1.はじめに
原爆症とは、原爆の放射線により引き起こされる疾患である。
2003年に始まった原爆症認定をめぐる集団訴訟は、被爆者が罹患した疾病が原爆放射線による晩発性影響か否かが争点となり、全国で29の勝訴判決を得て、一定の行政認定基準の変更を獲得した。
本稿は原爆症認定訴訟の制度背景、訴訟経過を述べることを通じて、訴訟で明らかになった事実と原爆の非人道性とそこにかけた被爆者の想いを論述するものである。
2.被爆者に対する日本の法制度と原爆症認定
(1)被爆者に対する日本の法制度
1945年8月6日と9日、広島市と長崎市に原子爆弾が投下された。原爆は、二つの町を一瞬にして壊滅させ、1945年末までに広島市民14万長崎市民7万人をその年の内に殺した。更に、日本が1952年までアメリカ軍の占領下に置かれたこともあり、被爆者は国から放置され、この間に多くの被爆者が死亡した。
しかし、1954年3月のビキニ被災事件(アメリカ最初の水爆実験による日本漁船の被曝)を契機に盛り上がった原水爆禁止運動(1年のうちに有権者の半分以上が原水爆禁止の署名をした)に押され、1956年には、原爆被爆者に対する法制度が制定された。
現在の法制度(被爆者援護法)では、被爆時爆心地から一定範囲にいた人(ほぼ、爆心から4km~5km位)、爆心地から2km以内に2週間以内に入った人等に、被爆者健康手帳が交付され、これらの人々が法的な意味の被爆者となる。この法的な意味での被爆者には、医療費について、健康保険の自己負担分が公費で支給されている(ちなみに、日本は、皆保険制度である)。
ただ、日本では、軍人や一部の戦争に協力した者以外の非戦闘員戦災者(10万人が一晩でなくなった東京大空襲を含む)に対して、生命・身体被害への被害補償をしていない。このことは、日本が侵略戦争の被害国に戦争責任をとらないこととも結びついている。
その均衡から、被爆者に対する救済制度も放射線被害のみに限定され、原爆死没者に対する補償もない。その意味では、日本の被爆者制度は、生存者に対する放射線被害に特化した法制度となっている。
(2)原爆症認定制度と立ち上がった被爆者
原爆症認定制度は、法的な被爆者が病気に罹った場合に、①その病気が原爆放射線の影響によるものであり、かつ、②医療が必要と認められた場合、「原爆症」と認定される。そして、原爆症と認定された被爆者には、月額13万円余の手当が支給される。
ところが、長い間、原爆症と認定された被爆者は、法的な被爆者全体のごく僅かであった(訴訟の結果、制度改革がなされる直前の2008年3月当時の法的な被爆者数は、約25万人であったが、原爆症と認定された被爆者は2200人程度)。それは、政府が、ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission)=放射線影響研究所(Radiation Effects Research Foundation )の疫学データを基礎に、爆心地から2km以内(初期放射線100mSv)にいた近距離被爆者の特定の悪性腫瘍と、白内障といった特定の非がん疾患についてのみ原爆症認定と限定してきたことによる。
このような状況が続く中で、2.45kmという比較的遠距離で被爆した長崎の被爆者松谷英子が原爆症認定を求めて争い最高裁でも勝訴した。ところが、国が原爆症認定実務をむしろ厳しくしたことから、日本被団協の提唱により、集団訴訟が提起されるに至った。
それは戦後60年以上たって、「死ぬ前に何としても原爆被害の残酷な実態を告発したい」という被爆者の想いの反映でもあった。
3.原爆症認定訴訟で明らかになった事実
(1)放射性物質の影響
政府(被告国)は、ヒロシマ、ナガサキの原爆では、残留放射線の影響はほとんどないと主張してきた。ヒロシマ・ナガサキでは、高空爆発であり火球(fireball)が地表に接地していないので誘導放射能の生成は極めて少なく、放射性降下物も空中に飛散してしまったと主張し、残留放射能による内部被曝も否定してきた。
ところが政府の主張は、被爆者の体験した事実と明確に異なっていた。遠距離で被爆した者、そして、被爆後爆心地付近に入市した者にも、脱毛、紫斑、下痢等の急性症状が発生していたのである。そして裁判所は、近距離の直接被曝しか放射線の影響はないとする政府の主張を排斥し、遠距離被爆者や入市被爆者の疾病についても原爆症と認定したのである。
(2)放射線の持続的影響
また、政府は、訴訟提起前は、一定の悪性腫瘍と白内障等少数の疾病について、放射線の影響を認めたに過ぎなかった。しかし、被爆直後の急性症状から回復した後にも、被爆者は、疲れやすい、化膿しやすい、風邪を引きやすい、根気が無くなったといった「ブラブラ病」と呼ばれる症状に苦しめられ続けた。当時の研究者も、「慢性原子爆弾症」と名付けて被爆者に一種の体質の変化があったことを指摘していた。しかし、当時の検査データに現れないこともあって医学界で広く認知されることはなく、国による原爆症認定の基礎となることもなかった。
しかし、原爆症認定訴訟では、多くの被爆者に見られる症状が裁判所に提示された。そしてこれらと放影研を含む研究成果により、原爆放射線に伴う体内での炎症の持続や、免疫の低下等が明らかになった。これらを積み上げることにより、裁判所は、放射線の影響が長期間にわたって被爆者を苦しめ続け、そして、がん・悪性腫瘍に限らない、心筋梗塞、脳梗塞、肝機能障害、甲状腺機能低下症等、広範囲な疾病について、原爆放射線の影響を認めたのである。
4.裁判所が認めた複合的被害
放射線の晩発性障害は数年から数十年を経過した後に現れ、また、放射線が免疫に影響することが明らかになりつつあった。裁判所は、多くの被爆者の苦難に耳を傾けることを通じて放射線の影響範囲を拡大した。裁判所は、放射線影響の相当部分が未解明であること、原爆が放射線のみならず、熱線・爆風による被害をもたらしたこと、社会崩壊に伴う精神的、社会的被害をもたらしたこと等を踏まえて、これらの要因と協働(synergetic)する放射線の影響を広くとらえたのである。
5.これまで原爆放射線の残虐な特質が明らかにならなかった理由
原爆症認定が厳しかった背景について述べることとする。
(1)アメリカによる隠蔽と放射線影響の限定
原爆症認定の基礎となる被爆者の調査がアメリカによる軍事目的で開始されたものであること、被爆の実相が隠蔽されたことが、背景にある。
原爆症認定は、1947年に設立された原爆傷害調査委員会(ABCC)と、その後これを引き継いだ日米合同の研究機関である放射線影響研究所による、50年以上にわたる被爆者調査のデータに基づいている。しかし、ABCCは元々アメリカが軍事目的で設立したものであり、被爆者はそのデータに過ぎなかった。しかも、米占領軍は、原爆被害の残虐性が世界に知られることを恐れ、日本の医師達の研究を禁じ、あるいは、そのデータをアメリカに持ち去っていた。
ABCCによる現在の疫学調査は1955年に基本スキームができあがったが、その時期は、ビキニ被災をきっかけとする日本の原水禁運動への対抗、Atoms for peaceと一致しており、原発とも結びついて放射線の外部被曝線量との相関を調べることであった可能性がある。同時にアメリカには、原爆の残留放射能が広島、長崎を汚染した事実を否定したい意向が働いていた。そのため、行われた調査は、原爆炸裂時に浴びた初期放射線の影響だけであった。
(2)日本政府による隠蔽への荷担と被爆者の放置
他方、日本政府もアメリカに追随して被爆の実相の隠蔽に荷担し、被爆者を放置して治療や独自の調査をすることもなかった。その結果、占領が終了するまでに多くの命が失われ、被爆の実相調査の機会をも失った。のみならず集団訴訟においても、放射線の広汎な持続的影響を否定し、残留放射線の影響を否定する主張を続けた。そこには、単に認定制度の問題にとどまらず、日本政府の現在の核政策、原子力政策にとって好ましくないとする考えを反映していると見られる。
6.原爆症認定訴訟と核兵器の非人道性と被爆者の声
(1)核兵器の非人道性をめぐっては、軍事的効果と付随的効果が議論される。
高空で核兵器を爆発させる形で使用すると軍事効果は小さくなり、非軍事目標を残虐に殺傷する形でしか軍事効果を果たすことが出来ない。
他方、軍事的効果を狙って地下サイロ等の軍事目標を核攻撃すれば、膨大な放射性物質が生成される。しかし、ヒロシマ、ナガサキのような高空爆発でさえ、広い範囲で、放射性物質による影響を及ぼした。対地攻撃を行った場合には、広範な非軍事対象に様々な影響を及ぼすのである。
これらを見ると、国際人道法上合法な使用法はないといわざるを得ない。
(2)見えない放射線被害と社会の崩壊
日本は、ヒロシマ、ナガサキに続いて、フクシマを体験している。
フクシマにおける大きな問題は、放射性物質による被害の外延が不明であり、そのために身体的被害が生ずる前に、社会不安の中で、人間社会の分断・崩壊と差別が生じていることである。これらは、生物・化学兵器の使用に伴う被害との共通点でもある。
核兵器の使用がなされた場合には、熱線・爆風による圧倒的破壊による精神的・心理的・社会的被害とともに、更に放射線被害の未解明性に伴う様々な問題が複合して発生する。加えて、今後の大規模核戦争では、地球規模の環境汚染や環境破壊による飢餓等が重なるのである。
(3)被爆者の声
私たち日本の法律家は、原爆症認定訴訟等を通じて、被爆者に接してきた。
被爆時の状況を語った後、嘔吐し寝込むと語る被爆者がいる。被爆当時の記憶が完全に欠損している被爆者も少なくない。また、ある被爆者は、朝鮮戦争が起こったときに、ショックを受けたと語った。それは、あのようなことが起こった以上、もはや戦争は起こらないと思っていたのに、戦争が起こったからというものであった。その被爆者は、夕刻自宅で電気を点けるのがこわいと言っていた。更に言えば、被爆者であると名乗ることは、差別・偏見の対象となることを引き受けることであった。
被爆者達は、思い出すこと自体がつらい体験を乗り越え、被爆者と名乗ることが差別の対象となりながら、ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ、ノーモアヒバクシャと日本、そして世界で訴えて、三度目の核攻撃を止めてきた。そして原爆症認定訴訟の原告にもなったのである。
それは、あの地獄から<生き残らされた者>の責任感からであった。今まで生きてきた者としての責任である。
私たちは彼の声を聞いた者としてその思いと責任を引き継がなければならない。