はじめに 問題の所在
憲法9条の改定が提案されている。9条2項を廃止して国防軍を持つという案(自民党改憲草案)、9条1項・2項はそのままに自衛隊を憲法に書き込む案(安倍改憲案)などが公表されている。その他にも「立憲的改憲」とか「改憲的護憲」とか「新9条」などが言われているが、結局のところ、日本が正式な軍隊を持つことを前提に、それをどのように活用するかというレベルでの見解の相違である。ここでは、あれこれの改憲案を紹介するのではなく、そもそも、憲法9条を改定することはフリーハンドなのかということを考えてみたい。
それはどういうことかというと、そもそも、憲法9条改定に賛成か反対かということは、安全保障や国防に関する政治的意見が違うだけの話であって、各人の完全に自由な選択に委ねられているのだから「法的限界」などないと考えるのか、それとも、9条改定には「法的限界」があり、その限界を超えることは許されないので、完全に自由ではない、と考えるのかという問題である。それはまた、改憲は国民投票という多数決原理だけではなく、裁判所での法的判断が必要となる場合があるかどうかという問題でもある。
9条改定の限界についての議論状況
新版「体系憲法事典」(2008年・青林書院、以下「事典」)は、憲法改正の限界について、憲法改正限界説が支配的であるが、何をもって限界とするかは、国民主権主義と人権尊重の原理に限定する説と平和主義を加える説(多数説)に分かれ、またその説も9条2項の改正により戦力を保持することができるという説(多数説)と許されないとする説(少数説)がみられる、としている。そして、「事典」は「憲法9条2項は自衛のための戦力の保持を禁止していないと解釈することは、憲法規範の重要な変更として許されないが、憲法改正手続きに従い、主権者たる国民の決定によって行われなければならない」としているので、解釈で戦力を持つことはダメだか、2項の改定は可能であるとしているのである。
註解日本國憲法上(1953年・有斐閣、以下、「註解」)は、9条の平和主義の改正について、憲法改正無限界説には賛成しえない。1項を改正して侵略戦争を認めることは法的に不可能である。2項を改正することは不可能とする説(少数説)と可能とする説(多数説)があるが、後者が正当としている。2項を改正することは可能であるという見解である。
これらから見て取れることは、平和主義の改定について限界があるとする人が多いこと、9条1項の改定は限界を超えるけれど、2項の改定は限界を超えないと考える人が多いことなどである。
この見解は憲法学者の中で多数派だとされている。9条2項を改定して国防軍を持つことは、それが憲法改定権者である国民の選択として民主的になされたのであるから、憲法上の問題はないというのである。安保法制は9条違反であり、立憲主義に違反だとする人たちの中にも、2項を改定するのであれば、違憲状態は解消されると考える人たちはいる。これらの論者は、9条2項の戦力不保持、交戦権否認の非軍事平和規範は、国民投票という多数決原理で改定できると理解しているのである。本当にそれでいいのか。単に戦争の放棄だけではなく、戦力を持たない、交戦権も否定するとした徹底した非軍事平和規範を衆参各院の3分の2、国民投票の過半数で投げ捨ててしまっていいのか。そこに「法的限界」がないのか、という疑問がわいてくる。
そこでここでは、9条2項改定についての「註解」の記述を手掛かりに、この問題について検討してみたい。
「註解」の見解
「註解」は、「軍備の全廃と戦争の全面的放棄とは、この憲法の特色をなすものであり、世界的に承認された侵略戦争の否定を宣言する第1項よりもこの第2項に憲法の重心があるともいえる。従って、前文とあいまって、これを改正することは憲法の基本原理に反することになって許されない、とする考え方にも、相当の根拠がある。しかし、実質的に見れば、軍備を持つことや、自衛や制裁の戦争を行うことは、国際法上違法な行為ではない。むしろ自衛戦争は正当防衛的な国家の基本権であり、制裁戦争は平和維持のための国際的義務であるということもできる。そして、そのために軍備を持つことも、今日の国際情勢の下では独立国として必要なことだという見解も成り立ちうる。第1項は平和主義の本質をなすのに対して、第2項はそれを実現する予防的措置とみることができよう。従って、2項を改正することは、自然法ともいうべき法の基本的原理に反するものではない。」としている。2項の改定は「憲法の基本原理」に反するという見解にも相当な根拠があるとしながら、結局は「基本原理」に反するものではないとしているのである。もう少し、「註解」の不可能説に対する批判を見てみよう。
9条2項改定不可能説に対する「註解」の批判
「註解」は、2項改定不可能説をいくつか紹介している。A説:戦争の絶対的放棄と武装の完全な放棄とは憲法の平和的条項の基本的要素であり、その改正は不能だ。B説:現在のような国際的対立(冷戦)のもとでの再軍備は戦争の危機を激化し平和憲法の根本的精神に反する。C説:再軍備を認めることは憲法の改悪であり、改悪を許さないというのはすべての法改正についての唯一至上の法的限界である。D説:恒久平和の原則に逆行する改正は不可であるし、再軍備はその逆行の疑義がある、などである。
その上で、「注解」はA説を正統的と評価している。「註解」も「軍備の全廃と戦争の全面的放棄とは、この憲法の特色」としているのだから当然であろう。そして、C説については、何が「改悪」なのかは各人の主観的判断によるのだから、再軍備を「改悪」としてそのための改正を許さないとするのは一つの独断にすぎないとしている。
「注解」は、戦争の放棄と武装の完全放棄とを「憲法の特色」とし、2項を「憲法の重心」としながら、再軍備を「改悪」とするのは独断であるとして、結局、再軍備につながる9条2項の改定に法的限界はないとして不可能説を排除しているのである。
「註解」の論理の特徴
ここで確認しておきたいことは、第一に、「註解」は戦争の放棄(1項)と武装の完全放棄(2項)とを「憲法の基本原理」とすることに相当な根拠があるとしていることである。そして二つには、「改悪を許さないということは唯一至上の法的限界」という原則を否定していないことである。要するに、「註解」は憲法改正の限界の存在は認めつつ、再軍備は改悪ではないので限界の範囲内であるとしているのである。この結論は、2項を改廃して再軍備しても憲法の平和主義は維持されているという主張である。こうして、「註解」は「軍備の全廃と戦争の全面的放棄とは憲法の特色」という自らの見解を投げ捨て、「憲法の重心」である軍備の全廃を否定するのである。
戦争の全面的放棄のために、軍備の全廃が最も効果的かつ最終的な手段であることは明らかである。「註解」も2項は「平和主義の本質を実現する予防手段」という言い方でそれを認めている。9条の1項と2項はそのような不可分な構造となっているのである。だから、2項を改廃して軍備の全廃を放棄することは、その構造の解体を意味している。「註解」が、「憲法の特色」や「憲法の重心」をいうのであれば、2項の改定は不可能としたほうが、よほど論理的なのである。
けれども、「註解」は2項の改定は「自然法ともいうべき法の基本的原理に反する」ものではないとして、その論理を採用しなかったのである。ここに「註解」の特徴がある。
「註解」の混乱
「註解」は2項について「自然法ともいうべき法の基本原則ではない」としている。確かに、2項が規定する軍備の全廃は自然法ではない。そもそも2項は自然法とは関係のない規範であって「註解」が自然法を引き合いに出すことが間違いなのである。
他方、戦争の全面的廃棄のためには、軍備の廃棄が最善策であることはほとんど自明である。武器もなく兵隊もいない戦争などありえないからである。「註解」も軍備の廃絶は平和主義の本質を実現するための予防手段であるとしているところである。2項を「憲法の重心」としている「註解」の立場からして、2項を憲法の基本的原理と解して何ら不思議はないのである。けれども「註解」は自然法を持ち出して基本原理であることを希釈しているのである。このような論法は、自然法にとっても2項にとっても不本意であろう。
このようにして、「註解」は2項が定める軍備の全廃は平和主義を実現する予防手段であるとしながら、再軍備しても平和主義を実現できるかのような主張をしているのである。これは支離滅裂な混乱である。
「註解」の混乱の原因と誤り
「註解」がそのような事態に陥ったのは、憲法9条1項が放棄したのは侵略戦争だけで、自衛戦争は国家の基本権であり、制裁戦争は国際的義務だとしてしまったからである。自衛戦争や制裁戦争を認めれば、そのための武力=戦力の保持は不可欠となる。武力を用いない戦争などというのはありえないからである。結局、「註解」は権利や義務の実現のための武力を承認しているのである。
「註解」は、戦争が殺傷力と破壊力の行使であり、とりわけ「核の時代」における戦争が未曽有の無差別・大量かつ残虐な結末をもたらすことや、米国から見れば対日戦争は自衛戦争であり、制裁戦争であったことを忘却しているのである。更に、日本帝国の仕掛けた戦争が「自存自衛のため」とされていたことまで無視しているのである。
原爆投下を命令したトルーマン米国大統領は「パールバーバーにおいて空から戦争を開始した日本」、「極東に戦争をもたらした日本」に対して原爆を投下したとしている(原爆投下についてのトルーマン大統領声明・日本被団協50年史別巻)。トルーマンは対日戦争を自衛戦争や制裁戦争と位置付けながら、広島と長崎にカタストロフィーをもたらしたのである。このことは、自衛戦争であれ制裁戦争であれ、戦争は「壊滅的な人道上の結末」(核兵器禁止条約)をもたらすことを示している。「8月6日(広島)と8月9日(長崎)という日付を挟んだ後の1946年日本国憲法にとっては、「正しい戦争」を遂行する武力によって確保される平和、という考え方をもはや受け入れることはできなくなった」(樋口陽一)という意見を想起しておきたい。
「註解」は「世界的に承認された侵略戦争の否定」は視野に置いたけれど、ヒロシマ・ナガサキは無視しているのである。それは、「国家の基本権」としての自衛戦争あるいは「国際的義務の履行」としての制裁戦争による「人道上の壊滅的結末」の容認を意味しているといえよう。それらの戦争に勝利するためには、防御手段のない「最終兵器」である核兵器に依存することになるからである。9条2項は「人道上の壊滅的結末」、換言すれば「戦争が文明を滅ぼす事態」(幣原喜重郎)を避けるための知恵である。「註解」は、9条2項を「憲法の重心」などといいながら、それを投げ捨ててしまうという誤りを犯し、9条の平和主義を中途半端な似非平和主義に貶めているのである。私たちは「註解」の限界を乗り越えなければならない。
小括
「註解」も戦争放棄を定める1項の改定は不可能としている。だとすれば、2項を切り離すことは不徹底であろう。1項の実現のために、陸海空その他の戦力を放棄し、交戦権を否認する以上の方法・手段はないからである。「註解」は、9条の構造を無視して、9条の平和主義に片肺飛行を強いようというのである。再軍備は、平和主義の明らかな「逆行」である。これを「改悪」ではないというのは詭弁である。
こうして見てくると、9条2項の改定は法的限界があるので不可能だという説に対する「註解」の批判にはまったく説得力がないことがよく判る。逆に、9条2項改定不可能説の論理性と正当性を浮かび上がってくるのである。
私は、この9条2項改定不可能論を支持するし、もっと深く学びたいと考えている。
なぜなら、9条の戦争放棄、戦力放棄、交戦権否認の平和主義が改変されてしまうことは、「核を発明してしまった人類社会」にとって危険で大きな後退だと思うからである。もし、核戦争によって文明が消滅するようなことになれば、国民主権や立憲主義も無意味になるであろう。「核の時代」においては、9条2項の非軍事平和主義が、最も優先されるべき憲法思想であり、且つ、最も現実的な安全装置なのである。