はじめに
クリントン政権時代の国防長官だったウィリアム・ぺリー氏(1927年生)が、『核のボタン』という本を書いている(トム・コリーナとの共著、田井中雅人訳。朝日新聞出版社)。「新たな核開発競争とトルーマンからトランプまでの大統領権力」というサブタイトルがついている。帯には、「冷戦終結から30年、今なお、核による破滅のリスクがのしかかっている。奈落の底を見たペリー元国防長官、警告の書」とある。
この本で、ペリー氏たちは、ロシアが意図的に米国に核攻撃を仕掛ける脅威はほとんどないが、米国が誤って核戦争を始めてしまうリスクの方が高いので、米国の核政策は転換されるべきだとして10項目の提案をしている。また、日本政府にも米国の核兵器に依存するなという提案をしている。核兵器禁止条約に賛同する形での核兵器廃絶論ではないけれど、傾聴に値する提案が含まれているので、概略を紹介し、若干のコメントを試みたい。(文中敬称略)
米国政府への10項目の提案
10項目の提案を箇条書き的に紹介する。
①大統領の核の専権を終わらせ、「フットボール」を退役させよ。
②警報下発射(警報即発射)を禁止せよ。
③先制使用を禁止せよ。
④すべてのICBM(大陸間弾道ミサイル)を退役させ、核兵器の再構築を縮小せよ。
⑤新START(戦略兵器削減条約)を救い、さらに踏み込め。
⑥戦略ミサイル防衛(ABM)を制限せよ。
⑦条約を待つな。
⑧北朝鮮、イランを外交的に引き込め。
⑨市民運動のテーマに核兵器を取り込め。
⑩明確な態度を持った大統領を選べ。
これらの項目を一読すれば、いかにも大胆な提案だということがわかる。現在の米国の政策に正面から異議を唱えているだけではなく、これらが実現すれば、核兵器使用の危険性は大幅に低減されるからである。この提案に反対する理由はない。速やかに実現されるべきであろう。各項目について、もう少し詳しく見てみよう。
大統領の核の専権を終わらせ、「フットボール」を退役させよう
大統領の「核の専権」というのは、「核のボタン」を押すことができるのは大統領だけだという意味である。「フットボール」というのは軍の側近が携えている鞄のことである。オバマが広島に来た時、この鞄が随行していたことを覚えている人も多いだろう。この中には、核攻撃オプションのメニューや、認証コード入りのカード、防護電話が入っている(ボタンではないようである)。コードは「ビスケット」と呼ばれる特別なカードに印刷されていて、大統領が常時携帯することになっている(ちなみに、カーターとクリントンはカードを2回紛失しているという)。氏は、この専権を終わらせようというのである。
米国憲法は、連邦議会にのみ宣戦布告権限を与えている。他国を核兵器で攻撃することは究極の戦争行為であるから、その権限は連邦議会にある。冷戦期、憲法はわきに追いやられ、大統領が専権を持つようになった。もはや、一人の人物が地球上の生命を全滅させる絶対的な力を持つべきではないという理由である。ただし、その専権は、米国やその同盟国への核攻撃に対する核による報復の場合には認められるという。そして、「核の専権」がなくなれば、軍の側近が、常時、鞄を抱えてそばにいる必要はないとされている。
氏のこのような提案の背景には、トランプは癇癪持ち。ニクソンは酒浸り。ケネディは鎮痛剤を常用。レーガンはホワイトハウスにいた時からアルツハイマーの兆候が始まっていた、などという事情がある。「逆上した大統領がわれわれを核のホロコーストに突き落とさないようにしなくては」という警告を発した人もいるという。氏は「彼らはみんな人間である」と書いている。そういう彼らに「核のボタン」を預けることの危険性を指摘しているのである。
私は、この提案を、大統領だけではなく「いかなる人間にも核のボタンを持たせるな」と敷衍しておきたい。間違いを犯さない人間はいないからである。
もうひとつ注視しておきたいことがある。氏は「ロシアが先制攻撃を計画しているという想定に根拠はない」としているけれど、例外的として、核攻撃に対する反撃で核兵器を大統領の専権で使用することは認めていることである。氏は、例外的とはいえ、核戦争を容認しているのである。核兵器の応酬による「相互確証破壊」、氏の表現でいえば「地球上の生命の全滅」を絶対に避けるという選択はしていないことを忘れないでおこう。
警報下発射(警報即発射)を禁止せよ
警報下発射というのは、ミサイルが発射されたという警報が発せられれば、それが着弾する前に、反撃のためのミサイルを発射することをいう。それを禁止しようという提案である。もし米軍がICBMを発射した後で誤警報だと判明したら、米軍は誤って核戦争を始めたことになる。発射は取り消せないし、ロシアは報復しないということはないだろう。文明の終わりが起きることになる。ケネディ政権時の国防長官だったマクナマラは、警報下発射を「狂気の沙汰」と言っていた、などということがその提案の背景である。
そして、警報下発射が非常に危険なのは、米軍の早期警戒システムが間違いやすいからだという。米国は少なくも3回、ロシアも少なくも2回の誤警報を経験しているそうだ。一例をあげておく。1980年6月3日 ソ連の潜水艦が220発のミサイルを米国に向けて発射との警報が出た。確認を求めたら、2200発とのことであった。連絡を受けたブレジンスキー(カーター政権時の大統領特別補佐官)は寝ている妻を起こさなかった。米国は全滅するだろうからと考えたからである。3度目の連絡は、誤報とのことであった。コンピーターのチップの欠陥が原因だったという。
人間は間違いやすく、機械は故障する。にもかかわらず、現在も、核弾頭を搭載したミサイルがサイロに配備されたまま、大統領の命令から数分以内で発射できる態勢にあるという。だから、誤警報が壊滅的な結果につながるリスクを消すために、警報下発射を禁止しろというのが、氏の発想なのである。数分以内の核兵器発射を正当化できるシナリオはありえないともされている。私は、氏の発想と提案に大賛成である。
先制使用を禁止せよ。
氏は、先制攻撃を禁止せよと提案している。重要な提案である。すべての核兵器国が核兵器による先制攻撃をしないと約束し、それが実行されれば、核兵器の意図的な応酬は起きないことになるからである。ぜひ、そうして欲しいと思う。
氏がその禁止を求める理由は次のようなことである。
核保有国に先制攻撃するのは自殺行為である。自分も反撃されるからである。非核兵器国に先制攻撃するのは、そうした国を核保有に走らせ、国際社会から見放される。これは、米国の核不拡散政策に反することになる。米国が、非核兵器国を脅すために核兵器が必要だと言いながら、どうして他国に核兵器を持つ必要がないと説得できるのだろうか。われわれは、早晩、核の荒野から退却すべきである。
この理由付けは、論理的だし、目標設定にも共感できる。具体的には、弾頭をミサイルから取り外して別々に保管すること、潜水艦を相互の近海から離れたところに配備するなどという提案である。先制不使用政策は、法律によらなくても、大統領令で実現可能だともしている。
他方、氏は、米国の同盟国には、核の先制使用政策を維持して欲しいとする者(日本のこと)もいるが、比類なき通常戦力で核兵器以外の脅威の抑止は可能だとしている。そして、核兵器は、他国が核兵器を使うのを抑止することだけが、実践的な軍事目的であるとしている。
氏は、「核の荒野」から退却すべきだとはいうけれど、核兵器の必要性を否定しているわけではないし、武力での対抗を排除しているわけでもない。意図的な核兵器使用の危険性よりも、誤報などによる偶発的な核兵器の応酬を危惧する氏の立場からすると、中途半端さが気にかかるところではあるが、先制不使用政策に反対する理由はない。
すべてのICBMを退役させ、核兵器の再構築を縮小せよ。
ICBMとは地上発射型の大陸間弾道ミサイルのことである。これを段階的に撤去し、警報下発射のプレッシャーを抑え、先制不使用政策への信頼性を高め、巨費を節約してより優先順位の高いプロジェクトに振り向けろという提案である。いかにも魅力的な提案といえよう。その背景にあるのは次のような思惑である。
ICBMには先制使用以外に合理的目的はない。先制攻撃で破壊されてしまうので、反撃には役に立たない。潜水艦搭載の核兵器がそれを補う。むしろ、米国の北西部周辺への危険を引き付けるだけだ。1500億ドルをかける新世代のICBNは無駄遣いで、危険を増大させるだけである。よくても予備の保険、悪ければ核の大惨事を待つようなもの。米国は第二撃による抑止のために必要な核兵器だけを作るべき。10隻の新型核搭載艦潜水艦部隊があれば十分だ。ただし、サイバー攻撃やドローン軍による探知への対処に留意し、今後数十年にわたって生存能力を確保すべきだ。トランプは、ステルス能力を高めた新型爆撃機B-21の開発を進めている。これは支持する。ICBMを撤去し、より少数の潜水艦と爆撃機を建造することで、3千億ドル(年100億ドル)節約できるし、優れた抑止力を配備できる。
要するに、ICBMは退役させるけれど、その代わりに、新型の潜水艦を建造し、ステルス機能の高い爆撃機を作れというのである。
その政策で年100億ドル(約1兆4千億円)を節約できるのかどうか、私には判断能力はない。そして、氏の提案が「核の大惨事」から遠ざかるようには思えないのである。「抑止のために必要な核兵器」が作られて、それらの応酬が行われれば「核の大惨事」が起きるだろうからである。氏は、核兵器に依存する「生存能力の確保」からは自由になっていないようである。
新STARTを救い、さらに踏み込め。
米ロ間の軍備管理条約である新STARTは2021年2月に期限が切れることになるが、両国の合意があれば、さらに5年間延長できることになる。トランプ政権はその延長を拒否している。
氏はこの延長をすべきだというのである。その理由は、延長をしないことは、悲劇的な誤りであり、軍拡競争の火に油を注ぐ様なものだ。両国の生存可能性に及ぼす問題での対話は必要だというのである。
私も、ぜひ、延長して欲しいと思う。この条約がなくなると、両国の手を縛る軍備管理条約が存在しなくなり、無制限の核軍拡競争が再開される恐れがあるからである。
更に、氏は続ける。新STARTが延長されても、軍備管理の道は終わりではない。米ロは、自分たちと他の国民を全滅させられる能力を残している。われわれは、核兵器の削減をさらに進め、核戦争が勃発しても、文明の終わりにならぬようにしなければならない。100発程度の高出力の核爆弾が大都市で爆発すると、気候に大きな影響を与え、地球上の生命を脅かすという。このレベル以下にまで兵器削減プロセスを考えなければ、真に成功とはみなせない。1985年のレーガンとゴルバチョフの「核戦争に勝者はいない、それを戦ってはならない」との声明を再確認すべきだ。世界の核兵器の90パーセント以上を持つ二国の指導者は世界の破滅を防ぐために協力する責任がある。
氏は、延長されても、両国には、自分たちと他の国民を全滅させる能力が残るので、核兵器の削減を更に進めるとしている。それはそのとおりであって異議を挟む理由はない。けれども、なぜかゼロにしようとはしていないのである。100発程度以下(以下というのがどの程度なのかは示されていない)にまで削減すれば「真の成功」だというのである。大都市での核兵器使用が「核の冬」や「核の飢饉」をもたらすことを承知ながら、この意見なのである。「核戦争に勝者はいない。それを戦ってはならない」という言葉を再確認しろというのであれば、核兵器の数を100未満程度にすれば「真の成功」という言説は中途半端のそしりを免れないであろう。「真の成功」は核兵器ゼロの世界を意味するべきだと私は思う。
そのような態度に出てしまうのは、氏は「文明の終わりにならない核戦争」を想定しているからであろう。いわゆる「限定核戦争」である。一度始まった核戦争を途中でどのように止めるというのであろうか。誤発射された核ミサイルによる「大惨事」を危惧しているにも関わらず、意図的に始まった核の応酬を途中で止めることができると考えるのは、論理的整合性を欠くであろう。そもそも、途中でやめる冷静さがあるなら、最初からやらなければいいだろうと思う。
新STARTの延長に反対する理由はない。けれども、核兵器は100程度以下までなくせばいいとか、核戦争を途中までやるなどという提案に同意することはできない。
戦略ミサイル防衛を制限せよ。
ミサイル防衛とは、敵国のミサイルが自国に到達する前に撃ち落としてしまうという防衛作戦である。「銃弾を銃弾に」当てるという作戦である。氏は、それが可能であったとしても「自国がミサイル防衛システムで守られている」ということは意味しないので、それは止めようと提案しているのである。
その理由は、敵が防衛能力を構築すれば、より多くの優れた攻撃能力を持つ必要が出てくる。原子力時代においても攻撃は最大の防御である。攻撃用兵器を制限する前に、防御を制限しなければならない、ということである。1972年のABM条約の序文には「弾道ミサイル迎撃システムを制限する効果的措置は、戦略的攻撃兵器の競争を抑え、核兵器を含む戦争勃発のリスクを抑止するための重要な要素である」とされていた。
要するに、戦略ミサイル防衛というのは、防衛力の強化とされてはいるけれど、軍拡競争を激しくし、かえって自国の安全を害することになるというのである。
私は、理にかなった提案だと思う。けれども、米国は2002年ABM条約から脱退し、ミサイル防衛計画を継続している。防衛産業にとっては仕事が減ることになるし、反対する政治家は「国を守りたくないのか」と攻撃されるからというのが氏の説明である。現在の日本の状況にもぴたりと当てはまるようである。
更に氏は続ける。ミサイル防衛が米国の先制攻撃後のロシアの報復能力への脅威だとロシアがみなす限り、米国の防衛を制限することなしには、ロシアは新たな軍備削減交渉を拒否するだろう。ロシアと中国はまた、米国が欧州や日本や韓国に、海上や地上配備のミサイル防衛を配備することに懸念を示している。ミサイル防衛が現実的な実験に合格するとは思われない。効果的ではなく、誤った安全保障の感覚に導くようなシステムに何十億ドルもかけるべきではない。拘束力のある制限(ABM条約のようなもの)なくして兵器削減の支持は得られないだろう。
効果的ではなく、誤った安全保障の感覚に導いている日本政府は、氏の提案に真摯に耳を傾けるべきであろう。
条約を待つな。
氏は、核兵器やミサイル防衛に制限をかけるための条約を支持するけれど、このアプローチがうまくいくとは思わないとしている。上院で今後、軍備管理条約が通過する可能性は見通せない。予見できる将来において、米国の安全保障上の利益になる軍備管理措置のために、米上院で67票を獲得することはできそうにないというのである。だとすれば、上院の同意が必要ない手段を追及すべきだ、というのが氏の提案である。これが「条約を待つな」という意味である。
氏は、トランプのイランとの核合意からの離脱やINF全廃条約からの脱退には反対し、包括的核実験禁止条約(CTBT)には賛成しているけれど、この提案との関連では、核兵器禁止条約には触れていない。けれども、核兵器やミサイル防衛に制限をかけるための大統領の努力を「理想とは程遠いが、何もしないよりはましだ」と期待していることも忘れないでおきたい。ここには氏の葛藤が現れているようである。
北朝鮮、イランを外交的に引き込め。
両国の核計画を封じ込めるための外交を駆使せよ、という提案である。地域的な軍拡競争を抑えるとともに、米ロが更なる軍備削減をするためにも不可欠。いずれにも実現可能な軍事的解決はない、というのが提案の理由である。全くその通りである。
そして、トランプの軽率な行動はイランの核開発を阻止することを後戻りさせただけだと批判している。他方、トランプが金正恩と直接関与する努力は評価するとしている。このような評価は珍しいのではないだろうか。この評価は私も共有する。
更に、北朝鮮との関係では、次のようにいう。外交プロセスのはじめに北朝鮮に核兵器を放棄するよう求めるよりも、根本的に新しい関係を模索すべきだ。北朝鮮は米国による正当な理由のない軍事行動に怯える必要がなくなり、韓国も北朝鮮による正当性のない軍事行動に怯える必要はなくなる。この問題の解決には時間も忍耐も必要である。
私も、現在の米国や日本政府の姿勢は、「俺は持つお前は捨てろ核兵器」という無理筋だと考えているので、氏の提案は理性的かつ現実的なものとして大歓迎である。そして、朝鮮戦争の終結と朝鮮半島の非核化は、在日朝鮮人や韓国人が、日本の暴徒の襲撃におびえる必要がなくなるということも付加しておきたい。
氏は、この提案項目の中で、次のようなことも述べている。NPTは核兵器を持つ国が増えるのを阻止してきた。大多数の非核兵器国は国連の条約によって核兵器を廃絶することを支持してきたが、米国とロシアの核軍縮に進展が乏しく、実際に軍備削減交渉を破棄して核兵器を再構築していることに苛立っている。ロシアと米国は新STARTを延長し、CTBTを発効させることによって、NPTプロセスに必要な支持を集められるだろう。
ここには、氏の核兵器禁止条約についての関心が垣間見えている。
市民運動のテーマに核兵器を取り込め。
この項目での氏の主張は次のとおりである。新大統領が、米国の核政策を転換しようとしても、政治的逆風や組織的抵抗に直面する。大統領は明確な行動計画を持って行動することだ。オバマ大統領の場合には、外部組織や有権者からの圧力が必要だった。強力な外部地盤によって大統領に約束を思い出させなければならない。国民の教育が不可欠だ。核兵器は資産ではなく負債、実際に存亡にかかわる危険だとみられる必要がある。核凍結キャンペーンは1982年、100万人がセントラルパークで軍拡競争に抗議した時がピークだ。われわれは、新たな市民運動のテーマに核兵器を取り込む必要がある。
氏の視野には、核兵器禁止条約を実現するうえでの市民社会の活動は映っていないようであるが、核兵器が負債であり、実際に存亡にかかわる危険だとのキャンペーンが求められているという意見に反対する必要はない。そして、氏に、核兵器の凍結に止まらず、その廃絶を求める市民運動が存在することを教えてあげたいと思う。
明確な態度を持った大統領を選べ。
最後の提案は、核戦争を避けることに注意を払い、米国の核政策を変える大統領を選ぶことが必要だということである。これは米国の有権者にしかできない。トランプの最後の抵抗はあったけれど、バイデン、カマラの政権が誕生することになった。彼らの核政策の全貌はまだ見えていない。
氏は、次のようにいう。冷戦後30年を過ぎた今、米国はなお奇襲攻撃に即座に対応するために大規模な核戦力を配備し、大統領は核戦争を始める野放しの権限を持っている。大統領が誰であれ数分以内に世界を終わらせる究極的な力を与える正当性はない。核兵器は75年を迎えるが、核のボタンをやめる以外核の大惨事を減らす方法はない。諸国民の圧力によって、国連は世界的な核兵器禁止条約を採択した。そして、われわれは、大統領の専権を終わらせ、新たな軍拡競争を止め、同様に安全な世界を作るのだ。
そして、むすびの言葉はこうなっている。今日、核兵器は過少評価されながら、我々の文明の存続危機を突きつけている。だれも、一人ではこの現実を変えられないが、この重要な問題にふさわしい時間をかけ、関心を持って、一緒に行動できるのだ。
日本への提案
氏は、「日本は、米国の核の脅しには信頼性がなく、日本を安全にしないと気付く必要がある。恐るべき核の脅しによって、他の脅しが効かなくなる。同盟国は、先制不使用を支持し、より強化した不拡散政策に努める方がよい。米国は日本の防衛にあたるが、その危機が核攻撃を含むものでなければ、米国の核の脅しは不要である」としている。
更に次のように説いている。核攻撃にさらされた唯一の国として、そして、核兵器廃絶を支持するものとして、日本は核の先制不使用をその目的の第一歩として支持すべきである。すべての国が先制不使用政策を宣言すれば、その宣言には信頼性が生まれ、兵器が不要となってその廃絶に協力できるだろう。先制不使用に反対することで、日本は核軍縮の原則そのものに反対しているのである。
確かに、日本政府は、米国の核兵器先制不使用政策に抵抗してきた。日本は「核軍縮の原則」に反対してきたと評価されているのである。「核攻撃にさらされた唯一の国」として、先制不使用に賛成しなさいという提案である。私は、この提案に賛成であるが、日本政府にこの提案を受け入れないであろう。我が国を取り巻く安全保障環境がそれを許さないと言い募っているからである。
提案の整理
以上みてきたように、氏の提案は、いくつかの特徴を持っている。まず第一に、核兵器使用は「究極の戦争行為」であり、「地球上の生命を全滅させる」、「壊滅的結果」、「文明の終わり」、「核の荒野」、「核の惨事」をもたらすとしていることである。第二に、核兵器発射の危険性は、ロシアには米国に先制攻撃する意図はないので、人間の間違いや機械の故障を原因とする誤警報による方が高いとしいることである。第三に、「核の大惨事」を減らすには、核のボタンを止めることであるとしていることである。第四に、核兵器の廃絶ではなく、大統領の専権を終わらせることを優先していることである。第五に、先制不使用、ICBMの退役、新STARTの延長、ABM条約の復権、外交手段の優先などの具体的提案をしていることである。
この第一の特徴は、核兵器禁止条約の「壊滅的人道上の結末」と共通するし、第二の特徴は、同条約の「核兵器が存在することによる危険(事故による、誤算によるまたは意図的な核兵器の爆発によるものも含む)」と通底しているといえよう。氏は、「諸国民の圧力によって、国連は世界的な核兵器禁止条約を採択した。そして、われわれは、大統領の専権を終わらせ、新たな軍拡競争を止め、同様に安全な世界を作るのだ」としている。氏は、核兵器禁止条約に賛同しているわけではないが、敵視などはしていない。核兵器禁止条約を支持する私たちと氏との間には、核兵器使用がもたらす危険性についての共通の認識が存在しているのである。
提案に対する異論
けれども、氏は、「核の大惨事を減らす」とは言っているけれど「大惨事をなくす」とは言っていない。また、「ボタンを止める」とはいうけれど「ボタンをなくす」とは言っていない。100発程度以下にすれば「真の成功」だとしているのである。私はこの提案には異議がある。中途半端だからである。
その違いが生ずる原因は、氏が核兵器の有用性を認めているからである。例えば、氏は「冷戦期の核兵器は明白な抑止力を提供した」としているし、「米国の核兵器の唯一の目的は、他者がそれを使用するのを抑止することである」、「米国は第二撃による抑止のために必要な核兵器だけを作るべき」ともしている。ここには、核抑止論の影響が顕著である。私は、この抑止論の有効性に同意することはできない。核兵器が平和や安定の道具だというのは虚妄だと考えているからである。
そして、「ソ連の奇襲攻撃の抑止ないしそうした攻撃への報復が、米国の核計画と核対策の目的であったことは、一度たりともあったためしはない」、「米国の戦略核戦力は、ソ連またはロシアが米国による第一撃を受けた後に報復を行った場合の米国の被害を限定しようとするものだった」という、ダニエル・エルズバーグの見解(『世界滅亡マシーン』岩波書店)に同調するからである。
私は、核兵器の有用性を承認し、数は減らすとは言うけれど、その継続的保有を主張する意見は乗り越えなければならないと考えている。
具体的提案への共感
氏の、大統領の専権を奪うとか、先制不使用政策の確立、ICBMの退役、新STARTの延長、ABM条約の復権、外交手段の優先などの具体的提案は、速やかに実現されるべき貴重な提案である。核兵器廃絶を早期に実現したいけれど、核戦争の阻止や核実験の禁止、核兵器の削減などに先行して取り組むことは当然必要だからである。
すべての核兵器国が、核兵器の先制不使用や核攻撃への反撃以外には核兵器を使用しないこと(唯一目的)を公約し、非核兵器国への核攻撃をしないこと(消極的安全保障)を誓うことにより、核兵器使用の危険性は大きく減衰することになる。そのことを推進することは喫緊の課題である。そして、核兵器は、ある日突然、同時に無くなるものでもない。100発への削減はゼロへの通過点でもある。氏の提案を敵視する必要はないし、無視してはならないと考えている。
核兵器をなくす意思もないままにその改良を企てる軍需産業や政治勢力、核兵器に依存しながら口先だけ核廃絶を言う不誠実な連中(日本政府も含む)に比べれば、氏の存在と提案は、核廃絶を願う私たちの「友軍」といえよう。氏の健康と長寿を願う次第である。
ところで、「核戦争に勝者はない。戦ってはならない」としたゴルバチョフは、「今も核兵器は存在し、核戦争の危険も存在している。…過ちや技術的な故障を起こす可能性はある。これについて、米国のウィリアム・ペリー元国防長官が『技術的な誤りは過去にもあった、人間は間違いをおかすものだ』としている」と書いている(『ミハイル・ゴルバチョフ』朝日新聞出版)。二人が問題意識を共有していることを確認しておきたい。
核兵器が存在する限り、人間が作り出し、使用する道具である核兵器の危険性は排除できないことは、ペリー氏たちも認めているところである。その認識は、論理的に「核の廃絶」を導くことになる。であるがゆえに、ペリー氏たちに対する核兵器を有用とする核抑止論の影響は、いずれ解消されるであろう。そして、人類社会から核兵器を廃絶する運動は加速され、「核兵器のない世界」が実現することになる。その時にこそ、私たちはペリー氏らと「真の成功」を祝うことになるであろう。
(2020年12月13日記)