世界」を展望するとの見解を表明している。最近では、原水爆禁止世界大会でも同様の決議が発せられているが、まだ世間の大勢にはなっていないようである。北朝鮮は怖いし信用できないとのすり込みの影響は依然として残っているのである。
トランプ大統領と金委員長の性格や主観的思惑にかかわらず、朝鮮半島の問題解決策として、武力の行使など論外であり、平和的な対話と合意しか方法がないことを市民社会で共有しなければならない。
安倍改憲の動き
少し話題を変えよう。安部首相は改憲への執念を放棄していない。自民党は、9条1項と2項はそのままにして、自衛隊の存在を憲法に書き込もうとしている。早ければ、この秋の臨時国会で頭出しをし、次期通常国会の早い時期に、改憲発議を狙っている。その動機は、米軍とともに、世界の各地で武力の行使ができる自衛隊にしたいということである。安部首相はその野望を「積極的平和主義」と命名している。彼が狙っているのは、自衛隊の存在の合憲化ではない。自衛隊は海外での全面的活動の容認と軍事力を前提とする国内体制の確立である。何も変わらないというのは嘘である。
ところで、解釈改憲によって、自衛隊が設置され、その活動範囲が拡大されていることは事実である。けれども、自衛隊が、例えば米軍やロシア軍のような軍事行動が海外でできるかといえばそうではない。9条が制約しているからである。もし、9条が空洞化し、死文化しているのであれば、改憲論者たちは、あえて改憲手続きなどという危険な賭けに出る必要はない。憲法9条が生きているからこそ、改憲論者は「手を変え品を変え」その抹殺を企むのである。そこを忘れてはならない。
そもそも、軍隊の存在とその任務をめぐる対立は、現憲法が制定されたときから続いている。少し整理しておこう。自衛隊の存在そのものが憲法違反であると考える説(A説)がある。この説を徹底すれば、戦力がないのだから、武力を用いての自衛戦争も不可能になる。憲法の文言はそうなっている。私はこの論者である。次に、自衛隊の存在は合憲であるが、海外で活動は制約されているという説(B説)がある。個別的自衛権の行使としての武力の行使は認めるが、集団的自衛権は認められないとする説である。元々の政府見解である。安保法制に反対する運動は、このラインでのたたかいであった。そして、現在、政府は自衛隊の合憲は当然のこととして、個別的自衛権の行使にとどまらず、日本が攻撃されていない場合でも、例外的に自衛権を行使できるとしている(C説)。安保法制の考え方である。更に、そんな考えは生ぬるいので、憲法を改正して国防軍を編成し、国際の安定と平和のために軍事力行使を認めようというのが自民党の改憲草案(D説)がある。それぞれの説に亜流がないわけではないが、大きく分ければこのように理解していいだろう。
各意見の共通項と違い
A説とB説は自衛隊の任務の拡大について、すなわち、現憲法下での集団的自衛権は反対ということでは共同しできたけれど、自衛隊が憲法に違反しているかどうかや個別的自衛権としての武力の行使についての共通の理解があるわけではない。この違いは、戦力を持つのかどうか、それを限定的とはいえ使用するのかについての違いであるから本質的違いであろう。むしろ、戦力の保持を認めるということでは、B説とC説やD説は共通しているのである。
そして、B説の中には、現行憲法は集団的自衛権行使を否定しているけれど、憲法を変えればその行使も可能であるとしている人もいる。それは、憲法改正の限界を超えるものではないし、国民投票に委ねられるという考え方である。この論者は、違憲の法律の制定には反対するが、改憲には反対しないのである。その選択が憲法改定権力としての国民の意思であればやむを得ないと考えるからである。
安保法制反対で共同した勢力が、改憲のための国民投票で共同するうえでの、最大の困難がここにあるといえよう。戦力を保持することに賛成し、その使用の範囲を多数決原理に委ねてしまうことを容認する人たちと、戦力の不保持を選択する人々の共同の論理をどう構築するかという課題である。そもそも、そんなことができるのだろうか。他方、それができないとA説の人だけが単独で改憲阻止闘争に挑むことになる。それでは9条は改定されることになる可能性が高くなるであろう。
そこでどうするかである。私は、この自衛隊は合憲だけれども集団的自衛権の行使や海外派遣に反対としている人たちだけではなく、軍事力の保有とその行使を積極的に主張する人たちも含めて、国際紛争を武力で解決することの危険性を説いていくことが必要だと考えている。軍事力の保持を認めるということでは、B・C・D共通だから、B説を特別扱いしないということである。
元々、9条改憲の争点は、軍事力の保持とその行使という根本的問題である。日本国憲法は大日本帝国の所業についての反省と核のホロコーストの下で誕生したことを想起して欲しい。侵略戦争と植民地支配についての反省と核の時代における武力の行使という、過去と未来を見据えた上での到達点が日本国憲法9条なのである。だから、日本の改憲問題は、日本だけの問題だけではなく、北東アジアの安定と平和、ひいては人類社会の将来に係る事柄なのである。
私は、その中でも、核のホロコーストに着目しておきたい。今年は73回目の原爆忌である。私たちは、原爆が広島と長崎に何をもたらしたのかを知っている。世界の核実験ヒバクシャの実情も核兵器使用についてのシミュレーションも学んでいる。核兵器禁止条約は、核兵器使用がもたらす「壊滅的な人道上の結末」をキーワードの一つにしている。核兵器の使用が、人類の滅亡をもたらすことは荒唐無稽な脅迫ではないのである。
1946年8月の制憲議会において、幣原喜重郎は「核の時代にあっては、戦争が文明を滅ぼすことになる」ので、武力での問題解決をしてはならないとしていた。そして、武力での紛争解決が禁止されるのであれば、戦力は不要であると喝破し、一切の戦力の放棄を推進したのである。そして、当時の政府はそのことを誇らしげに国民に啓蒙していたのである。
今、世界には14550発の核兵器があるとされている。「核の時代」は続いており、「終末時計」は2分前を指しているという。人類は滅亡の淵にいるのかもしれないのである。
武力で物事を解決しようとすれば、核兵器は防御不能であるがゆえに「最終兵器」となる。だから、核兵器国は手放そうとしないし、他国には持たせようとしない。
結局、武力で国際紛争を解決しようとすれば、核兵器に依存することになるのである。そして、仮に、平時において核兵器使用の禁止が約束されていたとしても、戦時になれば、その約束は反故にされるであろう。
こうして、核の時代にあって、武力で紛争解決をしようとすれば、核戦争を招来し、人類社会の破滅をもたらすことになるのである。その破滅を避けたいのであれば、核兵器の使用を禁止しなければならないのだけれど、武力での紛争解決が容認される限り、核兵器への依存は続くであろう。そのことは現実の世界が証明している。
その世界を転換するために核兵器禁止条約が採択されたのである。「壊滅的人道上の結末」を避けるために、いかなる場合でも核兵器の使用を禁止し、そのための抜本的な方策として、核兵器の開発、実験、保有、移譲までも禁止しているのである。
残る問題は、核兵器を使用しなければ、武力の行使で紛争を解決することを認めるのかということである。武力での問題解決が許容される限り、最終兵器である核兵器は有効であるから、核兵器禁止条約があっても、誰かが核兵器を作るであろう。それを避けるためには、武力の行使による紛争解決を不可能にするために一切の戦力を禁止することであろう。
それが、日本国憲法が到達している地平である。私は、武力の行使のみならず、一切の戦力の不保持を規定する日本国憲法こそが、「壊滅的人道上の結末」を避けるための最も強固な歯止めであることを強調したいのである。核兵器のない世界の実現と憲法9条の世界化は密接に連結しているのである。
核兵器の廃絶については、核兵器禁止条約採択や米朝首脳会談で、曙光が見えたといえよう。けれども日本政府は背を向け続けている。そして、自民党は9条の改悪を目論んでいる。
ヒバクシャ国際署名と安倍改憲阻止3000万人署名の双方が推進されなければならない理由である。