核兵器国の動向
今、世界には13880発の核弾頭があるとされている(※1)。アメリカは6185発を保有し、1750発が作戦配備されている。作戦配備とは今すぐに使用できる状態にあることをいう。大陸間弾道弾(ICBM)、潜水艦発射型ミサイル(SLBM)、戦略爆撃機などによって、敵国に核攻撃を加えることができるのである。そのアメリカは、2018年2月に核態勢の見直し(NPR)を行い、核兵器によらない攻撃に対しても核兵器で反撃できることとし、低爆発力核弾頭(TNT換算5ないし7キロトン・広島型は15キロトン)の製造を開始するとしている(※2)。同年5月には、イラン核合意(※3)から一方的に離脱している。現在、アメリカが主導する「イラン包囲網」がホルムズ海峡で張り巡らされている。当然、イランは反発し、地域の緊張は高まっている。2019年2月には未臨界核実験(※4)を実施している。核兵器のブラッシュアップである。そして、2018年10月に、アメリカがロシアの違反を理由に破棄を表明し2019年2月に破棄通告した中距離弾頭弾(INF)全廃条約(※5)は、今年8月2日に失効している。早速、アメリカは、8月19日、中距離ミサイル実験を再開し、成功したと発表している(※6)。忘れてならないことは、トランプ大統領は核兵器を持っているのになぜ使用できないのかと、1時間に3回、外交専門家に質問した人だということである(※7)。アメリカは核兵器を使用する体制を維持している。そして、核兵器のボタンを持つ人は、その使用にためらいがない人なのである。
ロシアはどうであろうか。6500発の弾頭を持ち、そのうち1582発が作戦配備されている。プーチン大統領は 2019年の年次教書演説で、米国が離脱を通告したINF全廃条約に言及し、条約で禁止されていたミサイルが欧州に配備された場合には、「ミサイルの使用を決定する中心地」にも対抗するとしている(今だって、ワシントンはロシアのICBMのターゲットなのではないだろうか)。また、新型の極超音速ミサイルなどで米国本土を狙う考えを示し、欧州へのミサイル配備を牽制している。改めて米国への強硬姿勢をあらわにしている(※8)。私は、彼がクリミアを併合した時、核兵器使用を検討したことを忘れていない(※9)。彼も核兵器依存症なのである。
中国はどうであろうか。290発の弾頭を保有しているが、作戦配備をしていないようである。しかしながら、核兵器禁止条約については強固に反対しているし、アメリカによれば、実験場の通年運用を準備している可能性があり、今後10年で保有量は少なくも2倍になるというのである(※10)。また、尖閣列島付近への公船侵入、人工島の建設(※11)など、東シナ海、南シナ海での覇権主義的な動きをしている。核兵器を容認し、力による政策実現をしようとする姿勢が顕著である。民衆の意思が、選挙という形では、政治に反映しない国家だけに、その動向に注意しなければならない。
インドは130発、パキスタンは150発の核弾頭を保有しているけれど、作戦配備はしていないとのことである。けれども、両国はカシミールをめぐって厳しい対立関係にある。現に、武力衝突も発生している。しかも、8月5日、インド政府はジャム・カシミール州の自治権を剥奪すると発表したのである。緊張が高まることは間違いない。核兵器の使用される危険性がある。核ミサイルの応酬による被害は、当事国だけではなく、地球環境に大きな負の影響をもたらすであろう(※12)。両国の指導者の冷静さが求められている(※13)。
フランスは300発、イギリスは215発の弾頭を保有し、フランスは280発、イギリスは120発が作戦配備されているという。ちなみに、ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギーには核兵器配備されている。核シェアリングである。ターゲットはロシアであろう。そして、現在、NATO軍は核戦争を想定した訓練を行っているという(※14)。ヨーロッパという狭い地域(ロシアは除く)での核戦争は、壊滅的な被害をもたらすであろう。
イスラエルは80発の弾頭を保有しているけれど作戦配備はしていない。イランが核開発に踏み切った時、イスラエルがどのように動くかが注目される。再び「先制的自衛」を口実としてイランの核施設への攻撃を行うのであろうか(※15)。大規模な軍事衝突が引き起こされる可能性がある。トランプ米国大統領との関係やパレスチナに対する強硬な姿勢を見るとき、その不安は増大するばかりである。
北朝鮮は20発から30発の弾頭を保有しているとされているが、作戦配備はされていない。近時、核実験を繰り返していたが、最近は、核実験は中止され、短中距離のミサイル実験が行われている。核兵器使用のためには核弾頭とそれを運搬する道具が必要であるから、ミサイル実験を軽視してはならない。朝鮮戦争の終結と非核化が求められている。金委員長とトランプ大統領との信頼関係がどこまで続くのか、その基盤の強弱が問われることになる。
このようにみてくると、核兵器保有国は核兵器使用の準備を常態化していることが確認できる。特にアメリカの動きが危険である。トランプ大統領の腹一つで、核兵器はいつでも発射できる態勢にあるのである。
核弾頭の数は、ピーク時である1986年当時の7万発よりは減っているとはいえ、近代化され、威力の増した核兵器が開発されている。人類社会が滅亡するに十分な数である。そして、留意しなければならないのは、意図的な核兵器使用にとどまらず、意図的ではない核戦争の勃発である(※16)。それは核兵器禁止条約でも指摘されているとおりである(※17)。いかなる原因による使用であれ、「壊滅的人道上の結末」が引き起こされることになる。
核兵器保有国は、核不拡散条約(NPT)6条が規定する核軍縮交渉を誠実に行うことや、それを完結させる意思など全く見せていない。核兵器禁止条約の発効が近いとはいえ、核兵器国の実態を確認しておかなければならない。核兵器禁止条約が発効しても、核兵器国は核兵器を進んでなくすことなどしないであろうからである。このような現実とどのように向き合うのか。そのことが問われている。私は、そういう現代にあって、一人の日本の法律家として、次のような決意をしている。
「核兵器も戦争もない世界」の呼びかけ
私は、広島・長崎の被爆者と連帯する日本の法律家として、世界の法律家とりわけアメリカの法律家と市民社会に「核兵器も戦争もない世界」の実現を呼びかける。
被爆者と連帯するとは、被爆者は「核兵器も戦争もない世界」を求めているので、それに共鳴しようという意味である。法律家としてというのは、法の存在意義は、暴力によらない紛争解決を通じて人々の生命と自由と幸福の実現に資することにあり、その法の活用に携わるのが法律家だという自覚である。「核兵器も戦争もない世界」というのは、単に核兵器がないということだけではなく、戦争もない世界という意味である。それは、平和思想の表明や、政治的意思の形成にとどまらず、法的制度として「戦争がない世界」を実現するという決意である。そしてそれは、核兵器にとどまらず、一切の戦力もなく兵士も存在しない世界である。武器も兵士もいない戦争はありえない、永遠平和の土台が墓場ではなく現実の社会に形成されることになる(※18)。常備軍だけではなく一切の戦力の廃止である。
「核兵器のない世界」は、核兵器禁止条約によって、法的枠組みが形成されようとしている。もちろん、条約が発効したからといって、核兵器国が核兵器を廃絶しない限り「核兵器のない世界」は実現しないが、法的枠組みが確立されつつあることは間違いない。その背景にあるのは、核兵器の使用は「壊滅的人道上の結末」をもたらすので、その結末を避けるには核兵器をなくすことである、という思想と論理である。
核兵器禁止条約第1条は、核兵器の使用や使用の威嚇だけではなく、開発、実験、生産、製造、取得、保有、貯蔵、移譲、受領なども違法としている。核兵器の違法性は、「あるべき法」ではなく「ある法」として確定されるのである(※19)。
他方、武力の行使が世界のあちこちで展開されている。戦争や武力の行使が、国連憲章上禁止されているにもかかわらず、個別的あるいは集団的「自衛権の行使」や「テロとの戦い」などを口実として、殺戮と破壊が継続している。多くの人々が、理不尽な死や穏やかな日常を突然に奪われる不幸に襲われている。非人道的事態の発生である。武力の行使に起因する恐怖と欠乏によって、人間の尊厳や平和的生存権を含む基本的人権が侵害されているのである(※20)。私は、そのような事態を放置したくない。戦争や武力の行使は、いかなる場合も許されないとすることが求められている。違法性が阻却される武力の行使はないとされるべきなのである。戦争の非合法化(Outlawry of War)である(※21)。
私は、それは決して不可能なことではないと考えている。世界には、軍隊を持たない、したがって、武力の行使が不可能な国家は26ヵ国ほど存在しているからである(※22)。日本も、この70年以上、他国の兵士や民衆を、直接的には、殺傷していないのである。アメリカへの協力をやめ、この状態を続ければいいだけの話である(自衛隊解体の問題は残るけれど)。非軍事平和の国家の存続は決してユートピアではない(※23)。
私は、私たち被爆国の法律家には、被爆者の決意に共感しながら、「核兵器も戦争もない世界」の実現を求める特別の使命と責任があると考えている(※24)。
被爆者の決意
2001年6月5日、日本被爆者団体協議会(被団協)は、「核兵器も戦争もない世界を求めて」と題する「21世紀被爆者宣言」を発している(※25)。「21世紀被爆者宣言」は次のように始まる。
1945年8月6日、9日。アメリカが投下した二発の原爆は、広島・長崎を一瞬にして死の街に変えました。生きたまま焼かれ、肉親を助けることもできず、いったんは死の淵から逃れた者も、放射線に冒されて次々に倒れていきました。人の世とは思えない惨状でした。
原爆は人間として死ぬことも、人間らしく生きることも許さない、絶滅だけを目的とした絶対悪の兵器です。被爆者が人間として生きるには、原爆を否定するほかに道はありません。
被爆者はこの半世紀、苦しみをのりこえ、世界に原爆被害の実相を語り、「ふたたび被爆者をつくるな」と訴えてきました。被爆者の訴えは「核兵器廃絶」の世論と運動となって広がり、世界の大きな流れとなっています。広島・長崎以後、核兵器の実戦使用は阻まれてきました。世界の世論と運動こそが、核戦争の抑止力になっているのです。
このアピールの精神は、核兵器禁止条約の前文で、「核兵器使用の被害者(ヒバクシャ)及び核兵器実験により影響を受けるものにもたらされる容認しがたい苦しみと害に留意し」とか「核兵器の全面的な廃絶の要請に示された人道の諸原則の推進における公共の良心の役割を強調し、また、このために、国際連合、国際赤十字社…及びヒバクシャが行っている努力を認識し」などという形で生かされている(※26)。
今、世界は、被爆者の想いと運動に共感しつつ、核兵器のない世界に向けて、大きく前進しつつある。核兵器禁止条約の署名国は70カ国を超え、批准書の寄託国は33カ国を超えている(※27)。核兵器禁止条約が発効すれば、核兵器の使用のみならず、その開発、実験、保有、移譲、威嚇なども禁止されることとなり、核兵器保有国や核兵器依存国は、その核兵器依存政策の変更を迫られることになるであろう。核兵器の違法性が国際法規範として確立されることは、「核兵器のない世界」に向けての大きな一歩となるであろう。私たちはその一歩を止めてはならない。
また、同宣言は次のように述べている。
日本政府はアメリカの原爆投下の責任を追及せず、アメリカに追随し、核兵器廃絶の実現を先延ばししようとしています。アメリカの核政策に協力し、「核の傘」を支えていることも私たちは許すことができません。日本は事実上、核武装しているのと同じです。被爆国日本が、核加害国になろうとしているのです。この危険な現状に目をつぶることはできません。
私たちは日本が「核の傘」から抜け出すことを求めます。日米核密約を破棄し、非核三原則を遵守・法制化すること。それが日本国憲法を活かし、被爆国、そして「非核の国」として世界の平和に貢献する道でもあるのです。
ここでは、アメリカの核の傘からの離脱が日本国憲法を生かし、「非核の国」として世界の平和に貢献することだと宣言されているのである。
この宣言は、その後、「ヒバクシャ9条の会」の設立に引き継がれ、被爆者の切実な訴えとして発信されている。2例紹介しておく。
2007年3月に結成された「ノーモァ・ヒバクシャ9条の会」の呼びかけ文の一節には、「戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認を定めた9条は、『ヒロシマ・ナガサキを繰りかえすな』の願いから生まれました。被爆者にとって生きる希望になりました」とある(※28)。
また、2018年8月9日、長崎の平和式典で、被爆者代表の田中熙巳(てるみ)さんが「平和への誓い」を述べている。田中さんは、その中で「紛争解決のための戦力を持たないと定めた日本国憲法第9条の精神は、核時代の世界に呼びかける誇るべき規範です」としている(※29)。
このように、被爆者は、自らの体験から生まれた「ふたたび被爆者をつくるな」という思想に基づき、戦争の放棄はもとより、一切の戦力の放棄と交戦権を否認する日本国憲法9条の世界化を呼び掛けているのである。私は、この呼びかけに応えたいと思う。
核兵器の廃絶と武力の行使禁止、戦力一般の廃棄との関係
1.前提の確認
現代の国際社会において、戦争や武力の行使は、一般的に違法とされているものの、自衛権の行使などは違法性が阻却されている。戦争や武力の行使が合法的である場合が想定されているのである(jus ad bellum)。他方、その武力の行使が許される場合であっても、国際人道法によって禁止されている戦闘手段がある(jus in bellow)。文民と軍人、軍事施設と民生施設を区別しない無差別攻撃や不必要な苦痛をもたらす残虐な兵器(※30)の使用は禁止されている。武力行使は違法でないとしても、残虐な兵器の使用が禁止されているのである。そうすると、核兵器を武力行使の手段として用いることが許されるのは、その武力行使の違法性が阻却され、核兵器が無差別・残虐な兵器ではない場合ということになる。整理しておくと、①その武力の行使が、違法性を阻却されないのであれば、核兵器であれ、通常兵器であれ、その武力行使は禁止されることになる。②その武力の行使が違法でないとすれば、非人道的ではない兵器の使用は許容される。核兵器が無差別・残虐な兵器でないとすればその使用は許されることになる。③逆に、核兵器が無差別・残虐な兵器であるとすれば、当該武力行使が違法でないとしても、核兵器の使用は禁止されるし、その使用は、当該武力の行使を違法とするのである。
2.このように、核兵器使用の禁止と違法化は、武力行使の全般的禁止がなされなくても、その非人道性や国際人道法違反を強調する論理によって実現することは可能なのである。安全保障のために必要かどうかにかかわらず、核兵器使用の非人道性や国際人道法を援用することによって、核兵器の違法性を導き出そうという論理である。これが人道的アプローチであり、「壊滅的人道上の結末」を避けるために制定される核兵器禁止条約の価値観と論理なのである。国家安全保障のためであっても核兵器の使用は禁止され、その禁止を担保するために、開発、実験、製造、保有、移譲、受領など一切の行為が禁止されることになっているのである。そうなると、核抑止論は存在する余地がなくなる。なぜなら、核抑止論が有効であるかどうかにかかわらず、核兵器の使用や威嚇はもとより保有そのものが禁止されるからである。核兵器のないところに核抑止論は成り立たない。ここまで、国際社会は到達しているのである(※31)。この到達点を確認し、前進させなければならない。
3.まさにこの核抑止論の根本的否定が、核兵器依存国は容認できないのである。国家安全保障のために、核兵器の使用は必要だし有用だとしている核兵器依存国からすれば、自らが依存する核兵器を「非人道兵器」として違法化する「核兵器禁止条約」は、自らプライドや正義感を否定しているので、どうしても発効させることはできないのである。だから強烈な抵抗を示しているのである。この対立に中間項はない。核兵器禁止条約は核兵器使用の違法性について一切の除外事由を規定していないからである。核兵器は絶対的に違法な存在とされているのである。
4.だから、核兵器は国家存亡の危機にあっても使用できない兵器ということになる。このことは、国際司法裁判所の、核兵器の使用や威嚇は一般的に国際人道法に違反するが、自衛の極端な状況における核兵器の使用や威嚇についての合・違法の確定的判断はできないとした勧告的意見(※32)の立場を乗り越えているのである。核兵器禁止条約の下では、国家存亡の危機であっても、核兵器の使用や威嚇は確定的に違法とされることになるからである。核兵器使用の絶対的違法の論陣を展開した判事たちの奮闘が結実したといえよう(※33)。
5.私は、この到達点を踏まえ、核兵器禁止条約の早期発効と、核兵器国の取り込みを実現したいと考えている。けれども、気にかかることがある。一つは、核兵器を禁止し、廃絶することは大事業であるにしても、それだけで事足りるのかということと、もう一つは、核兵器国に核兵器を放棄させるために、その国の政府や民衆の意識を変えるために、もう少し工夫すべきことはないのかという懸念である。端的にいえば、被爆者が「ふたたび被爆者を作るな」というスローガンにとどまらず、戦争も戦力も否定する日本国憲法9条擁護になぜこだわるのかという論点である。核兵器の非人道性を自らの体験としている被爆者の、核兵器禁止条約の実現だけではなく、日本国憲法9条についてのこだわりに耳を傾ける必要があるのではないかという問題意識である。核兵器使用の非人道性は、核兵器の禁止にとどまらず、一切の戦争や武力行使の禁止、すなわち自衛や制裁のための戦争も禁止し、したがって、一切の戦力保持を不要かつ違法とする方向への飛躍が求められているのではないかと思うのである。それは、核兵器の持つ特殊性にかかわる議論と直結している。
核兵器の特殊性
核兵器の特殊性については、使用された直後から、様々な形で語られてきた(※34)。
その総括的な整理が核兵器禁止条約前文で次のように行われている。
核兵器の壊滅的な帰結は、適切に対処できないものであること、国境を越えること、人類の生存、環境、社会経済的な発展、世界経済、食料の安全及び現在と将来の世代の健康に重大な影響を与えること、並びに女性及び少女に不均衡な影響(電離放射線の結果としての影響を含む。)を及ぼすこと
このように、核兵器の使用は、人類の生存、環境、食糧の安全、将来世代の健康への重大な影響などが指摘されているのである。要するに、核兵器の使用は、人類社会の滅亡を招来すると危惧されているのである。ハルマゲドン(世界最終戦争)(※35)、終末の到来といわれているのである。私たちは、この核兵器の特性を無視してはならない。この特殊性についての議論は、日本国憲法制定過程でもテーマになっていた。
日本国憲法制定時の議会での議論
日本の憲法の改定作業が帝国議会で行われたのは、1946年6月25日から10月8日までの間である。その間に、核兵器をめぐって次のような議論が行われている(※36)。この政府側の答弁をしているのは幣原喜重郎である。
今日の時勢になお国際関係を律する一つの原則として、或る範囲での武力制裁を合理化、合法化せんとするが如きは、過去における幾多の失敗を繰り返す所以でありまして、もはや我が国の学ぶべきところではありませぬ。文明と戦争とは結局両立しえないものであります。文明が速やかに戦争を全滅しなければ、戦争がまず文明を全滅することになるでありましょう。(8月27日答弁・288頁)
原子爆弾というものが発見されただけでも、或戦争論者に対して、余程再考を促すことになっている、…日本は今や、徹底的な平和運動の先頭に立って、此の一つの大きな旗を担いで進んで行くものである。即ち戦争を放棄するということになるということになると、一切の軍備は不要になります。軍備が不要になれば、我々が従来軍備のために費やしていた費用はこれもまた当然に不要になるのであります。(8月29日答弁・321頁)
このように、当時の日本政府は、原子爆弾が発見されただけでも戦争の在り方を見直さなくてはならない。武力制裁を合理化、合法化することは失敗を繰り返すことになる。それは、戦争が文明を滅ぼすことにつながる、としているのである。「核の時代」の戦争が文明を滅ぼすことになるとすれば、戦争を放棄しなければならない、戦争を放棄すれば、軍備は不要になるという簡潔な論理である。このような議論が、日本国憲法9条制定の背景に存在したのである(※37)。そして、日本国憲法制定に大きな影響を与えた連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーの言動も無視することはできない。
マッカーサーの対日理事会でのスピーチ
1946年4月5日、ダグラス・マッカーサーGHQ最高司令官は、極東委員会の出先機関である対日理事会において次のような演説をしている(※38)。
提案されたこの新憲法の条項はいずれも重要で、その各項、その全部が、ポツダムで表現された所期の目的に貢献するものであるが、私は特に戦争放棄を規定する条項について一言したいと思う。これはある意味においては、日本の戦力崩壊から来た論理的帰結に外ならないが、さらに一歩進んで、国際分野において、戦争に訴える国家の主権を放棄せんとするのである。日本はこれによって、正義と寛容と、社会的ならびに政治的道徳の厳律によって支配される国際集団への信任を表明し、かつ自国の安全をこれに委託したのである。
近代科学の進歩のゆえに、次の戦争で人類は滅亡するであろう、と思慮ある人で認めぬものはない。しかるになおわれわれはためらっている。足下には深淵が口を開けているのに、われわれはなお過去を振り切れないのである。そして将来に対して、子供のような信念を抱く。世界はもう一度世界戦争をやっても、これまでと同様、どうにか生き伸びうるだろう。
マッカーサーは、日本の戦力放棄は、日本軍崩壊の当然の帰結というだけではなく、戦争に訴える国家の主権を放棄し、自国の安全を正義と寛容、社会的、政治的道徳の規律によって支配される国際社会に委託を意味しているとしているのである。そして、近代科学の進歩(これは原子爆弾の発明を意味している)のゆえに、次の戦争で人類は滅亡するであろうと予言しているのである。
このマッカーサーの対日理事会での演説は、幣原喜重郎の国会答弁の中でも引用されている(※39)。幣原とマッカーサーに共通するのは、日本国の憲法から、戦争だけではなく、軍備も排除しようとしていることと、その理由を原子爆弾の発明に求めていることである。問題は、この二人の発想と説明にどの程度の説得力を認めるかである。
私も、彼らのこの言動が、純然たる平和主義の発露であるなどとは考えていない。幣原は天皇のために最後の御奉公をと決意していたし(※40)、マッカーサーは占領政策の都合上天皇を利用していた。天皇の存在は100万人の軍隊の存在に匹敵するというのである(※41)。二人にとって、呉越同舟のようではあるが、天皇を残すことは必要なことだったのである。当時、ソ連やオーストラリア、オランダなどは、天皇を戦犯として処罰すべきという意見を持っていた。そのソ連などの意見を封ずるために、日本軍の復活を不可能とする戦力放棄を取り入れたのだ、という説明が行われている。マッカーサーが朝鮮戦争時に、原爆使用を考えたことなどを想起すれば、その説明に一定の説得力はありそうである。もっと冷めた言い方をすれば、二人は、天皇の生き残りと活用のために、原爆を利用したのかもしれない。言い換えれば、天皇の戦争責任を、原爆被害によって、隠ぺいしようとしたのかもしれない。日本の敗戦は原爆投下のせいだという神話(※42)の利用である。
けれども、原子爆弾が発明され、現実に使用され、いつまた使用されるかわからない「核の時代」にあって、武力による紛争解決が続くとすれば、戦争が文明を滅ぼし、人類が滅亡することになるという彼らの予言は正鵠を射ているのではないだろうか。だとすれば、彼らの原爆に対する言及が、それぞれの政治的思惑によるものであったとしても、私たちはその言説に耳を傾けなければならないであろう。そこで次に、武力で国際紛争を解決しようとすれば、核兵器依存は続き、戦争が文明を滅ぼすという彼らの予言を検証してみよう。
武力による紛争解決と核兵器の関係
武力で物事を解決しようとすれば、核兵器は防御不能であるがゆえに「最終兵器」となる。だから、核兵器国は手放そうとしないし、他国には持たせようとしない。核兵器国が核不拡散には熱心だけれど、NPT6条の核軍縮義務の履行が遅々として進まない理由はここにある。俗な言い方をすれば、「俺は持つお前は持つな核兵器」ということである。
核兵器は対抗手段のない「最終兵器」であるがゆえに、問題を武力で解決しようとすれば、核兵器を手放すことは軍事的合理性に反することになる。より強力な軍事力を備えることが自国の平和と安全のために必要だと考えれば核兵器の保有や使用は当然の結論である。結局、武力で国際紛争を解決しようとすれば、核兵器に依存することになるのである。これが、核兵器が存在する限り「核抑止力」は手放さない、との言明につながるのである(※43)。こうして、「核兵器のない世界」は何時実現するのか、不透明なまま推移することになる。
そして、仮に、平時において核兵器使用の禁止が約束されていたとしても、戦時になれば、その約束は反故にされるであろう(※44)。結局、「核の時代」にあって、武力で紛争解決をしようとすれば、核戦争を招来し、人類社会の破滅をもたらすことになるのである。
その破滅を避けたいのであれば、核兵器の使用を禁止しなければならないのだけれど、武力での紛争解決が容認される限り、核兵器への依存は続くであろう。それは、論理的整合性を問うまでもなく、現実の世界が証明している。今、世界には1万4000発弱の核兵器があるとされている。「核の時代」は続いており、「終末時計」は2分前を指しているという(※45)。人類は滅亡の淵にいるのかもしれないのである。
このように考えれば、マッカーサーと幣原の予言は、単なる思い付きではなく、その後の現実世界を鋭く描き出していたことになる。
私は、彼らの現実政治家としての限界にのみ目を奪われるのではなく、その言動の中にある継承すべき部分にも光を当てなければならないように思うのである。
それでは、なぜ、彼らの中に、私たちが継承すべきものが胚胎していたのであろうか。
マッカーサーと幣原の言動に影響を与えた思想と運動(※46)
1920年代のアメリカに、戦争非合法化(outlawry of war)運動があった。弁護士サーモン・レビンソン、哲学者ジョン・デューイ、ウィリアム・ボーラー上院議員らによる運動である。その主張の骨子は、次のとおりである。
戦争を前提とする体制が戦争を再生産し続けているのであり、その体制を根底から変えなければ人類は戦争から解放されない。いかに戦争の違法化を目指しているにせよ、制裁戦争を認め、戦争を問題解決の手段としている限り、軍備は正当化され、国民は戦争に駆り立てられる。逆にいえば、戦争という制度を合法的存在としている国際法と国内法の体制を廃絶しない限り、戦争が廃絶されることはない。戦争を真に不可能にする唯一の方法は、国民が戦争に参加しないことである。戦争という制度を廃絶するためには、国民がそれを自らの意思として表明しなければならない。戦争は決してなくならないことを前提にするのではなく、戦争によらなくても紛争を解決する方法を探り出すことを国民一人一人が自ら追求し、国民の抗しがたい要求の結果として戦争を廃絶(the abolition of war)していかなければならない。
この運動は、全米で展開され、彼らのパンフレットは100万部以上発行され、200万人を越える戦争非合法化を求める署名が集まったという。これはアメリカ史上最大の署名運動だという。きっと、私も署名したであろう。
そして、この運動は、パリ不戦条約(1928年)(※47)に大きな影響を与えたとされている。河上暁弘は、「パリ不戦条約は、この運動に大きな影響を受けています。不戦条約を結ぶことを決めた上院の外交委員長は、この運動の指導者のひとりであるボーラーでした。運動の仲間にはノックス元国務長官もいて、これがケロッグ国務長官に影響を与えたと考えられます。また、日本の外務省は不戦条約を結ぶ際、この条約について実によく調べていますが、条約の思想的淵源に戦争非合法化運動を挙げています。また私は憲法九条の思想的淵源は何かという研究をしていますが、これも不戦条約、そしてもともとは戦争非合法化運動にあります。憲法九条を起草したのは幣原首相とマッカーサーだと言われますが、幣原はかつて駐米大使を経験し、ウィルソンやケロッグやボーラーとつながりがあるのです」としている(※48)。河上は、この大統領、国務長官、上院外交委員長などを巻き込んでの運動が幣原に影響を与えたであろうと示唆しているのである。
ところで、結局のところ、レビンソンらの主張は不戦条約には採用されなかった。不戦条約は、戦争は違法とした。そしてそのことは歴史的出来事であった。けれども、違法ではない武力の行使を認め、戦力の保持は排除しなかったのである。違法ではない戦争のための戦力の保持という枠組みでの条約だったのである。そして、その限界は、国連憲章にも継承されている。
幣原が、この運動にどの程度共感していたかはともかくとして、その主張を理解する知性は持ち合わせていたことは間違いないであろう。そして、その運動は幣原の思想形成に何らかの影響を与え、それが日本国憲法制定時の幣原の言動として湧出してきたことは十分に考えられることである。核の時代おける戦争は文明を滅ぼすことになる。一切の戦争と戦力を放棄するとの構想は、戦争非合法化運動と通底するからである。
マッカーサーについてはどうだろうか。河上も山室信一も、マッカーサーの1951年の上院外交合同委員会での証言に着目している。彼が「日本人は自らの決断によって「戦争の廃絶」(the abolition of war)や「戦争の非合法化」(outlawing war)を憲法に書き込んだ」と述べている部分である。その用語は戦争非合法運動の用語だというのである。マッカーサーが1920年代の戦争非合法化運動について知識を持っていたことは彼自身が述懐している。もちろん、陸軍のエリートであった彼は、その運動とは対立していた。けれども、対立するがゆえに、その思想を深く知る機会でもあったであろう(※49)。原爆投下の影響も、天皇の必要性も理解していたマッカーサーが、幣原とともに非戦・非武装の思想と規範を定立するうえで、非合法化運動の水脈を想起したという推測は、決して荒唐無稽ではないであろう。
また、山室は、マッカーサーの下で、日本国憲法の起草にかかわったアメリカの人々が、不戦条約がこうした非合法化運動の熱気の中で、批准された時代に学生生活を送ったり、法律家や行政官として歩み始めた事実は、憲法9条の思想水脈を考える場合に無視できない歴史的背景であろうとしている(※50)(※51)。
戦争非合法運動の特徴は、戦争を一切認めなかったことにある。制裁としての戦争、自衛のための戦争、正義の実現としての戦争なども、法の枠外に置いたのである。紛争を武力で解決することを否定し、裁判による解決を提唱したのである。徹底した平和思想であると同時に法の支配、紛争の裁判による解決を提唱していたのである。そして、もう一つ看過してならないのは、この運動は民衆の支持が背景にあったことである。自立した市民、市民社会との連携の大切さが確認できよう。法の支配と市民社会への信頼は、宗教的な祈りや個人的な抵抗を超える理論と行動であることに着目しておきたい。
河上は、憲法9条の思想的淵源に、時代を異にするアメリカ市民の「戦争非合法化運動」があったとするならば、憲法9条成立の歴史的意味が、より国際的に深められるのではないだろうか。なぜなら、平和、人権、民主主義を希求してやまない市民の諸実践が、過去から未来へという形で、また、国境と民族を超えて、相互に影響を与え合っている事実が浮び上ってくるからである、としている(※52)。
私は、河上の推論を支持したい。そのうえで、今、私たちが何をしなければならないのかを考えてみたい。
私たちに求められていること
本稿の冒頭で述べたように、現在、大国間に核軍拡競争の兆候が現れている。日本政府もその流れを押し止めようとはしていない。むしろアメリカ一辺倒の姿勢が顕著である。アメリカに追随し、「積極的平和主義」などとして、自衛隊を海外に派遣し、武力での紛争解決に手を染めようとしている。
けれども、核兵器禁止条約を発効させようとする力や憲法改悪を許さない力も間違いなく働いている。絶望や幻滅にとらわれることはない。希望の道は拓かれているのだ。
確かに、巨大な力を持った者が、その力が物理的暴力であれ、資本力であれ、自ら進んで投げ出すことなど想定できない。それは人間の本性かどうかはともかくとして、私たちが容易に確認できる現実である。彼らからその力をはぎ取るのはその力を凌駕する社会的力だけである。核兵器という究極の暴力を保有し使用する権限を持つのは、核保有国の政治的責任者である大統領や首相である(各国によって決定権者は異なる)。彼らがその立場にあるのは、国民の同意である。直接的であるか間接的であるか、またその割合もともかくとして、核の発射ボタンを手に持つ者の正統性は国民の支持を根拠としているのである。だとすれば、その正統性を付与できる国民の意思の転換があれば、彼らの正統性を剥奪することも可能ということになる。非核の政府を求めるためには、非核の政府を求める多数派の形成が前提ということになる。そのために何が必要か。核兵器のいかなる使用も「壊滅的人道上の結末」をもたらすことを理解してもらうことである。その「壊滅的結末」の歴史的現実が、広島・長崎の原爆体験をはじめとするヒバクの実相である。その実相を理解してもらい、核兵器廃絶の意思を形成してもらうことである。平穏な日常が、理不尽に奪われる苦痛や被害は、多くの人と共有できるであろう。それは人道の基礎だからである。核兵器禁止条約も、「ヒバクシャの容認できない苦痛と被害」を基礎としている。世界は、核兵器国などの抵抗はあるけれど、間違いなく核兵器と決別しようとしている。核兵器は必ず廃絶できる。それは人間が作ったものだからである。そのためには、再び核軍拡競争など許してはならない。
その運動の上で、日本国憲法の役割は大きい。戦争の放棄だけではなく、戦力も交戦権も否定しているからである。そして、私たちは、約100年前、アメリカで、戦争そのものを廃棄しようという運動があったことを確認した。もちろんその運動は突然現れたものではなく、世界から戦争をなくし、恒久平和を念願する思想と運動を継承するものであった。
ところで、当時と現在の最も大きな違いは、人類は核兵器を持ってしまったということである。憲法学者樋口陽一は次のように言う。国連憲章が1945年6月26日、サンフランシスコで作成されたとき、人類はまだ核兵器が何を意味するのか知らなかった。その国連憲章が最終的には武力による平和という考え方に立脚していたのに対し、8月6日(広島)と8月9日(長崎)という日付を挟んだ後の1946年日本国憲法にとっては、「正しい戦争」を遂行する武力によって確保される平和、という考え方をもはや受け入れることはできなくなった。私たちは、ここに、一つの説得的な結論を見出すことができる。
ただし、樋口は、次のように付け加えている。核兵器に訴えてまで遂行されるべき「正しい戦争」はもはやあり得ないという説明は、確かに一つの説明となるだろう。とはいえ、それだけでは十分ではない。「ハイテク戦争」や「きれいな戦争」を演出して行われるとき、「正しい戦争」を否定する論理は出て来ないからである(※53)。
樋口は、私たちに、核兵器使用の非人道性の主張の説得力を認めつつ、非人道的ではない戦争は認めるのか、と問いかけているのである。樋口は言外に非人道的でない戦争などありえないことを前提に、核兵器の廃絶にとどまらない、戦争そのものの否定を示唆しているのである。私たちは、その問いに答えなければならない。
1920年代のアメリカでは、第1次世界大戦の実情を見る機会があった。その戦争も残虐なものであった。けれども、核兵器はなかった。彼らは、核兵器のない時代に、戦争を合法的な制度としている国際法と国内法に根本的な疑問を投げかけ、戦争の非合法化を主張したのである。戦争の手段・方法の無差別性や残虐性を問題にするだけではなく、戦争そのものの合法性を奪い取ろうとしたのである。その論理は前にみたとおりである。ここにはコペルニクス的大転換がある。それを、日本国憲法9条2項は継承しているのである。国際連盟や国際連合では実現しなかったすべての戦争と戦力の放棄である。私たちはその到達点を確認しなければならない。核の時代にあってその地平から後退することは、人類を滅亡へと導くことになるからである。
その運動から100年後の今、私たちは、憲法9条を改定しようとする勢力との戦いの正念場を迎えている。あわせて、核兵器に依存する勢力と対抗しながら、核兵器禁止条約の発効を目指している。私たちは、日本国憲法9条2項に結実している、戦争非合法化運動にもう一度光を当てながら、憲法9条を守り、世界に広げる任務が課されているようである。そして、「壊滅的な人道上の結末」を避けるための核兵器禁止条約の発効を実現しなければならない。この二つは、密接に関連しつつも、別の課題であることを認識しながら、進めなければならないであろう。人類と核兵器は共存できないし、核兵器が使用されれば、戦争が文明を滅ぼし、人類社会は消滅するかもしれないのである。そして、戦争での問題解決を認める限り、核兵器国は核兵器を放棄しないであろう。戦争そのものの廃棄も求められているのである。さあ、また一歩を進めよう。