一 日本政府の核政策と非核三原則
日本政府の安全保障政策の中心には、米国の拡大抑止力依存政策がある。他方で、日本国民の強い反核世論を背景に、非核三原則(持たず・作らず、持ち込ませず)を核政策の基本としてきた。しかしながら、この二つの原則は矛盾をはらんだものとして、長年にわたり日本国内の論争の的となってきたのである。
日本政府の安全保障政策の基本である、米国の拡大抑止力依存政策は、51防衛計画大綱(1976年)で、「核の脅威に対しては、米国の核抑止力に依存する。」という表現を載せ、公文書として初めて表明した。
非核三原則は、沖縄施政権返還を巡る日米協議の過程で形成された。当時大量の核兵器が配備されていた沖縄の施政権を、米国から日本へ返還するに際し、「核抜き返還」を保障するものとして、1967年12月佐藤首相(当時)の国会答弁が最初の政府表明となった。その後沖縄返還協定の国会審議において、衆議院本会議が非核三原則を含む決議を採択し、佐藤首相(当時)が非核三原則を遵守する表明をしたことで、「国是(国家の基本政策)」となった。
非核三原則は、それ自体が切り離された独自の政策ではないことに注意を要する。佐藤首相が非核三原則を表明した直後の1968年1月、衆議院本会議において、彼は非核三原則に加えて、実行可能な核軍縮に力を注ぐ、国際的な核の脅威に対しては米国の核抑止力に依存する、核エネルギーの平和利用につとめるという三政策を合わせて、「核四政策」とした。すなわち、非核三原則は核抑止力依存政策とセットの政策として理解すべきものであった。
非核三原則を厳格に実施し、日本へのいっさいの核兵器持ち込みを許さないとなれば、米国は、日本周辺での米国の核戦力が十分機能しないこともあり得ることを承認しなければならない。例えば、日本政府の統一見解では、核兵器を搭載した米国艦船の日本領海内の無害航行権を認めないこと、核搭載艦船が日本領海を通過する場合、安保条約による事前協議の対象となり、原則として許可しないというものであった。従って、日本の核政策と安全保障政策とは重大な矛盾を当初からはらんでいたのである。
二 核密約の系譜
日本政府は現在まで、米国が日本の領海内へ核兵器を持ち込む際には、日米安保条約第6条に関する事前協議の対象であり、原則的に同意しないとの立場をとり続けている。しかし、他方で日米間には、核兵器の持ち込みに関する密約が存在していたことが既に明らかとなっている。日本政府のこれまでの立場は、密約の存在を否定することであった。
核兵器持ち込みに関する密約の系譜は、1958年10月から始まる日米安保条約改定交渉にさかのぼる。旧日米安保条約は、日本敗戦後の米軍駐留の実態をそのまま引き継ぐ内容であり、日本本土や沖縄の米軍基地への核兵器持ち込みには何らの制約がなかった。1954年のビキニ水爆実験による日本漁船と船員の被爆から、日本国内では原水爆禁止の運動が広がり、安保条約改定では、旧安保条約の下で行われていた核兵器の自由な持ち込みが公然と出来る状態ではなくなった。
1960年1月19日日米安保条約が調印されたが、その際、第6条の実施に関する岸総理大臣(当時)とハ―ター国務長官との交換公文が交わされた。その内容は、合衆国軍隊の日本国への配置における重要な変更、同軍隊の装備における重要な変更、日本防衛(5条)以外で日本国から行われる戦闘作戦行動については、日本国と事前協議するというものである。更に、事前協議制度の運用につき、「装備における重要な変更」に核兵器持ち込みが含まれるという口頭了解をしたとしている。ところが、日米安保条約調印の直前である同年1月6日、藤山外務大臣(当時)とマッカーサー駐日大使(当時)とが、秘密の討論記録に調印した。討論記録には、米艦船や軍用機の日本への立ち入りに関する現行の手続(旧安保条約での核兵器自由持ち込み)に影響を与えるものであるとは解釈されないという内容の記載を含んでいる(密約1)。
その後米国は、日本政府が密約に反した行動をとらないよう、圧力を掛けてきた。1963年、攻撃型原子力潜水艦の日本寄港問題で、池田勇人首相(当時)が事前協議の対象となると国会で答弁したことを問題視し、ライシャワー駐日大使(当時)は大平外務大臣(当時)と会談し、討論記録の内容を確認し、大平外務大臣も核持ち込み密約を確認した。1964年にも原子力潜水艦寄港問題を巡る政府高官の国会答弁を問題視し、ライシャワー大使が大平自民党幹事長と会談して、密約を確認した。
核兵器持ち込みに関する密約の第二場面は、沖縄施政権返還に関する日米交渉である。本土復帰を目指す沖縄県民の強い運動は、当時ベトナム戦争での出撃基地となっていた沖縄の米軍基地の円滑な機能が阻害されるおそれがでてきたことから、米国も沖縄の施政権返還を決意することになる。沖縄には当時多数の核兵器が配備されていたことから、施政権返還に際して、沖縄の核兵器撤去が最大の焦点となった。核兵器棄廃絶を求める強い世論の前に、「核付き返還」は不可能であった。他方で、沖縄の施政権返還により、沖縄へも安保条約とその関連取り決め(密約を含めて)が適用されることになる。
沖縄施政権返還を合意した1969年11月佐藤総理大臣とニクソン大統領(いずれも当時)の共同声明8項は、「総理大臣は、核兵器に対する日本国民の特殊な感情及びこれを背景とする日本政府の政策について詳細に説明した。これに対し、大統領は、深い理解を示し、日米安保条約の事前協議制度に関する米国政府の立場を害することなく、沖縄の返還を、右の日本政府の政策に背馳しないよう実施する旨を総理大臣に確約した。」と述べている。安保条約改定の際に交わされた密約1を想起すれば、共同声明のこの意味は理解できるであろう。更に共同声明に関する秘密の合意議事録に調印した。その内容は、重大な緊急事態が生じた場合、米国は沖縄に核兵器を持ち込むことについて、日本政府は事前協議において同意することを約束するものである(密約2)。
二つの核密約により、米国は日本へ自由に核兵器を持ち込み、在日米軍基地を核戦略の拠点として使用することが可能となった。他方で、日本政府は非核三原則を米国も尊重していること、安保条約の事前協議制度があること、同盟関係は信頼が基本であること、米国から事前協議を持ちかけられていないので、核兵器が持ち込まれているはずはないと日本国民に説明することが可能となった。しかしこれは日本国民を欺くものであった。それにもかかわらず多くの日本国民は、日本へ核兵器が持ち込まれていると信じている。
三 民主党政権と核密約
広く知られているように、米国はブッシュ(父)政権時代の1991年に、海外配備の戦術核兵器をすべて撤去し、海兵隊と海軍航空部隊、水上艦艇の核兵器任務を解除した。これにより、核兵器持ち込みに関する密約は既に過去のものとなったのであろうか。日本では現にこのような議論がでている。しかし、決してそうではない。現在でも米国は、空軍の一部の部隊と、一部の原子力潜水艦の核兵器任務を維持しており、核兵器任務を与えられた原子力潜水艦が日本へ寄港している。これらの潜水艦と空軍の部隊は、有事には核兵器が配備され、日本へ核兵器が持ち込まれることは確実である。米国は現在でもNCND政策を維持している。
核兵器持ち込みがあり得ることは、日本政府が最も良く承知しているということは、次の事実からも証明できる。2009年4月1日米議会合衆国戦略態勢委員会(委員長はペリー元国防長官)が報告書を提出した。この報告書は、オバマ政権が進めている核態勢見直し作業へ強い影響力を与えると信じられているものである。委員会は、報告書を作成するに当たり、同盟国や友好国政府と密接に協議した。委員会が協議した各国政府関係者のリストが報告書の末尾に掲載されているが、日本政府関係者として、駐米日本大使館の四名の外交官の氏名が最初に記載されている。日本の次にデンマーク、トルコ、ドイツ、フランス、イスラエルなどと続く。駐米日本大使館の外交官たちは、日本政府の立場を記載した3枚のメモを提出して、委員会に対して、2013年に退役を予定されていた原子力潜水艦に配備される核巡航ミサイルの退役に反対し、低爆発力の貫通型核兵器が核の傘の信頼性を高める、潜水艦発射の核トマホークの退役は事前に協議してほしい、核戦力や核作戦計画の詳細を知りたいと希望したという。この事実は、日本政府が核兵器持ち込み密約に従って日本へ核兵器が持ち込まれることを承知しているばかりか、それを希望していることを示しているのである。その理由は日本の安全保障政策の中心である、核抑止政策の有効性を維持するためである。
核兵器持ち込み密約は、現在でも日本の主権を制限しつづけているという現実がある。日本政府は、国連海洋法条約の締結交渉の間、既に領海12海里が国際常識であることから、1977年領海法を制定し、領海12海里を定めた。同時に宗谷・津軽・対馬東西海峡の領海を3海里とした。海峡両岸が日本領土であるにもかかわらず、わざわざ3海里として、海峡の一部を公海としたのは、国際的に見て極めて異例な措置であった。なぜか。
当時米国は、国連海洋法条約により、沿岸12海里が他国の領域となれば、原子力潜水艦の自由航行が制限され、SIOPによる核戦争計画の遂行に重大な支障を来すことをおそれていた。潜水艦は他国の領海を無害航行できる権利があるが、その場合には浮上して国旗を揚げて航行しなければならないからであった。これでは原子力潜水艦は核作戦任務遂行は不可能となる。米国は、日本政府に強く働きかけた。又、日本政府にとっても、戦略原潜や攻撃型原子力潜水艦が上記海峡を浮上して日本領海を航行することは、公然たる核兵器持ち込みとして、深刻な政治問題となるおそれがあった。核兵器持ち込みの密約に縛られていた日本政府が選択した途は、これらの海峡を例外扱いとするものであった。現在でもこれらの海峡では沿岸3海里を越える海域は公海である。
日本は政権交代があって民主党政権となった。岡田外務大臣はクリントン国務長官へ宛てた書簡において、日本政府が核巡航ミサイルトマホークの退役に反対しないと表明した。民主党政権は3月9日密約に関する調査結果を公表した。その上で、岡田外務大臣は、91年ブッシュイニシャチブでもはや日本へ核兵器が持ち込まれる事態は考えられないとして、密約問題は過去の問題であるとの見解を表明した。鳩山首相は非核三原則をこれからも遵守すると表明した。しかしながら、日本周辺での武力紛争事態では、日本へ核兵器が持ち込まれることは十分あり得ることである。核兵器持ち込みが将来ともあり得るのであり、非核三原則を遵守する立場なら、有事に核兵器を持ち込む米国の政策との整合性をきちんと詰めておかなければならないはずである。密約は過去の問題で、これからは核兵器の持ち込みはあり得ないとして、米国の核政策と非核三原則との矛盾を放置する民主党政権の姿勢は、新たな密約の出発点を作りかねないのである。
問題は、日本のこれからの安全保障政策の内容が正面から問われていることである。
四 核密約を破棄し、非核三原則を含む非核法制定を求める
日本政府は、現在米国との間で、日米安保体制の今後50年間を見越した、日米同盟の深化を計るための協議を開始し、今年の秋に来日を予定されているオバマ大統領との日米首脳会議で、日米安保共同宣言を発表しようとしている。その中心の議題が、拡大抑止力を有効に機能させることである。
国際司法裁判所の勧告的意見F項は、非核兵器国に対しても「核軍縮交渉の完結義務」があることを確認した。2000年NPT再検討会議最終文書に日本政府を含むすべての参加国が賛成した。最終文書はNPT第6条の履行に関して、安全保障政策における核兵器の役割の縮小、非核地帯が核不拡散体制を強化して、核軍縮に貢献することを含む13項目の核軍縮措置を合意している。条約法に関するウィーン条約第31条3項によれば、最終文書はNPT条約第6条の内容となっていると理解できる。このことから、日本政府は勧告的意見F項を履行し、拡大抑止力依存政策を改め、北東アジア非核地帯実現を含む核軍縮措置を執るべき国際法上の義務があると考えられる。
また、2009年9月24日安保理首脳会議で1887号決議が採択された。決議は、非核兵器地帯は核不拡散体制を強化すると述べている。日本政府も安保理理事国として賛成している。この立場から、日本政府は北東アジア非核地帯を実現すべき政治的責任があるといえる。
日本政府が米国の拡大抑止力依存政策を見直して、核抑止力に依存しない安全保障政策を選択し、それに代えて北東アジア非核地帯実現の立場に立てば、核軍縮に関するオバマ政権のイニシャチブを促進することにもなる。また、同時に北朝鮮の核開発問題を協議する6者協議を進展させる役割も果たせる。
私たち日本の法律家は、日本政府に対して、核抑止力依存政策を放棄し、それに代わる核兵器に依存しない安全保障政策である、北東アジア非核地帯実現のイニシャチブを採ることを求めるものである。
我々は、日本政府に対して非核三原則を含む非核法(仮称)の制定を求める。大量のプルトニュームの備蓄や、純粋に防衛目的であれば核兵器は保有できるとする政府の憲法解釈、何かあれば頭をもたげる核保有論、人工衛星打ち上げ技術と、核兵器製造技術の存在、憲法9条改正論などから、日本の核武装の可能性は常に周辺諸国の脅威となっていることを認識する必要がある。このような後戻りは絶対に出来ない国内法制が必要である。将来締結される北東アジア非核地帯条約を履行するための国内法制としても位置づけられるものである。