今、思うこと
私は、核兵器も戦争もない世界にしたいと思っているので、その気持ちをいろいろな人に伝えることにしている。先日も「核持って絶滅危惧種仲間入り」という雑文を学生時代のバトミントン部の友人たちに発信した。そうしたら、当時からの親友で、今もときどき私の健康状態を心配してくれている中小企業の社長から電話があった。「大久保。核兵器廃絶どころじゃないよ。会社が危ないよ。中国から部品が入ってこないから、製品が納められないんだよ」というのである。彼は笑いながら話していたけれど、深刻な問題であることは、もちろん理解できる。核兵器なんか無いほうがいいに決まっているけれど、それどころじゃないというのは本当にそのとおりだと思う。新型コロナウィルス・クライシスは、あたかも、人類社会の終焉かのような報道が行われている。人類はその全英知を振り絞って対応する必要がある。ウィルスなんかに負けるわけにはいかないのだ。
私はそれなりの時間生きてきたからあきらめられるとしても、まだまだこれからの人たちから生存の基礎を奪うことなどできない。そのために、自分にできることはしたいと思う。私にはウィルスへの対抗策を考える能力はない。せめて手洗いとうがいをするくらいである。けれども、何かできることがないかと考えてしまうのだ。そこで思いつくのが、今、非力なりにやろうとしている核兵器も戦争もない世界を作るための工夫をするということである。
小惑星の地球への衝突や超巨大地震や津波が日本を襲うことを止めることはできないかもしれないけれど、せめて、核兵器や戦争などはなくして、新型ウィルスや気候変動や著しい格差などの本当のクライシスに備えなければならないだろう。核軍拡競争に大金を使ったり、無益な殺し合いをしている場合ではないと心の底から思うのである。そして、それは、核兵器や戦争は人間の営みであるから、なくすことは可能なのである。
絶滅危惧種という指摘
私の好きな「核持って絶滅危惧種仲間入り」という川柳は、2019年の作品である。ところが、もっと前に、人類が絶滅危惧種になったという表現をしていた人がいたのである。ドイツの哲学者ギュンター・アンダース(1902年~1992年)という人が、1960年に、われわれは「死を免れぬ種族=人類という状態から、『絶滅危惧種』の状態へと移ってしまった」と指摘していたのである。彼が、そのような指摘をする理由は、人間が核兵器を持ち、それを使用したからである。彼の主張を私なりに理解すると、核兵器が使用されれば、すべての人が同じように悲惨な目にあう可能性がある。これはもちろん途方もない悲劇である。けれども、更なる悲劇は、(ほとんど)すべての人が同じように核のもたらす悲劇を気にしておらず、大半の人々は全く気が付いていないことだ。なぜ、そうなってしまうかというと、私には関係ないことだと思っているからである。その発想は、われわれが脅かされている危険は、私を個人的に脅かしているのものではない。したがって、その脅威は個人的には誰も脅かしていない。だから、それは私には個人的には関係がない。よって、そのために私が個人的に不安を感じたり憤慨する必要はない、というものである。これは「われわれ」は「私」だけではない。したがって、「私個人のことではない」という論理の応用編である、というのである。
これは、確かに深刻な指摘である。客観的に存在している危険性(この危険性は核兵器を開発した科学者も指摘していたし、現代の科学者も終末迄残り100秒と指摘している)があるにもかかわらず、それを認識していないのだから、お気楽と言えばお気楽であることは間違いない。そして、ギュンターは言う。放射線を浴びない展望台があれば、そこから傍観者として手を汚さず眺めていればいいかもしれないけれど、そんな場所はない。にもかかわらず、人は「そのときには皆一緒にくたばるわけだ」とつぶやいて、危険があることを否定しないが、抵抗もしないのである、と。
ギュンターは、1945年8月の広島以降、「現代の平和」が消滅するだけではなく、戦争が起こり平和の時代があった「人類の時代」も消滅する時代に入ったことを警告し、その事態を乗り越えるための提案をしているのである(ギュンター・アンダース著・青木隆嘉訳『核の脅威―原子力時代についての徹底的考察』・法政大学出版局・2016年)。
一緒にくたばるのは嫌だ
今、世界には1万4千発弱の核兵器がある。それが意図的であるか事故や過失であるかを問わず、使用されれば「壊滅的人道上の結末」が人類社会を襲うことになる。それは、みんな一緒にくたばることを意味している。ギュンターの警告はまだ意味を持っているのである。けれども、事態が改善されていないわけでもない。人類は「核兵器禁止条約」を作り、そんな事態を避けようとしているところである。しかし、他方では、そんなことはさせないと抵抗している核兵器保有国や日本政府がある。そして、「そのときには皆一緒にくたばるわけだ」とつぶやいて、危険があることを否定しないが、抵抗もしない人もいることは間違いない。
自分の人生を、誰かの道具としてだけではなく、主体的に生きたいと考える人は、そういう人たちに働きかけ、共同しなければ、核の力で人を支配しようとする勢力に打ち勝つことはできないのである。
そのために求められていることは、核兵器が人類に何をもたらすのかという事実の確認と、それはなくさなければならないという意思の形成と、それはなくすことができるという確信に基づいて、愚直に、核での支配をもくろむ勢力とたたかい続けることである。
被爆者はその営みを続けてきた。私たちは、それを継承しなければならない。それを怠った時、みな一緒に滅亡の淵に投げ込まれるからである。(2020年3月18日記)