はじめに
憲法改正は国民投票で投票総数の2分の1以上の賛成で成立する。賛成派はあらゆる手段をとるであろう。もちろん、反対派も負けるわけにもいかないから、国論を2分する激しい国民投票運動が展開されることになる。国民投票は改正案が発議されてから60日から180日の間に行われるので、最大180日ということになる。この間、賛成・反対各派は、それぞれ知恵を絞った運動を展開することになる。ところが、投票日の14日前から投票日までの間は、放送事業者の放送設備を使用しての国民投票運動は禁止されるのである。運動する側からいえば、投票日の14日前からという最も大事な時期に、テレビやラジオでのCM(有料広告放送)は禁止されるのである。その理由は、特にテレビCMについては、洗脳とはいわないまでも、国民の感情に訴え、キャッチフレーズを多用して強い印象付けをするという基本的性格があるので、一定の規制が必要であるということにある。確かに、テレビCMの影響力は無視できないので、何らかの規制が必要であるといえよう。けれども、この措置に問題がないわけではない。そもそも、そういう規制が表現の自由や言論の自由との関係で許されるのかということと、逆にその影響は14日前からだけにとどまらないだろうという問題である。現行法は、それらの問題を内包しつつも、14日前からだけ規制することになっているのである。そして、その裏返しとして、14日よりも前は規制されておらず、テレビやラジオのCMは自由ということになっているのである。
問題の所在
こうして問題は、その最短46日、最大166日の間、有料広告放送に対する規制が必要かどうかということになる。規制は不要という説、規制すべきという説、民放各社の自主規制に任せるという説などがある。自民党は、放送法の範囲内でやればいいことで、言論の自由を制約する規制はかけられないとしている。立憲民主党は、無規制はまずいとして改憲論議の前に規制方法についての議論をすべきだとしている。なお、かつての民主党は有料広告放送を全面禁止するとしていた。そして、日本民間放送連盟(民放連)は表現の自由を放送事業者の自主規制するのは避けるべきだとして、自主規制を拒否している。
日本弁護士連合会(日弁連)は規制を必要としている。その理由は、有料広告放送は表現の自由という優越的地位を有する人権として尊重されなければならないが、電波は有限であり誰でも使えるわけではなく、利用するには多大な費用を要し公平な手段とは言えないので、有料広告放送をすべて自由市場に委ねた場合には、実質的不平等・不公平をもたらすことになるので規制が必要だということである。機会の不平等を理由として自由を制約する、利用できない「弱者」がいるので、利用できる「強者」の自由を制約するという論理である。所有権絶対、契約自由、そして過失責任という資本主義の下での大原則に修正を加えてきた近現代の法制史と通底しているといえよう。
規制がない場合、どのような事態が想定されるか
安倍政治の特徴は憲法無視と行政の私物化である。その手法は、単なる強引にとどまらないで、隠蔽・改竄・捏造にまで及んでいる。自民党総裁選の対立候補は「正直と公平」をスローガンとし、国民の多くは安倍首相の人柄が信じられないとしているところでもある。そもそも、自民党の改憲案は天賦人権思想を認めず、9条2項の平和主義はユートピア思想だとしている。そこにあるのは個人の価値を国家の下に置き、軍事力によらない平和や安全など不可能としている発想である。日本国憲法の基礎にある価値と論理に対する正面からの対抗である。そして、忘れてならないのは、安倍首相の盟友である麻生太郎副首相は「ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」などとナチスの手口を信奉していることである。
こういう彼らが、資金力をバックに、我田引水的な宣伝作戦を展開することは容易に想定できるところである。そして、民放や電通などが、そのビジネスチャンスを見逃すはずがないであろう。こうして、自衛隊賛美と安全保障環境の悪化を理由とする軍事力強化、米軍との共同行動の必要性が、手を変え品を変え、「改憲しても何も変わらない」という嘘とないまぜになって、人々の前に垂れ流しされることになる。そして、自民党とそれに同調する勢力は「支持上げるちょろいもんだぜ民なんて」(万能川柳)とほくそ笑むであろう。
ゲッペルスと自民党の共通性
パウル・ヨーゼフ・ゲッペルスは、ヒットラー率いるナチスの政権掌握とその維持に辣腕を発揮した人物である。「プロパガンダの天才」と言われ、宣伝全国指導者、国民啓蒙・宣伝大臣などを務めている。「嘘も百回言えば本当になる」と言ったとされている(異論はあるが)。
彼は、ナチスが初めて第1党として選挙に臨んだ1933年2月3日の日記に「我々は国家組織を動員できるようになったので運動は容易である。新聞とラジオは意のままである。我々は政治宣伝の傑作を作るつもりだ。金は有り余っている」と書いている。安倍首相のマスコミ各社幹部との会食や自民党に交付される政党助成金の額からすれば、何とも、現在の日本と似ているようである。
更に、ゲッペルスは、同年5月、図書館から書物を押収して焼き払っている。焚書である。反ナチの本にとどまらず、マルクスやフロイト、ハイネなどの本も焼かれたという。その時、彼は「今や学問は栄え、精神は目覚めつつある。この灰の中から新しい精神が不死鳥のように舞い上がるであろう」と演説している。今、日本では「梅雨空に9条守れの女性デモ」という句が公民館報に掲載されないという不寛容がはびこっている。焚書される以前に活字にもならないという状況がそこにある。
ゲッペルスにとって、政治宣伝は何の制約もかかっていないだけではなく、有り余る資金があったのである。その状況は今の自民党にとっても同様である。彼らの政治宣伝には何の制約もないのである。一市民の思いのたけの句が日の目見ないこととの非対称性は明らかである。
小括
私は問いたい。自民党の野放図な政治宣伝を表現の自由とか言論の自由とかいう美しい言葉で擁護していいのか。規制をいわないことは、ゲッペルスのプロパガンダの自由を認めることと同義ではないのか。そして、一市民の想いを掲載することもできない公民館報でいいのか。もっと自由な言論空間、表現の場を確保するためにこそ、これらの自由は語られるべきではないのかと。
そもそも、言論の自由や表現の自由は、抑圧された人々が「奴隷の言葉」で語らなくてもいいように、そして、その言動によって生きたまま埋められてしまう(坑儒)などということがないように、支配者に抵抗する先人たちの命をかけた戦いによって確立されてきたものである。だとすれば、権力者やその追随者の言い立てる表現の自由などというのは、金にものを言わせて、自分たちの支配を永続させたいだけの醜悪な呪文でしかないのである。
今、私たちに最低限求められていることは、表現の自由や言論の自由の意味をはき違えないことと、たとえ間接的あるいは消極的であれ、平和と自由を制約する安倍流改憲という政治戦略の協力者にならないことである。憲法が保障する自由と権利は、私たちの不断の努力によってのみ、保持されることを肝に銘じなければならない。