核兵器が人類を絶滅すると考えることは「妄想」なのか
―ギュンター・アンダース批判への異議―
大久保賢一
核兵器をめぐる意見
核兵器をめぐってはいろいろな意見がある。「核と人類は共存できない」から一刻も早く廃絶すべきだという意見(A説)。「核兵器は安全保障環境を安定させるための道具」であるからなくすなんてとんでもないという意見(B説)。核兵器が人類を絶滅させるなどと考えることは「妄想」だという意見(C説)。ヒロシマ・ナガサキ・フクシマという現実があるにもかかわらず「次なる破局は起きない」ということは自分が「白痴」であると告白するようなものだという意見(D説)などである。もちろん、そんなことに関係も興味もないという「意見」もあるし、難しくてわからないという「意見」もある。私は、A説とD説を支持する人である。ここでは、核兵器が人類を絶滅すると考えることは「妄想」だという意見を紹介して、少しだけコメントすることにする。
ギュンター・アンダースという人
まず前提を示しておく。1902年に生まれ、1992年に亡くなったギュンター・アンダースという人がいる。私は、彼が、人間が核兵器を発明し、それを使用したことを理由として、「われわれは死を免れぬ種族=人類という状態から、『絶滅危惧種』の状態へと移ってしまった」と指摘していたことを知ってから、彼に興味を覚えている。「核持って絶滅危惧種仲間入り」という私のお気に入りの川柳の精神を1960年に先取りしていることに感動したからである
(※i)。
哲学者の戸谷洋志は「アンダースは、広島・長崎への核攻撃に大きな衝撃を受け、ここから現代社会が直面している脅威を多面的に分析し、優れた著作を残した」と紹介している
(※ii)。
アンダースは、1958年、日本原水協の招待に応じて、原水禁世界大会に参加している。その時、広島の農家のおばあさんと腕を組んで炎天下を行進している
(※iii)。そして、ヨーロッパにおける反核運動のリーダーの一人であった
(※iV)。付け加えておくと、彼は被爆者と交流しただけではなく、広島への原爆投下を指示したパイロットであるクロード・イーザリーとも交流している。イーザリーは、自分の行為に恐れおののき懺悔したため、精神を病んでいるとして軍の病院に収容された人であるが、アンダースはそのイーザリーと文通したのである
(※V)。彼は哲学の学位を持っていただけではなく、核兵器反対運動の活動家でもあった。「行動する哲学者」といえるだろう。
ギュンターの主張
彼の意見はこうである。
今やわれわれ全部、つまり「人類」全体が、死の恐怖に直面している。ここでいう「人類」は、単に、今日の人類だけではなく、現在という時間的制約を超えた、過去および未来の人類も意味している。なぜならば、今日の人類が全滅してしまえば、同時に、過去および未来の人類も消滅してしまうからである。
原水爆の問題は、われわれに関係のあることなのだ。なぜなら、原水爆の標的にわれわれだってなるかもしれないからだ。原水爆の問題は特定の人々の専門分野に属しているという主張は間違っている。なぜならば、われわれは皆ひとしく、この問題について人間として専門家的特権など持っていないからだ。万人は平等に、可能なる終末のふちに立っている。だからこそ、いかなる人も、この危険に対して警告するための、平等の権利と義務を持っているのだ。
手段―目的という関係そのものを破壊してしまうような代物はもはや手段ではない。「原爆が単なる手段だ」などと言う詭弁に騙されるな。また、「もっぱら威嚇に使われるだけで、実際の使用を目的としていない」などとうまいごまかしをいう連中のことを信用してはならない。最後の最後まで使用されないために生産されたものなど、歴史上存在したことはない。
原水爆の問題を戦術的見地からのみ論議しようとする一切の試みをボイコットせよ。自らが作り出したモノによって、自滅の脅威に人類が脅かされている本筋に引き戻せ。「政治的に現実性を欠いている」と嘲笑されても決してたじろぐな。現実性を欠いているのは、戦術的考察以外に考える能力のない輩だ。
現存する原水爆や、その製造やその実験や貯蔵だけを対処として反対運動を続けるだけでは、十分ではない。われわれの目標は、その所有をやめるだけではなく、所有をしていても、絶対に使用はしないということでなければならない。
原水爆の完全破棄という処置をもってしても、それは絶対かつ究極の保障たりえぬ。例え使用可能のチャンスが訪れようとも絶対に行使しないという決意を一瞬も捨てないことこそが真の保障である。
主張の整理
以上は、彼の1959年7月2日付のイーザリー宛の手紙に添えられている「原子力時代の道徳綱領」の一部である
(※Vi)。彼の主張を以下のように整理しておこう。
まず第一に、原爆が手段―目的という関係を破壊してしまうので、われわれ全員が「終末のふち」に立っている。第二に、「原爆が手段だ」とか「もっぱら威嚇に使われるだけだ」などという詭弁や誤魔化しに騙されるな。第三に、「政治的に現実性を欠く」などといわれてもたじろぐな。そして、現存する核兵器を完全廃棄したとしても、油断するなということである。
第一は、核兵器問題を「他人事」ではなく「自分事」として考えようという提案である。第二は、核兵器を安全保障の道具だとする核抑止論に対する根本的批判である。第三は、自滅の危機を無視する現実論にたじろぐなということである。これらの主張は、この「道徳綱領」から60年余たっている現在でも、そのまま通用する鋭い内容を含んでいる。そして、「現存する核兵器を完全廃棄したとしても油断するな」という主張は、人間は核兵器の知識と技術を持っているのだから、その復活にも備えよという警告である。核兵器廃絶条約という法規範の向こうにある問題提起である。いかにも哲学者らしい視点といえよう。
なお、ここで確認しておきたいことは、アンダースの思考の底流にあるのは「現在貯蔵されている核兵器の潜在的暴力がすでに絶対的なものになっている」という認識である。だから彼が、最も強く警鐘を鳴らしたのは、核兵器使用が起きるのは、国家間戦争ではなく、技術的なエラーや想定外のアクシデントによって、言い換えれば、人間の自由意志では制御できない諸原因によって起こり得るということである
(※Vii)。これは、ウィリアム・ペリーの「事故や間違いによる核戦争は、意図的に起こされるのと同様に致命的だ。どんな理由で始まろうが、米ロの核戦力の規模と致死性により、我々の文明は終わりを迎えうる」という指摘と共通する問題意識である
(※Viii)。
アンダースへの評価
戸谷洋志は、アンダースの「善良で勤勉な人々が、良心的に自分の仕事を全うすることによって、結果として核戦争が引き起こされる」とか、「核戦争は平穏さの中で起きる。まるで核戦争が起きる気配がないときにこそ、核戦争は引き起こされる」などという記述を好意的に紹介している。そして、「特筆すべきは、彼が被害者だけではなく、加害者とも対話を試み、関係性を構築しようとした点だ。彼の思想は立場を超えた他者との対話の必要性を雄弁に物語っている」と評している
(※iX)。
佐藤嘉幸と田口卓臣は、アンダースの目には、1954年のビキニの水爆実験の時点でも1979年のスリーマイル島の原発事故後でも、核の問題は一貫して「軽視された対象」と映っていたとしたうえで、「私たちはアンダースの考えに同意する。原発であろうと核兵器であろうと、どちらもひとしく廃絶しない限り、次なる核カタストロフィーの発生は十分に想定されるからである」としている
(※X)。ちなみに、「次なる破局は起きない」と言うことは自分が「白痴」であると告白するようなものだとしているのはこの二人である。
ところで、アンダースに対する評価は、以上のような好意的評価だけではない。國分功一郎は次のように評している
(※Xi)。
地球を全滅させるような核戦争は本当に可能なのでしょうか。そのイメージはどこか誇張的ではないか。20メガトン級の水爆だと、だいたい半径13キロくらいが完全に破壊されます。これで全世界を破壊するとなったらすごい数の水爆が必要になるわけです。核兵器が非常に強力な破壊力を持っていることは間違いないけれど、アンダースのように手段になりえないとか、目的も何もかもすべては破壊しつくすと考えるのは、悪い意味で哲学的な妄想ではないかという気がするのです。僕だって、世界から核兵器がなくなって欲しいと思っている。しかし、彼はどこか哲学を弄しながら、何か誤った絶対化を行っているのではないか。
國分は、アンダースを「悪い意味で哲学的な妄想」をする人。核戦争によって人類が滅亡するなどという「誤った絶対化」をしている人と評価しているのである。戸谷の評価とは全く違うことになる。
ついでに言っておくと、國分は「彼の論文には原子力発電の話が全く出てこないのです。『時代おくれの人間』第5版の序文で触れているけれど、それまで、原子力発電に言及していない。どうしてそうなってしまったのか、その理由を考えたい」ともしている。これは、佐藤・田口の評価とは180度ちがう否定的なものである。
感想
現代は「原子力の時代」、「核の時代」である。人類が核分裂エネルギーを利用する時代である。その時代をどう見るのかは、哲学を研究する人によってこれほどまでに違うのだということを知ることができたことは大きい。けれども、誰の本を読むかによって、「原子力の時代」、「核の時代」の理解は大きく変わることになるのだと思うと、背筋が寒くなる。
國分がアンダース評価をしているのは2019年発行の『原子力時代における哲学』においてである。國分の著作では、現在、核弾頭が14000発弱ほど存在し、そのうちの多くは「警報即発射」体制にあることも、この75年間に、何度も、核兵器が誤って発射されそうになったことも、核兵器使用による気候への影響などもすべて捨象されている。「核兵器のいかなる使用も人道の諸原則及び公共の良心に反する」(核兵器禁止条約前文)などという倫理上の問題意識もない。彼は「次なる破局」を想定していないのである。佐藤・田口によれば、國分は「白痴」ということになるであろう。
私には難しい哲学論争を理解する意思も能力もない。けれども、人間の現実の営みも、人間の認識の有限性も、人間の行為の不完全性も軽視する哲学は信用できないという程度の知恵は持ち合わせている。
私は、現在の人類社会には、意図的であるか事故であるかは問わず核兵器が使用される危険性も、それによって「壊滅的人道上の結末」が起きる危険性も存在していると考えている。それは、核兵器禁止条約の現状認識である。また、信頼できる科学者の「終末まで100秒」という警告でもある。私たちは、客観的に存在するリスクを主体的に認識することから始めなければならない。私には、アンダースを「悪い意味で哲学的な妄想をする人」と評価する人の方が「たちの悪い妄想をする人」と思われてならない。
(文中敬称略・2021年1月2日記)
※i 拙稿 「そのときには皆一緒にくたばるわけだ」日本反核法律家協会HP
※ii 戸谷洋志『原子力の哲学』集英社新書 2020年
※iii ギュンター・アンダース著 青木隆嘉訳『核の脅威―原子力時代についての徹底的考察―』法政大学出版局 2016年
※iV ギュンター・アンダース、クロウド・イーザリー著 篠原正瑛訳『ヒロシマわが罪と罰』ちくま文庫 1987年
※V 同上
※Vi 同上
※Vii 佐藤嘉幸、田口卓臣共著『脱原発の哲学』人文書院 2016年
※Viii ウィリアム・ぺリー他著 田井中雅人訳『核のボタン』朝日出版社 2020年
※iX 戸谷洋志 前掲著
※X 佐藤嘉幸、田口卓臣 前掲著
※Xi 國分功一郎『原子力時代における哲学』晶文社 2019年