はじめに 代表団の構成など
核廃絶と平和のためのセミナーに参加している友人の皆さん。
私たち日本からの代表団は、皆さん方と同様に、真剣で熱い想いを持ってこのセミナーに参加しました。この代表団には、広島・長崎で被爆した方2名も含まれています。米国による原爆投下は1945年8月6日と9日ですから、既に62年の歳月が経過しています。被爆者は高齢となり、その健康状態も危ぶまれています。にもかかわらず、遠くコスタリカの地に足を運んだ理由の第一は、ぜひとも皆さん方に被爆の実相の一端を知っていただきたいからです。その実相の一端を知ることは、核兵器の犯罪性を再確認することにつながるでしょう。原爆被害の実相を知ることは核兵器廃絶運動の原点です。私たちには、原爆が人間に何をもたらしたかを知る義務があります。その義務は「人間の尊厳」と「正義」から導かれるものです。人間が人間として生きることも、人間として死ぬことも許さないあの「原爆地獄」は、二度と繰り返してはなりません。抵抗不能な暴力よって人々の生命と生活が奪われることは、人間性と正義に反することだからです。
ところで、被爆者の体験談を理解する上で、精神科医として被爆者を診察してきた代表団のメンバーである中澤正夫医師の話も参考にしてください。中澤医師は、「歴史上最悪の悲惨な体験から受けた深い心の傷は生涯癒されることなく、死ぬまでその心的外傷は続くことになる。また、原爆体験の衝撃によって脳の記憶機能が破壊されることもある。その結果、原爆被害の実態を語れなくなった被爆者も少なくない。」としています。被爆者の言葉によって語られることだけが被曝の実相でないことを理解していただけるでしょう。
そして第二に、単にその事実を知っていただくだけではなく、被爆者たちがこの間どのように核兵器と向き合い、その廃絶を望んできたかを知っていただきたいのです。被爆者たちは、決して、悲しみと恨みの中で絶望していたわけではなく、「核兵器被害者は自分たちだけにして欲しい」との切実な想いで戦ってきたことを伝えたいのです。被爆者の切実な訴えを受け止めてください。
また、代表団のメンバーには、浦田賢治国際法律家協会(IALANA)副会長や池田眞規日本反核法律家協会(JALANA)会長などの学者や弁護士も含まれています。日本の法律家も、被爆者の「核兵器と人類は共存できない」という想いを受け止め、「核兵器のない世界」の実現のために、法律家として可能な貢献をしようとさまざまな行動を呼びかけ、また自ら実践してきました。
しかしながら、現在も、核兵器が存在していることは紛れもない事実です。核兵器保有国の核弾頭数は27000発と想定されています。地球と人類を破滅させるに余りある殺傷力と破壊力です。そして、核兵器保有国が増加するだけでなく、「使用可能な核兵器」の開発が進められています。とりわけ米国は、核兵器先制使用をその戦略に組み込んでいます。核兵器使用や核戦争の危険性は排除されていないのです。核兵器使用が人類に何をもたらすかは、生存被爆者の「証言」や科学的なシュミレーションによって明らかにされています。私たちは、皆さん方と同様に、一刻も早い核兵器廃絶を希求しているのです。
核兵器廃絶条約の早期実現の必要性
核兵器を廃絶するためには、廃絶の意思と運動と法的枠組みが必要です。核兵器廃絶の法的枠組みが「核兵器廃絶条約」の制定と執行にあることは言うまでもありません。私たちは、「モデル核兵器条約」を起案し、それを国連の公式文書とした核政策法律家委員会(LCNP)や国際反核法律家協会(IALANA)のメンバーに心から敬意を表明します。私たちは、その「モデル核兵器条約」の翻訳と普及に努力しています。しかしながら、被爆国日本でも、核兵器廃絶条約に向けての運動が盛り上がっているわけではなく、「モデル核兵器条約」の存在を知らない人たちが多いのです。日本外務省はその翻訳すら公表していないのです。私たちには、核兵器廃絶のための道程を最初の段階から提示する任務があるのです。
さて、日本の反核平和勢力は核兵器廃絶の強い意思を持っています。国際司法裁判所(ICJ)の「核兵器の使用と使用の威嚇は一般的に国際法に違反する」との勧告的意見を獲得する上でも大きな役割を果たしたことは良く知られています。このような意思と経験を持つ日本の反核平和勢力は、2010年の核不拡散条約(NPT)再検討会議までに、核兵器廃絶条約実現の大きな運動を作り出したいと考えています。このセミナーが、世界と日本の反核平和運動を励ます上で大きな役割を果たして欲しいと願っています。
日本の法律家の提案
ここで、私たち日本の法律家から一つ提案があります。
私たちは、被爆者の体験を基礎に置きながら、核兵器の持つ犯罪性や非人道性を明らかにし、米国の原爆投下の違法性を公式な機関で追求したいと考えています。具体的には、米国連邦裁判所に、被爆者を原告とし、米国政府を被告として、原爆投下の違法性の確認と被爆者に対する謝罪と補償を求める裁判を提起しようというのです。このような裁判が構想されたことはありましたが、現実に提起されたことはありませんでした。もちろん、米国の裁判所がそのような訴えを容易に容認するとは考えていません。(このことについての私たちの検討結果は、山田寿則報告を参照してください。)
しかしながら、私たちは、米国の原爆投下は、当時の国際人道法に照らしても違法であったと考えています。このことは、「下田事件」(被爆者が原爆投下の違法性判断を求めた裁判)において、東京地方裁判所も同様の判断をしています。この判断は、国際司法裁判所の勧告的意見にも反映しています。
ここで想起して欲しいことがあります。第2次世界大戦後、連合国はニュルンベルクや東京でドイツや日本の戦争犯罪者を法的に裁きました。その際、彼らが準拠したのは国際人道法・戦争法でした。当時の国際人道法は、既に、非戦闘員に対する無差別攻撃の禁止、非軍事施設に対する攻撃の禁止、不必要な苦痛を与える兵器の使用の禁止などを定めていました。原爆投下がこれらの禁止に違反していることは明らかです。そして、連合国の法律家は、国際人道法は敗戦国の「犯罪者」だけではなく、戦勝国の「犯罪者」にも適用されるとしていました。しかしながら、今日まで、戦勝国は原爆投下の違法性について「公式な法廷」で裁くという試みはしていません。
原爆投下が違法でないとすれば、戦争に勝利するためにはどんな残虐な手段を用いてもよいこととなり、国際人道法・戦争法はその存在意義を失うこととなるでしょう。このことは、法は戦争という国家の物理的暴力の前で立ち止まることとなり、人々は巨大な暴力に無防備でさらされることになることを意味しています。核兵器の前で法は無力となるのです。
更に、私たちは、米国の裁判所が被爆者の訴えを無視するのであれば、米州機構人権委員会に被爆者による「個人請願」を予定しています。私たちの現在までの検討結果によれば、米州機構人権委員会は被爆者の「個人請願」について、管轄権を認め、実体審理に入るだろうと予想しています。すなわち、米国は米州機構の一員であり、米州機構は米州機構加盟国の国民でない個人にも請願を認めていますから、被爆者は当事者となりうるでしょう。また、米国の原爆投下による生命、健康、人間の尊厳に対する被害(人権侵害)は現在も続いていますから、原爆投下が1945年で、米州機構の発足が1948年であるとしても、時間的制約は無いでしょう。 そして、米州機構は、被爆者の請願を受けて、実態調査をする可能性は高いと思われます。米州機構人権委員会の判断は米国に対する強制力は無いことは承知していますが、国際的な公的機関である米州機構の行動と判断は大きな政治的意味を持つと思われます。(このことについての検討結果は山本リリアン報告を参照してください。)
私たちは、このように米国の原爆投下を法的手続きで問いかけたいのです。もちろん、このプロジェクトが成功したとしても、核兵器廃絶条約が自動的に実現するわけではありません。しかしながら、このプロジェクトの実行過程で、原爆投下の被害が単に投下直後だけではなく、現在も、放射線の影響による癌や白血病などの発生という形で継続していることを明らかにし(このことについては別の大久保報告を参照してください。日本での「原爆症認定裁判」についての報告です。)、「原爆投下を裁く国際民衆法定」(バルガス教授は判事団のメンバーでした。)で行なわれたように原爆投下の違法性を論証し(このことについては井上正信報告を参照してください)、核兵器は人道上も国際法上も許容できないことを、公的な国際機関である米州機構人権委員会に判断してもらうことで、核兵器廃絶の国際的世論を強化できると考えています。
米国での裁判の必要性
ここで、米国での裁判の必要性について述べます。米州人権委員会に米国を相手方とする個人請願をするには、事前に、米国内での救済手続きを経なければなりません。その手続上の要請が米国裁判所への提訴の直接的理由です。しかし理由はもっと根源的です。私たちは、米国の指導者が、原爆投下は戦争の早期終結を目的とした正義にかなう行為であると宣伝し、多くの市民がそのように信じていることを知っています。そのような事情があるが故に、私たちは、米国の原爆投下が国際法に違反するかどうか、戦争犯罪を構成するかどうかを、米国の裁判所で問いたいのです。米国政府の原爆投下正当化論と正面から論争したいのです。米国の法は、原爆投下がもたらした大量かつ無差別の残虐な死や今でも続く被害を許容し放置するのかを問いたいのです。
私たちは、米国裁判所と政府はこれらの問いかけに正面から答える義務があるだろうと考えています。なぜなら、米国は、連合国の一員として、枢軸国の戦争犯罪を裁いたことがあるからです。そのとき米国は法と正義と人道を基準としていました。その姿勢は正しかったと私たちも考えています。だからこそ、米国は、原爆投下は法と正義と人道に反しないということを、法の裁きの場で堂々と主張しなければならないのです。米国は自らが定立した規範を自らにも当てはめなければならないのです。自らの行為は棚に上げ、他人の違法性だけを言い立てるのは傲慢で不公正な態度です。私たちは、米国と米国の法律家がどのような態度を取るかを検証したいのです。
法は万能ではありません。けれども、法は剥き出しの暴力をコントロールする役割を期待されています。そして、その役割を実現するのは法律家の任務です。
私たちもこのセミナーの成功のために誠実に努力することを約束して、結びとします。