賢人会議を構成する皆様
私たちの要望をお伝えする機会を提供していただきありがとうございます。
私は、核兵器廃絶日本NGO連絡会の共同代表及び核兵器の廃絶を目指す日本法律家協会(日本反核法律家協会)の会長として、次のとおり要望するものです。
はじめに
2018年に開催された賢人会議は、「核軍縮の停滞や核の秩序の崩壊はどの国にとっても利益にならない。『核兵器のない世界』を追求することは共通の利益である」、「核抑止は、安定を促進する場合もあるとはいえ、長期的な国際安全保障にとって危険なものであり、すべての国は、より良い長期的な解決策を模索しなければならない」と提言していました。
私は、「核兵器のない世界」を一刻も早く実現したいと願っていますし、核兵器に依存しない「よりよい長期的解決策」が必要だと考えています。
そこで、本日は、「核兵器のない世界」実現の必要性と核兵器に依存しない安全保障政策について、私の考えの一端を述べさせていただきます。
マッカーサー連合国司令官のスピーチ
1946年4月5日、ダグラス・マッカーサー連合国最高司令官は、連合国対日理事会において次のようなスピーチをしています。
近代科学の進歩のゆえに、次の戦争で人類は滅亡するであろう、と思慮ある人で認めぬものはない。しかるになお我々はためらっている。足下には深淵が口を開けているのに、我々はなお過去を振り切れないのである。そして将来に対して、子どものような信念を抱く。世界はもう一度世界戦争をやっても、これまでと同様、どうにか生きのびるだろうと。
彼は、次の世界戦争では核兵器が使用され、人類社会は終末を迎えるだろうと警告していたのです。この警告は、核兵器の使用は「全人類に惨害」あるいは「壊滅的人道上の結末」をもたらすとして、NPTやTPNWなどの国際法規範に継承されています。にもかかわらず、現在、核兵器使用の危険性が冷戦時代よりも高まっているのです。それは、核抑止論に基づき、核兵器を国家安全保障の切り札とする核武装国や依存国が存在するからです。
核抑止論との決別を
私は、核兵器の存在を前提とし、核兵器の国家安全保障上の必要性や有用性を主張する核抑止論が「核兵器のない世界」の実現を遠ざけている元凶だと考えています。核抑止論者たちは核兵器の効用について「精緻な議論」を積み上げてきたと誇っているようですか、それは、神についていくら「精緻な議論」をしても神の存在を証明したことにはならないのと同様の空虚な営みでしかありません。
1980年の国連事務総長報告は次のように結論しています。
核戦争の危険を防止することなしに平和はありえない。もし核軍縮が現実になるものとすれば、恐怖の均衡による相互抑止という行為は放棄されなければならない。抑止の過程を通じての世界の平和、安定、均衡の維持という概念は、おそらく存在する最も危険な集団的誤謬である。
私はこの結論に賛同します。だから、「核兵器のない世界」を実現するためには「核抑止は、安定を促進する場合もある」という幻想を捨てるべきであると考えています。私たちは、「核抑止論」というレトリックに騙され続けてならないのです。
では、核兵器をなくせば私たちの任務は完了するでしょうか。その復活を恐れる必要はないのでしょうか。
ラッセル・アインシュタイン宣言
1955年の「ラッセル・アインシュタイン宣言」は、次のように言っています。
人々は、…滅びゆく危急に瀕していることを、ほとんど理解できないでいます。だからこそ人々は、近代兵器が禁止されれば戦争を継続してもかまわないのではないかと、期待を抱いているのです。
このような期待は幻想にすぎません。たとえ平時に水爆を使用しないという合意に達していたとしても、…戦争が勃発するやいなや、双方ともに水爆の製造にとりかかることになるでしょう。…製造した側が勝利するにちがいないからです。
私は、ここに、核兵器を禁止しても、戦争が存続している限り、核兵器はゾンビのように復活するという警告を読み取っているのです。
宣言は「人類を滅亡させますか、それとも戦争を放棄しますか。人々は、この二者択一に向き合おうとしないでしょう。戦争の廃絶はあまりにも難しいからです」とも言っています。宣言は「近代兵器」を禁止するだけではなく「戦争の廃絶」を提起しているのです。
核兵器がなくても戦争は可能です。今もそのような戦争は続いています。核兵器廃絶と戦争の廃絶は別問題なのです。だから、戦争の廃絶を棚上げして、核兵器廃絶を求めることは可能ですし必要な営みです。けれども、戦争での紛争解決を容認する限りその復活を覚悟しなければならいのです。核兵器は戦争に勝つという軍事的合理性からすれば「最終兵器」だからです。宣言はそのことを指摘しているのです。
そこで、想起して欲しいのは、「近代兵器」にとどまらず、あらゆる戦争と一切の戦力を放棄している日本国憲法です。
日本国憲法の平和主義
日本国憲法9条は次のとおりです。
第1項 | 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 |
第2項 | 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権、これを認めない。 |
全ての戦争を放棄し、一切の戦力の不保持と交戦権を放棄しているのです。その背景にあるのは、原子爆弾が発明され、使用された時代にあって、戦争に訴えることは愚かなことである。文明と戦争とは両立しない。文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争が文明を全滅することになる、という思想です。冒頭に紹介したマッカーサーの発想と同様のものです。
国連憲章は1945年6月26日に作成されています。その時、核兵器の威力は知られていませんでした。日本国憲法は、1945年8月の広島と長崎の「被爆の実相」を知っている人々によって、1946年11月に公布されたのです。
日本国憲法は、一切の戦力を保持しないとしています。そして、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した、としています。
核兵器だけではなく一切の戦力を持たずに安全と生存を保持しようという決意なのです。
それは、ユートピア思想だとしてあざ笑う人たちもいます。けれども、世界には26ヵ国の軍隊のない国があるのです。そもそも、核兵器は人間が製造したものですし、戦争は人間の営みです。ウィルスではないのです。廃絶できない理由はありません。
私たちは、核兵器使用の非人道性を認識しているがゆえに、核兵器使用や威嚇の禁止にとどまらず、核兵器の廃絶を求めています。けれども廃絶を不可逆的なものにするためには、武力の行使を容認する戦争という制度も廃絶しなければならないのです。戦争をなくさなければ核兵器をなくせないということではありませんが、戦争の廃止は「核兵器のない世界」を実現する上で避けてはならない課題なのです。
76年前、日本国憲法はそのことを想定していたのです。ぜひ深い関心を寄せてください。核兵器も戦争もない世界は、全人類に恐怖と欠乏から免れ平和のうちに生存できる基盤を提供し、人類はその可能性を全面的に開花させる新たな世紀を築くことになるでしょう。
賢人会議が、そのような社会の実現に貢献されるよう要望します。