第1、原爆被害から見た核兵器への基本的視点
1、原爆被爆と被爆後の苦しみ
1945年7月16日、アメリカニューメキシコ州アラゴモードの砂漠で、地球に生命が誕生して以来最初の核分裂反応である原爆実験が行われた。それから3週間後の8月6日には広島、その3日後の8月9日には長崎と人々の住む都市の上空で原爆が炸裂した。
原子爆弾が起爆され、核分裂による連鎖反応が始まると、炸裂の中心に数百万度,数百万気圧にも達する高温高圧状態のプラズマ,即ち火球が形成された。爆発から1秒後、この火球は爆発地点を中心に半径約150mの大きさになり,表面温度は約5000度となった。頭上数百メートルのところに人工の太陽が出現したのである。
この火球は、超高圧の大気の膨張となり,音速を遙かに超えて伝わる衝撃波を生み出し,瞬時に建物を破壊した。それを追うように爆風が吹き、その風速は,爆心地から500m地点で秒速280mという強烈なものであった。その結果、広島と長崎の街は、10秒で壊滅したと言われる。
超高温の熱線は,人々の皮膚の奥まで焼き,皮膚を肉体から剥離させた。強烈な衝撃波と爆風は,眼球を眼窩から押し出し,人を木の葉のように吹き飛ばし,たたきつけた。人は,血と体液をしたたらせた皮膚を垂れ下げ,あるものは眼球を眼窩から垂れ下げながら,歩き彷徨い、救いを求めた。広島と長崎の川は,無数の死体で埋まった。その瞬間,人々はその瞬間、何が起こったのか分からなかった。熱線によって発生した火災は,破壊された建物に生きたまま下敷きになった人々を襲った。人はわれがちに死体を踏みながら逃げ惑い,子が親を捨て,場合によって親が子を捨てることさえ起こった。
原爆は、街を壊滅させ、焼き尽くしただけではなかった。人々が原爆の光を見る前に、火球の中心部から放出された放射線が人々を射抜き、街を放射能に変え、放射能に充ちた巨大のなキノコ雲が街を覆い、黒い雨が人々の上に降り注いだのである。人々は、何も知らないまま、焼かれ傷ついた人々を救うために、放射能に汚染された街に入った。被爆時に傷つかなかった人、人々を救いに入った人の中からも体に異変が生ずるようになった。人々は、得体の知れない現象におそれを抱き、それを「ガス」と呼んだ。
原爆は人々を無差別に殺し、そして戦争が終わった後も、被爆者を苦しめ続けた。ケロイド、白血病、白内障、癌、そして、様々な病気が被爆者の体を繰り返し襲った。
更に、恋愛、結婚、妊娠、出産、そして学業、就職、人生のあらゆる場面で原爆が被爆者の心と体に影を落とし続け、被爆者を苦しめ、殺し続けた。
2、原爆症認定訴訟
日本被団協の呼びかけにより、2003年原爆症認定訴訟が提起された。提訴裁判所は全国でその原告数は、300名余となった。そして、各地の弁護士は、連携しながら、これらの原告を全国的規模で支援した。
原爆症認定集団訴訟は、原爆放射線の被害を爆心地から2km以内で高線量の初期放射線に被曝した被爆者の白血病を含むがんと白内障に限られるとする日本政府の科学的見解への挑戦であった。
まず、政府は、ヒロシマ、ナガサキの原爆では、残留放射線の影響はほとんどないと主張してきた。すなわち、ヒロシマ・ナガサキでは、高空爆発であり火球が地表に接地していないので誘導放射能の生成は極めて少なく、放射性降下物も飛散してしまったと主張した。政府は残留放射能による内部被曝も否定してきた。ところが政府の主張は、被爆者の体験した事実と明確に異なっていた。遠距離で被爆した者、そして、被爆後爆心地付近に入市した者にも、脱毛、紫斑、下痢等の急性症状が認められた。そして、近距離の初期放射線被曝しか影響はないとする政府の主張は、事実の前に裁判所のとるところとはならなかった。
また、政府は、訴訟提起前は、がん等の極少数の疾病について、放射線の影響を認めたに過ぎなかった。しかし、被爆者の持続する体調不良や長期間の免疫学的調査を含む科学的研究成果により、放射線の影響が長期間にわたって被爆者を苦しめ続け、そして、がん・悪性腫瘍に限らない広範囲な疾病を引き起こすことが明らかになった。
これらの事実は、核兵器使用の国際法違反性を明らかにする事実である。
3、原爆・核兵器の国際法違反性
広島、長崎と同様に殺傷目的で核兵器が使用された場合、比較的小さなヒロシマ・ナガサキに投下された程度の核兵器でも軍民を無差別に殺傷するものであることは、上記1で述べたところから明らかである。
他方、軍事的効果をねらってヒロシマ・ナガサキと違って地表付近、更には地中貫通型の核兵器を用いた場合、広島、長崎に比較しても大量の誘導放射能と放射性降下物による残留放射能を生成させ、それにより広範囲に環境汚染とそれに伴う長期間にわたる放射線の持続的影響を人々に与えることになる。
これらを考えると、核兵器の使用は、軍事目標主義に反し、不必要な苦痛を与えるものであり、国際人道法上許容されることはあり得ない。
4、被爆者の核兵器廃絶への叫び
私たち日本の法律家は、原爆症認定訴訟等を通じて、被爆者に接してきた。被爆時の状況を語った後嘔吐し、寝込むと語る被爆者が居た。被爆時の記憶が欠損している被爆者も少なくない。ある被爆者は、朝鮮戦争が起こったときに、ショックを受けたと語った。それは、あのようなことが起こった以上、もはや戦争は起こらないと思っていたのに、戦争が起こったからというものであった。その被爆者は、夕刻自宅で電気を点けるのがこわいと言っていた。更に言えば、被爆者であると名乗ることは、偏見の対象となることであった。それにもかかわらず、被爆者は、ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ、ノーモアヒバクシャと訴えて、3度目の核攻撃を止めてきたのである。それは、あの地獄から生き残らされた者の責任感からであった。今まで生きてきた者としての責任であった。
生物・化学兵器は禁止された。今、生物・化学兵器の生物・化学兵器を保有し、自らの国家の安全保障に依存しようとすれば、それは国際的に非難されっる恥辱ではあれ、尊敬の対象とはならない。それが、どうして、核兵器でできないのだろうか。被爆者は、自らの体験から核兵器に依存することは人類滅亡への道であることを警告してきた。核兵器の拡散への危険のある今、そして、被爆者が体験を語れなくなる前に、このNPT再検討会議で、核兵器廃絶への道を明確にすべきである。
第2、核兵器廃絶への道筋を
1、核兵器廃絶時期の設定
核兵器は人間、人類の視点から見たとき、法的・倫理的に到底受け入れられない兵器である。「核兵器は誰の手にもあってはならない」という規範を国際社会とそれを支える地球市民の間で確立させ、それを法的拘束力のあるものにしなければならない。そのためには、核兵器廃絶の時期を明確に設定し、それに呼応する様々な活動を市民と政府が協力する状況を生み出すことが必要である。
我々は、そのために、次に述べる核兵器条約の発効時期を被爆者が生きている内である2020年を求める。
2、核兵器条約についての作業と交渉
核兵器廃絶のためには、核兵器廃絶への道筋を示し、包括的に非合法化する核兵器禁止条約(NWC)が必要である。2008年10月に「5項目の行動計画」で潘基文国連事務総長が指摘したように、NWCは、核兵器のない世界のために、真剣に検討すべき最優先課題の一つである。包括的な検討は、既存の核不拡散・核軍縮のステップ・バイ・ステップと矛盾せず、むしろこれらを補完・強化するものである。特にNPT6条の実効性を高める措置を全体の中で位置づけることが「核軍縮を完結」する上で極めて重要だと考える。
そのために、核不拡散と核軍縮に関する国際委員会(ICNND)が指摘したように、NWCに関する政治的、法的、技術的問題に関する作業を直ちに開始すべきである。そして、2015年には、NWCに関する多国間交渉を開始し、2020年には発効するようにすべきである。
3、核兵器の使用の禁止規範の確立と再確認
ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下以後、核兵器が実戦で使用されたことはなかった。しかし、核拡散の危機が存在し、核テロの危険も増大している。こうした中で、いかなる場合にも核兵器を使用及び威嚇をしてはならないという国際規範の確立が強く求められている。そのためには、国連安保理において使用禁止決議や国際刑事裁判所(ICC)のローマ規程に、核兵器の使用が国際犯罪であるする規定を設ける等の方策が考えられるべきである。
4、消極的安全保証と非核兵器地帯条約、とりわけ、東北アジア非核地帯
更にその事前の信頼醸成措置として、核兵器の役割を大幅に減少させて全ての核兵器国が核兵器を核の抑止のみ限定し、先制不使用を宣言することを求めたい。
同時に、全ての核兵器国が、核兵器国の軍事同盟国を含む非核兵器国との間で非核兵器国には核兵器を使用しないという法的拘束力のある協定(消極的安全保証)を合意とともに、これと合わせて非核兵器国は、核兵器を保有製造せずまた核兵器国が核兵器を持ち込まないという合意とその検証措置を伴う非核地帯条約の拡大に取り組むべきである。