はじめに
樋口英明元裁判官は、大飯原発訴訟で「多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題とを並べた議論の当否を判断すること自体、法的には許されない」などとして差止の判断をした人である。その樋口さんが、日本民主法律家協会の司法制度研究会で、「大飯原発差止訴訟から考える司法の役割と裁判官の責任」と題する問題提起をしている(「法と民主主義」534号)。私は、この問題提起に接して、改めて原発は本当に怖いものなのだと確認することができた。
樋口さんは、差止を認めるかどうかは、原発を危険と思うかどうかだという。樋口さんは「心底、危険で怖いと思う」、「ほかの裁判官がなぜ止めないのか、私にはほとんど理解できない」としている。
樋口さんが怖いと思う理由
樋口さんは二つの危険性を指摘する。一つは、被害の大きさであり、もう一つは事故発生の確率である。
福島原発事故は、10万人を超える人々の生活を奪う被害を出しているけれど、場合によっては、3千万人を超え、東日本壊滅という事態を引き起こしたかもしれないという。そうならなかったのは、4号機の使用済み核燃料を冷却する水があったこと、2号機で圧力破壊が起きなかったことなどの僥倖があったからだという。当時、4号機からの放射能漏れによって半径250キロ圏内が避難区域になる可能性や、2号機の圧力破壊による東日本壊滅が想定されていたことなども紹介されている。
そして、樋口さんは、被害の大きさと発生確率はおおむね反比例するといわれるが、原発には通用しないという。地震の際に、原発は止める、冷やす、閉じ込めるという3原則で安全性を確保している。そのためには極めて高い耐震性が要求される。その耐震性を決定するのが基準地震動(単位はガル)である。日本での最大の地震動は4022ガルであり、ハウスメーカーはこれに耐えうるように住宅を建設しているという。日本が地震国(世界で起きる地震の1割以上が日本)であるから当然の対処方法であろう。ところが大飯原発は稼働中の現在も856ガル仕様だというのである。しかも住宅メーカーの耐震ガル数は実験を重ねているけれど、原発はそれをしていないというのである。こういう状況は、事故発生確率を高めることになるであろう。こうして、原発事故は、被害も甚大、発生確率も高いことになるというのである。
なぜそのようなことになっているかというと、電力会社は地震の強さの上限が分かるそうなのだ。それが強振動予測といわれるもので、それに基づいて原発の基準地震動が決められるのだという。地震予知に成功していない地震学において、なぜ、強振動予測ができるのか、なぜそれを原発にだけストレートに結びつけるのかという疑問が提示されている。樋口さんは「なにゆえに一般建物には適用されない強振動予測を原発にだけ適用するのか」、「最低でも、一般建物並みの耐震設計を原発でもやってくれ」としている。私は、不覚にも、原発がその程度の耐震設計であることを理解していなかった。いくら何でも住宅の耐震設計より低レベルなどとは想定していなかったのである。樋口さんが「これらの事実を知れば知るほど怖くて、原発を止めるのに何の迷いもありませんでした」というのはそのとおりだと思う。
何故ほかの裁判官は差し止めを認めないのか
そうすると、何で他の裁判官は差止を認めないのかという疑問が湧いてくる。樋口さんは「私にはほとんど理解できない」としつつ、次のような推測をしている。一つは伊方最高裁判決の魔法であり、もう一つは頑迷な先例主義だという。
伊方最高裁判決の魔法とは、その判決が「高度の専門技術性を帯びる」と言っているので、裁判官も代理人もそうだと思ってしまうことをいう。その魔法にかかった裁判官は「自分には難しい。規制委員会の専門技術的問題だ。規制委員会の言うとおりでいいのではないか」と考えてしまうのだという。
樋口さんは、地震の時に何が起きるかの判断に求められるのは専門技術的な知識よりもリアルな想像力だという。自動車工学を知らなくても交通事故の裁判ができるのと似ているというのである。「理性と良識があれば簡単に答えが出せる」というのが樋口さんの確信である。
もう一つの頑迷な先例主義というのは、多くの裁判官が自分の頭で考える前に先例を調べることを意味している。その習癖は恐ろしいくらいだという。それが、樋口さんの判断方式は異端だとされる原因だという。樋口さんは、一番大事なことは放射性物質が拡散して、原告らの住居地に到来するかどうかだとしている。また、正当な手続きを踏んでいるかどうかではなく、規制基準が国民の安全を確保する内容となっているかどうかであるともいう。3・11以後においても、規制基準とのつじつまが合っているかどうかに焦点を当てているのは、正統と異端を逆転するものだと批判している。そして、そのような判断様式は、原発の危険性に目を向けないことになるというのである。
樋口さんは、伊方最高裁判決について「規制基準が真に国民の安全を確保する内容となっているかを裁判所が確認しなさい。それが確認できなければ住民が勝つのだ」といっていると解釈している。せめて、3・11以後はそう読み替えるべきだし、それが法律学の進歩だともいう。3・11以前と以後とで、この国の原発を巡る状況は大きく変わったとする認識がそこにある。私は、その樋口さんの認識に共感を覚えている。
おわりに
樋口さんは質問に答えていくつかの見解を述べている。①火山の大規模な活動など国民が怖がっていないのが「社会通念」だ。だから稼働を認めるなどという論法はけしからん。②憲法の理念は何か、裁判官の独立とは何か、国民主権とは、民主主義とは何かなどと、学生時代に習ったことにさかのぼって考えれば、自ずから正当な答えは出てくる。③福井地裁から名古屋家裁に転勤になったことは左遷という人もいるけれど、私はそうは思っていない。ただし、非常に巧妙な人事かもしれない。④私より能力も志も高い人が沢山辞めた。私はその人たちに恥ずかしくない仕事をと考えてきた。原発を差止ない判断などはできない。また、追加発言では、検事だった人が裁判長席に座っているような国民がびっくりすることは止めるべきだともしている。
こういう裁判官がいたことはうれしいことだけれど、異端視されたり、巧妙な人事に晒されていることは「ヤッパリネ」というよりも、この国の行く末が心配になってしまう。原発も本当に怖いけれど、裁判所も怖くなってしまうからである。樋口さんは2017年8月に定年を迎えたようであるが、まだまだ先は長い。私たちに多くの知恵と勇気を提供して欲しいて思う。